第一章: 雲上の処刑台、旋律は血に濡れて
「音を殺せ! 鼓膜を叩き潰せ!」
耳元で炸裂する悲鳴すら、海抜一万メートルの暴風に喰らい尽くされる。
激震を繰り返す銀製イヤーカフが、過剰な音圧を拾って皮膚の奥深くまで振動を伝播させていた。
視界を覆う濡れた黒髪。
蒼白な頬を伝い落つるのは、雨水ではない。
高周波に破壊され、潰れた両耳から溢れ出る熱い粘血だ。
油と返り血で漆黒に固まった燕尾服の裾をなびかせ、レオン・ヴァルハイトは鋭い三白眼で包囲網を睨みつけた。
大聖堂の頭上から雲海へ向かって突起状に突き出た細い空中回廊。
足元は白銀の雲海に没し、ひとたび足を踏み外せば無の虚空へと永遠に呑み込まれる。
「怯むな! 狂い咲いた調律師を囲め!」
白銀の全身甲冑に身を包んだ警備兵たちが、高周波の超音波振動を帯びた音波槍を密密と構え、肉薄してくる。
槍先が空気を切り裂くたび、キィンと不快な金属摩擦音が脳膜を直接刺した。
レオン・ヴァルハイト「黙れ……その不調和な音が、僕の脳を汚しているんだよ」
掠れた吐息とともに呟くレオン・ヴァルハイトの背で、黒銀の巨大な太刀が狂歓に身震いした。
鍛え抜かれた鋼の刀身に刻まれた音符状のルーン文字が、おぞましい赤紫の光芒を放ち始める。
ゆらりと、白銀の髪をなびかせる少女の半透明な姿が、レオン・ヴァルハイトの背後から立ち上る。
十八歳ほどの年齢を残した透き通る影。
その瞳は波形のごとく激しく明滅し、湿り気を帯びた幻影の吐息がレオン・ヴァルハイトの血濡れた首筋を優しく撫でまわした。
オルフェウス「ふふ……良い声で鳴いて? レオン、ワタシたちの二重奏で世界を切り裂いてあげましょう」
耳元で囁くオルフェウスの甘い声が、脳髄を直撃し、痺れさせる毒となって全身の脈管を駆け巡る。
舌の裏側に湧き上がる鉄の味。
脊髄を駆け上がる灼熱の感覚。
レオン・ヴァルハイト「ああ……鳴れ、オルフェウス!」
レオン・ヴァルハイトは柄を固く握り締め、一気に居合の動作で刃を引き抜いた。
斬撃が生み出した超音速の波形が、空間そのものを爆砕する。
最前列を突き進んでいた警備兵三人の重装甲が、悲鳴を上げる間もなく叩き割られた。
肉が弾けて裂け、骨が粉砕され、豪快に噴出する鮮血の霧が空中回廊を濃密な鉄の匂いで満たしていく。
オルフェウス「あはっ! 高音の悲鳴! 最高に美しいCシャープ!」
半透明な少女の幻影が、肉体の解体舞踏に合わせて優雅に空を舞う。
無数に繰り出される音波槍の群れがレオン・ヴァルハイトの皮膚をかすめ、燕尾服の肉厚な生地をズタズタに切り裂く。
だが肉体の痛みは即座に、脳を焼き尽くす快楽の旋律へと変換されていった。
一閃、二閃。
魔音刀が空を切るたびに、重低音の衝撃波が回廊の重厚な石造建築を粉砕する。
絶叫と無念の呪詛、砕けた肉片が白銀の装甲に打ちつけられる湿った打撃音。
それらすべての惨劇が完璧なピッチで揃い、レオン・ヴァルハイトの頭の中で美しき曲へと組み上がっていく。
最後の一人を生ごみの肉塊へと変え、レオン・ヴァルハイトは刃に付着した血を鋭く振り払った。
静寂が訪れるはずの雲上回廊に、転がった壊れかけの通信機からザザッとノイズが混じる。
アリア・フィロメラ「始まりましたね、哀れな調律師。貴方のその狂音こそが、我が計画の最後の鍵なのです」
氷のように無機質な女の声が、暴風を容易く突き抜けて脳膜へと直接響き渡った。
第二章: 偽りのハーモニーと絶望の旋律

天空都市アルモニアの中枢に佇む『天上のオルガン』。
そびえ立つ無数の銀色パイプが、不気味な光を脈動させながら、重厚な低音を空気に吐き出している。
巨大な音響動力室の中央、無機質な輝きを放つ高壇上に彼女は立っていた。
精密な機械仕掛けの簪で燦然たる金髪を整えた女性、アリア・フィロメラ。
寸分の乱れもない白銀と純白のドレスを纏い、感情を完全に削ぎ落とした氷青の瞳でレオン・ヴァルハイトを見下ろす。
アリア・フィロメラ「不協和音は排除されねばなりません。静寂こそが、この世界に与えられる唯一の救済なのです」
アリア・フィロメラが細い指先を優雅に滑らせると、長大なオルガンの鍵盤が意志を持ったように沈み込んだ。
頭上の巨大パイプから降り注ぐのは、優しく、しかし全神経を麻痺させる完璧に整えられた絶対の調和。
レオン・ヴァルハイト「これが……都市の音だと? 吐き気がする。下層の連中の息の根を止め、感情を押し潰して作った偽物の調和だ!」
レオン・ヴァルハイトは血塗られた燕尾服の胸元を力任せに握りしめ、過酷な音圧に耐えかねて地面に膝をつきかけた。
耳奥に埋め込まれていたイヤーカフが破裂し、鋭利な銀の破片が鼓膜の内側を刺し穿つ。
脳裏に直接、都市の住民たちの『無音化』された意識が濁流となって流れ込んでくる。
