■ 第1章:酸性雨と微笑み ■
ネオ・バビロンの下層区。
視界を黒く塗り潰すほどの暴力的な酸性雨が、錆びついたトタン屋根を狂ったように叩き続けている。
路地裏の淀んだ空気にへばりつくのは、鼻腔を鋭く突き刺すオゾンの刺激臭と、腐敗した生ゴミの饐えた匂い。
足首まで浸かるほどの重い泥濘の中。
男が一人、力なく膝をついていた。
レイ「任務完了(タスク・コンプリート)。対象を排除した」
漆黒のトレンチコートが、油混じりの重い雨水を吸って濡れそぼる。
レイの病的に青白い肌には、一滴の血も通っていないかのような冷たさがあった。
一切の感情を欠落させた三白眼。
まるで無機質なガラス玉のように、足元で蠢く標的を無感動に見下ろしている。
雨粒を鋭く弾く、銀色の義体化された右腕。
その冷たい指先に握られた大型拳銃の銃口から、チリチリと白い硝煙が立ち昇る。
胸部を正確に撃ち抜かれた不適合者の男は、口から大量の赤黒い血泡を吐き出しながら、なぜか薄気味悪い笑みを浮かべた。
「……ハ、ハハッ。機械人形め。痛みを、思い出せ……ハウンド」
男の震える指先が泥を這い、レイの冷たい頬に乱暴に触れる。
べっとりと擦り付けられた鮮血。
その異様なほどの『熱さ』が人工の皮膚を焼いた瞬間、レイの胸の奥でカチリと異音が鳴った。
ドクン、と。
あり得ないはずの動悸。
感情制御スタビライザーによって完全にフラットに保たれているはずの心拍数が、微かに跳ね上がる。
レイは無意識のうちに、トレンチコートの奥底に忍ばせた硬い紙の端へ指を這わせた。
鋭利な断面を指の腹に強く押し当て、皮膚を裂く。
ツクリとした微小な電気信号が走る。
だが、彼が夜な夜な求めている『本物の痛み』には程遠い。
チッ。
舌打ちを漏らそうとした刹那、網膜ディスプレイを血のような赤いアラートが覆い尽くした。
【最優先指令:メインフレーム・アーカイブ近郊。ターゲット『ノア』を抹殺せよ】
都市システムの根幹を揺るがす最悪のバグ。
レイは瞬時に銃をホルスターへ滑り込ませ、泥水を蹴って踵を返す。
血のついた頬を拭うことすらせず、コンクリートの墓標と化した廃墟の街を疾走した。
指定座標。
そこは、色鮮やかなステンドグラスが砕け散った旧時代の廃教会。
重く湿った木製の扉を、銀の右腕で容赦なく蹴り破る。
轟音。
粉塵が舞い踊る礼拝堂の奥。
崩れ落ちた巨大な十字架の下に、そいつはいた。
「……」
透き通るような、雪を思わせる白い肌。
石畳の埃を舐めるほどに長い、月光のような銀色の髪。
ボロボロに擦り切れた純白のワンピースを纏い、華奢な両足は裸足のまま泥に汚れている。
ターゲットは逃げる素振りすら見せない。
それどころか、ゆっくりと、まるで古い友人を迎えるかのように歩み寄り、銃を構えるレイの銀色の義体へと、その細い両手を添えたのだ。
ノア「痛いのはね、あなたが生きている証拠だよ」
枯れた大地で一輪の花が綻ぶような、あまりにも場違いな微笑み。
レイの呼吸が、ほんの僅かに乱れた。
■ 第2章:熱を帯びたノイズ ■
甘い、雨の匂い。
ノアはレイの腕を引くようにして、冷え切った彼の広い胸元へ、自らの顔を深く埋める。
レイ「……対象との接触を確認。これより、排除を実行する」
無機質な音声を紡ぐレイの口。
しかし、引き金に掛けた指が鉛のように重い。
ノアの白い肌から伝わる圧倒的な体温が、厚いコートの繊維を通り抜け、レイの人工皮膚を焼き焦がすように浸透してくる。
彼女の細い腕がレイの背中に回り、ギュッと抱きしめる力が強まった。
警告。未定義のデータパケットを受信。神経系への侵入を検知。
スタビライザーの出力低下。直チニ対象ヲ——
脳髄の奥深くで、けたたましい警報が鳴り響く。
だが、それ以上に強烈な奔流が、レイの神経回路に直接流れ込んできた。
視界が激しく明滅し、頭蓋骨を内側から錆びたハンマーで乱打されるような激しい頭痛が襲う。
ドクン、ドククンッ!