欲望も、憤怒も、愛すらも去勢された空虚な波形。
アリア・フィロメラは冷ややかな微笑を唇に浮かべ、死角から尖ったナイフを突き刺すように言葉を紡ぐ。
アリア・フィロメラ「貴方も同じでしょう、レオン・ヴァルハイト。愛した盲目の少女の魂を切り刻み、鉄の器に閉じ込んだ」
アリア・フィロメラの放つ言葉の刃が、レオン・ヴァルハイトの意識の奥底に潜む傷口を容赦なく抉り出す。
アリア・フィロメラ「救えなかった罪から逃げるため、彼女の死に際の苦痛の叫びを『美しい音楽』だと自分に言い聞かせている……悪魔はどちらですか?」
レオン・ヴァルハイト「が……あ、ああああっ!」
視界が急激に歪み、自慢の絶対音感が濁ったノイズで埋め尽くされていく。
握りしめた魔音刀が鉛のように重く、血の通わない冷たさへと変質していく。
刀身から浮かび上がるオルフェウスの影が、苦痛に顔を歪ませ、泡となって消えそうに揺れた。
オルフェウス「レオン……頭が、割れる……ワタシの音が……消える……」
アリア・フィロメラ「さあ沈黙しなさい、哀れな不協和音たち。全人類の自我を消去し、永遠の無音世界を完成させます」
『天上のオルガン』が全回路を開放し、指向性の絶対無音波が放射された。
バチバチと音を立て、オルフェウスの刃の表面に亀裂が走る。
黒銀の刀身から血の光沢が劇的に失われ、レオン・ヴァルハイトの握力は限界を迎えて抜けていく。
周囲の空気が分子レベルで振動を失い、世界からあらゆる『音』が削ぎ落とされようとしていた。
第三章: 狂乱の二重奏、天空の果てに散る

無音の深淵の底。
すべてが白く塗り潰されていく虚無の世界で、レオン・ヴァルハイトの聴覚を刺したのはかすかな『音』だった。
アリア・フィロメラの放つ完璧な沈黙を破り、亀裂の入った刀身から漏れ出す、湿った息遣い。
オルフェウス「騙されないで、レオン……ワタシは貴方に解体されたあの瞬間から、貴方だけの武器になれて幸せだったの……」
白銀の髪を乱暴に振り乱し、半透明の少女がレオン・ヴァルハイトの背後から強く抱きつく。
冷たくも熱い幻影の唇が、レオン・ヴァルハイトの血濡れた耳たぶを力任せに噛みちぎり、濃厚な鉄の味を体内に流し込んだ。
オルフェウス「ワタシを抱いて、もっと激しくワタシを鳴らして! 綺麗な無音なんて、反吐が出るわ!」
途絶えかけていた鼓動が、灼熱のマグマとなって突き跳ねた。
レオン・ヴァルハイト「ハハ……ハハハハハッ! そうだ、そうだったよオルフェウス!」
レオン・ヴァルハイトは狂った笑い声をあげ、己の腕を自らの刃で深く切り裂いた。
生ぬるい赤が勢いよく噴出し、黒銀の刀身、そして少女の幻影へと降り注ぐ。
血を吸い上げた魔音刀が、歓喜の悲鳴をあげて真っ赤に発光した。
罪悪感など最初から存在しない。
二人で響かせる惨劇と狂気こそが、この世で唯一の至高の旋律。
レオン・ヴァルハイト「喰らえ! 僕たちの不協和音を!!」
《狂乱終焉奏(グランド・ディスコード)》
解き放たれた音波は幾千の刃の形をとり、空間を縦横無尽に刻みながら『天上のオルガン』へと襲いかかった。
ドガァンと天地を揺るがす爆音を立て、巨大な銀のパイプ群が次々と破裂していく。
逆流した過剰音波の波がアリア・フィロメラの完璧な調律陣を木っ端微塵に砕いた。
アリア・フィロメラ「きゃあああっ!? 私の……私の完璧な世界が……不潔な音で汚されるっ!」
頭部の機械簪が弾け飛び、金髪を乱暴に散らしたアリア・フィロメラが自身の耳を押さえて床をのたうち回る。
彼女の鼓膜から真っ赤な血が噴出し、純白のドレスを醜く汚していく。
レオン・ヴァルハイト「終幕だ、アリア・フィロメラ!」
レオン・ヴァルハイトとオルフェウスの影が完全に重なり合い、垂直に跳躍する。
血で染まった刃が都市の心臓部、巨大な音響動力核を一刀両断にした。
ドォン!!!
天空都市アルモニアを支えていた巨大な浮力機関が完全に停止する。
天地がひっくり返り、雲を切り裂いて大聖堂が、貴族街が、下層の廃墟が瓦解を始めた。
上空一万メートルからの猛烈な墜落。
暴風が吹き荒れ、崩壊する都市の破片が灼熱の炎を纏って流星のように落ちていく。
アリア・フィロメラの悲鳴は瓦礫の崩落音の中に消え去った。
赤く染まる黄昏の空の中、一瞬の無重力状態。
レオン・ヴァルハイトは真っ逆さまに落ちながら、透き通る白銀の少女をその腕に強く抱きしめた。
オルフェウス「ねえレオン……聞こえる? 世界が壊れていく、最高のフィナーレよ」
レオン・ヴァルハイト「ああ……最高の音だ。死ぬまで、離さないよ」
二人の身体が熱い炎と血に包まれ、破滅の風の中に溶けていく。
落ちていく天空の果て、二人が奏でる狂乱の二重奏だけが、永遠に世界を揺らし続けていた。