「があ、あっ……!」
胸の奥底を、目に見えない巨大な鉄の爪で乱暴に握り潰される錯覚。
息が詰まる。
喉が焼ける。
それは、レイが幾度となく己の指を切り裂いてまで渇望していた、強烈で生々しい『本物の痛み』だった。
ノア「……よしよし。痛かったね、ずっと。一人で、冷たかったね」
耳元で紡がれる、ひどく甘くて優しい吐息。
レイの銀色の右腕から唐突に力が抜け、重い銃がガランと石畳に転がり落ちた。
ノイズに侵食され、網膜の映像が歪む。
それでも、腕の中にある圧倒的な熱源だけが、唯一の現実としてレイをこの世界に繋ぎ止めていた。
レイ「……お前は、何だ……!」
浅く荒い呼吸を繰り返しなら、レイはノアの細い身体を乱暴に抱え上げる。
そのまま教会の割れた窓から身を翻し、ネオンの海が毒々しく瞬くスラムの闇へと跳躍した。
背中を叩く氷のような雨粒と、腕の中にある尋常ではない熱の塊。
ノアはレイの首筋に頬を擦り寄せながら、愛おしそうに囁く。
ノア「あなたが、私を呼んだんだよ」
同じ頃。
都市の最上層部、雲を突き抜けるアヴァロン・セクターの本局指令室。
一切の汚れを許さない純白の軍服を身に纏い、銀縁の眼鏡を押し上げる男がいた。
プラチナブロンドの髪を後ろに撫でつけたクロムは、モニターに映るレイの異常な生体反応グラフを見つめ、薄い唇の端を吊り上げる。
クロム「ノイズは排除されねばならない。美しい秩序のために」
モニターの青白い光が、氷のように冷たい彼の横顔を照らし出す。
長年連れ添った元相棒の変異。
クロムはその事実に微塵の動揺も見せず、ただ美しいチェス盤の駒を進めるように、手元のコンソールを流麗に叩く。
クロム「……実に滑稽です。さあ、猟犬の首輪を外してあげましょう」
直属の殲滅部隊への出撃命令が、無機質な電子音と共に下された。
■ 第3章:虚飾の記憶 ■
セクター9の最下層。
廃棄された地下水路の奥深くにある、レイの隠れ家。
埃っぽい部屋の隅では、音の出ない旧時代のアナログレコードが虚しく回り続けている。
換気扇の鈍い回転音だけが響く中、レイは古びたソファに深く腰を沈めていた。
テーブルの上には、二つの欠けたマグカップ。
ノアが淹れたという、黒く濁った液体。
レイはそれを一口啜り、眉間を微かに寄せた。
レイ「……データにない味がする。味覚センサーの不具合と推測される」
普段、コーヒーからはただの『苦味のデータ』しか受信しない。
しかし今、舌の奥でざらつくように感じたのは、微かな甘みと、鼻腔を抜ける泥臭い香りだった。
ノア「ふふっ。美味しい? それ、私が育てたお花の蜜を少し入れたんだ」
ノアは裸足のまま部屋を歩き回り、窓際の色褪せたプランターを愛おしそうに撫でている。
ホログラムではない。
本物の土から芽を出した、小さな青い花。
その背中を見つめながら、レイの胸の奥で再び鈍い痛みが脈打った。
レイ「お前は、何故ターゲットに指定された。目的は何だ」
ノアは花の葉についた水滴を指でそっと拭い、ゆっくりと振り返る。
その顔には、先ほどまでの無邪気さはなく、ひどく透き通った諦観が浮かんでいた。
ノア「私はね、ゴミの集まりなの。この街のシステムが、人間から奪い取った『いらないもの』の寄せ集め」
ノアが両手をレイに向ける。
途端に、レイの網膜ディスプレイに強制的な映像データの転送が始まった。
陽の光が差し込む、小さな部屋。
「お兄ちゃん、見て! 今日はお肉が買えたよ!」
見覚えのない、いや、本来なら絶対に忘れるはずのない少女の笑顔。
その頭を撫でる、義体化される前の、生身の自分の手。
ピーーーーッ!という無機質な電子音と共に、少女が手術台へ運ばれていく光景。
「システムへの適合率を上げるため、不要なメモリーを切除します」という冷たいアナウンス。
「あ、ぐ……ぁ……!」
レイは頭を抱え、マグカップを床に叩き落とした。
黒い液体が飛び散り、陶器の破片が散乱する。
ノアのコアを形成しているもの。
それは、レイがハウンドになる際、代償として脳から物理的に削り取られた『最愛の妹の記憶』そのものだったのだ。
レイ「……これを。俺から奪って、俺を、動かして……!」
ギリリ、と奥歯が砕けそうなほど噛み締める。
光を宿さなかった三白眼の奥底に、真っ黒な炎が泥のように渦を巻いた。
システムに忠実な機械として生きてきた己の存在基盤が、音を立てて崩れ落ちる。





その直後だった。
ドゴォォォォンッ!!
隠れ家の分厚いコンクリートの壁が、火薬の臭いと共に木端微塵に吹き飛んだ。
爆風と瓦礫の雨。
濃密な土煙の中から、赤いレーザーサイトの光線が無数に突き刺さってくる。
重武装を施されたクロムの殲滅部隊が、音もなく部屋へとなだれ込んできた。
■ 第4章:奪われる光 ■
「ぐ、ぅ……!」
崩落した鉄骨の下敷きになり、レイは冷たい床に縫い付けられた。
肺から酸素が押し出され、口の端から一筋の血が滴る。
砂埃が舞う中、硬い軍靴の足音がゆっくりと近づいてきた。
クロム「……随分と人間らしい顔になりましたね、レイ」
純白の軍服には、チリ一つ付着していない。
クロムは銀縁眼鏡の奥で、昆虫の標本を観察するような冷笑を浮かべていた。
彼の足元では、部隊の兵士に両腕を押さえつけられたノアが、必死にレイの方へ手を伸ばしている。
レイ「クロム……ッ! 貴様……!」
クロム「バグを炙り出すには、極上の餌が必要でしょう? 彼女を泳がせたのは、お前の中に残った腐ったノイズを一掃するためです」
クロムの革靴が、瓦礫の下でもがくレイの顔面を無慈悲に踏みつける。
ゴリ、と頬骨が削れる音が鳴り、泥と鉄の味が口内に広がった。
クロム「実に美しい。完璧な機械が、論理を持たない幻影に縋って泥を舐める。これ以上の喜劇はありません」
クロムはゆっくりと腰のホルスターから白銀の拳銃を抜き放ち、その銃口をノアの胸元へと向けた。
時間が、ひどくゆっくりと流れていく錯覚。
レイの瞳孔が限界まで収縮する。
レイ「やめろォォォォォッ!!」
乾いた銃声。
純白のワンピースの中心に、鮮やかな赤が牡丹のように咲き誇る。
ノアの身体がビクンと跳ね、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
拘束していた兵士が手を離し、彼女はレイの目の前、手を伸ばせば届く距離に倒れ込む。
床に広がる、黒ずんだ血の海。
ノアの口から零れる生温かい赤い飛沫。
それでも彼女は、震える指先を必死に伸ばし、踏みつけられているレイの頬にそっと触れた。
ノア「……泣かないで……。もう、痛くない……から……」
ピーーーーーーーーーー。
エラー。スタビライザー限界値突破。論理回路の崩壊を確認。
頭蓋骨の内側で、何かが完全に焼き切れる音がした。
目の前にある、自分の一部。
奪われた光。
それが再び理不尽に踏みにじられ、永遠に失われようとしている。
「……ああ、そうか。これが」
レイの口から漏れたのは、低く、地を這うような呪詛。
彼は瓦礫に潰されていない銀の義体の右腕を振り上げ、あろうことか、自らの首元へとその鋭い指を深々と突き立てた。
クロム「……何?」
ブシャアッ!!
頸動脈の横を物理的に抉り、大量の鮮血が噴水のように天井を汚す。
レイは自身の肉を掻き分け、神経の束を引き千切りながら、首の奥に埋め込まれていた黒いチップ――感情制御スタビライザー――を引きずり出した。
ピクピクと痙攣する銀の指が、血まみれのチップを無造作に握り潰す。
パリィンッ。
■ 第5章:解放された獣 ■
「アアアアアアアアアアアアアアアッッ!!」
喉の奥が裂け、血肉が弾け飛ぶような咆哮。
首から滝のように血を流しながら、レイは巨大なコンクリートの瓦礫を跳ね除けて立ち上がった。
スタビライザーの破壊により、肉体のリミッターが完全に消失する。
脳内を駆け巡る死の激痛は、己が生きていることを証明する至上の歓喜へと変貌していた。
「撃て! 対象を直ちに破壊しろ!」
兵士たちのアサルトライフルが一斉に火を噴く。
鉛の弾雨がレイのトレンチコートを貫き、肩の肉を抉り、脇腹を深く裂いた。
鮮血が空中に舞い散る。
だが。
レイの足は一歩も止まらない。
むしろ、その口元には三日月のような歪んだ笑みが張り付いていた。
レイ「もっとだ……! 足りない……ッ!」
一閃。
レイの銀の右腕が、先頭の兵士の顔面を真っ向から捉える。
頭蓋骨が砕け散る鈍い音。
脳漿と血液が部屋中に撒き散らされる。
反動を利用して跳躍。
次の兵士の首を義体の指で挟み込み、そのまま引きちぎるようにへし折る。
命の刈り取り。
論理と戦術で統率されたクロムの部隊。
だが、痛みと怒りという計算不能なエネルギーだけで動く獣の前では、ただの脆弱な肉の塊に過ぎなかった。
肉が裂ける音。
骨が砕ける音。
絶命の呻き声。
熱い血飛沫を顔中に浴びながら、レイはまるで狂気のワルツでも踊るかのように敵を屠っていく。
クロム「……狂犬が。計算式から外れたゴミは、さっさと消滅しなさい!」
クロムが顔をしかめ、自らの拳銃を乱射する。
弾丸が右肩を貫通する。
それでも、レイの突進は止まらない。
床を蹴り砕く勢いで肉薄したレイは、クロムが防御の姿勢を取るよりも早く、その胸ぐらを鷲掴みにした。
レイ「これが、貴様らが奪った痛みだ」
ドガンッ!!
銀色の右腕が、完璧な秩序を体現していたクロムの端正な顔面に深々とめり込む。
銀縁眼鏡が粉々に砕け散り、鼻骨が折れ曲がる生々しい感触。
クロムの身体は弾き飛ばされ、残骸と化した壁に激突して動かなくなった。
血の雨が降る室内。
静寂が降りてきたのも束の間、破壊された壁の向こう、ネオンが毒々しく光る夜空に異変が起きた。
ブゥン、という無数の羽音。
都市防衛システムが最終フェーズへと移行し、夜空を黒く塗りつぶすほどの殺戮ドローン群が飛来してきたのだ。
■ 第6章:痛みの時間を始めようか ■
無数の赤い照準レーザーが、血まみれのレイの全身を捉える。
だが彼は、空を覆う死の群れには見向きもせず、ゆっくりと床に倒れるノアの元へと歩み寄った。
崩れた瓦礫の上に膝をつき、血だまりの中に横たわる彼女の細い身体を、そっと抱き寄せる。
ノアの白い肌は次第に透明度を増し、足先から淡い光の粒子となって空中に溶け始めていた。
システムへの還元。
彼女の命の終わり。
ノア「……やっと……」
ノアの震える指先が、レイの血塗られた頬を撫でる。
その微かな温もりが、レイの凍りついていた心の奥底を、完全に溶かしていく。
ノア「泣けるように、なったね……」
ふわりと、最後にもう一度だけ微笑んで。
ノアの身体は無数の光の粒となり、ステンドグラスの残骸から吹き込む風に乗って、夜空へと消えていった。
腕の中に残ったのは、ただの冷たい空気だけ。
レイは空を仰ぎ見た。
視界が熱い液体で激しく滲む。
何十年ぶりだろうか。
スタビライザーに奪われ、自傷の刺激でしか誤魔化せなかった感情の奔流。
声にならない嗚咽が喉を駆け上がり、レイは天を仰いで、獣のように声を上げて泣き叫んだ。
「アアアアアアアアアアアアアアッッ……!!」
喉から血が滲むほどの慟哭。
雨音さえも掻き消すその叫びは、己を部品としてしか扱わなかった理不尽な世界に対する、血の滲むような反逆の産声だった。
ひとしきり泣き尽くした後。
レイは乱暴に袖で涙と血を拭い、弾倉の空になった愛銃を床に投げ捨てる。
そして、クロムが落とした鋭い軍刀を、銀の右腕で拾い上げた。
上空では、無数のドローンが一斉に駆動音を高く鳴らす。
圧倒的で絶望的な火力。
普通であれば、命乞いをして這いつくばるほかない絶望の壁。
だが、今のレイの胸の奥には、ノアが残した消えない痛みと、確かな温もりが燃え盛っていた。
ドクン。
ドクン、と。
スタビライザーのない、本物の心臓の鼓動。
軍刀の切っ先を夜空に向け、レイは初めて、人間としての心からの笑みを浮かべる。
泥に塗れ。
血に染まり。
それでもなお、この腐りきった世界を喰い破るという強烈な意思。
狂気と歓喜が入り混じった眼光が、赤いレーザーの海を睨み据える。
レイ「さあ……痛みの時間を始めようか」
ネオンの光を反射して、銀の刃が闇夜を切り裂いた。