冷たい泥が、剥き出しの頬を削り取っていく。
鼻腔を刺すのは、饐えた生ゴミと排泄物。そこに微かな血の匂いが混じっていた。
雨が、降っていた。
泥水に浸かったボロボロの革鎧が重い。
エルヴィンは鉛のような身体を引き摺り、薄暗い路地裏の壁に背を預ける。
泥に塗れて灰色にくすんだ銀髪の間から、血走った三白眼が鋭く周囲を睨みつけた。
手には、無数の刃こぼれが刻まれた黒い長剣。
柄を握る掌の皮はとうに破け、肉と鉄が癒着したようにへばりついている。
『鑑定結果……筋力、魔力ともに最低値。ゴミだな。スラムの泥でも啜らせておけ』
耳の奥で、整った顔立ちをした貴族の嘲笑が反響する。
召喚陣の眩い光。期待に満ちた数分間。
そして、無防備な腹部を容赦なく蹴り上げた硬いブーツの感触。
胃液が込み上がり、エルヴィンは泥溜まりに酸っぱい唾を吐き捨てた。
エルヴィン「綺麗事で腹が膨れるかよ……。泥水啜ってでも、生きてやる」
掠れた獣のような声が、雨音に溶ける。
足元のゴミ山の陰から、カサリと音が鳴った。
無意識に剣の切先を向けた。
そこにいたのは、擦り切れたフード付きのローブを纏う小柄な人影。
痩せこけた体躯。ひどく白い肌。
顔の半分を覆う長い前髪の隙間から、赤い魔族の瞳がエルヴィンを見つめ返している。
リリア「あ……殺さ、ないで……」
唇の端から一筋の血を流し、少女はガタガタと震えながら身をすくませた。
その酷く汚れた姿から、異様なまでの甘い色香が漂ってくる。
魔族の血を引く忌み子。数日前に路地裏で拾い、なけなしの冷めたスープを半分分け与えた少女――リリアだ。
エルヴィン「……立て。そんなとこで寝てたら、野犬の餌になるぞ」
リリア「エルヴィン……」
リリアはふらつく足で立ち上がると、すがるようにエルヴィンの冷え切った腕に抱きついた。
彼女の頼りない体温だけが、この氷のような世界に残された唯一の熱だった。
ガルダ「お熱いっすねぇ、お二人さん。底辺のドブネズミ同士、お似合いっすよ」
頭上から、濡れたトタン屋根を叩く雨音を切り裂いて軽薄な声が降ってきた。
見上げれば、派手な紫のコートを着た男がしゃがみ込んでいる。
顔の右半分を覆うのはケロイド状の火傷痕。常に口角を吊り上げた底意地の悪い笑み。
裏社会の情報屋、ガルダ。
エルヴィン「何しに来た、ガルダ。死にたいならそのヘラヘラした顔ごと叩き斬ってやる」
ガルダ「物騒っすねぇ。命の値段は相場次第。あんたらの命は、今は底値っすよ。……だから、跳ね上がる取引を持ち込みに来たんす」
ガルダは懐から金貨を一枚弾き飛ばした。
チャリン、と甲高い音を立てて泥水に落ちる。
ガルダ「帝国の補給部隊が明日の夜、西の街道を通る。警備は手薄。荷馬車の中身をかっさらうだけで、一生遊んで暮らせる金が手に入るって寸法すよ」
帝国の補給部隊。
エルヴィンをゴミのように捨てた、あの制服を着た連中。
血走った三白眼が、剣呑な光を帯びる。
エルヴィン「……詳しい話を聞かせろ」

雨上がりの泥濘む街道。
月光を遮る黒雲の下、鉄と肉が激突する鈍い音が響き渡る。
「この、クソガキがァッ!!」
帝国兵の長槍が、エルヴィンの右肩を掠めた。
肉が裂け、鮮血が夜空に舞う。
だが、エルヴィンの表情は微塵も動かない。
エルヴィン「浅いな」
痛覚などとうに焼き切れている。
エルヴィンは槍の柄を左手で掴み、前傾姿勢のまま泥を踏み抜いた。
刃こぼれした黒い長剣が、帝国兵の首筋に深く沈み込む。
ゴキリと頸椎を断つ不快な感触。血飛沫を顔面に浴びながら、エルヴィンは短く息を吐き出した。
警備が手薄だと? ふざけやがって、重装歩兵が五人もいやがる。
ガルダの罠。
背後から、大剣を構えた巨漢の兵士が迫る。
振り返る暇はない。足場は泥濘み、回避のための踏み込みも利かない。
死の気配。
リリア「エルヴィンッ!!」
視界の端を、ボロボロのローブが横切った。
リリアがエルヴィンの背中に覆い被さるように飛び込んでくる。
ザグゥッ!!
肉を断つ、おぞましい音。
リリアの華奢な背中から脇腹にかけて、大剣が深々と斜めに抉り込んだ。
エルヴィン「リリアッ!!」
リリア「あ、あぁ……っ、エルヴィンは、私が守る、の……」
どさりと、エルヴィンの腕の中に血まみれの少女が崩れ落ちる。
生温かい大量の血液が、エルヴィンの革鎧を赤黒く染め上げていく。
むせ返るような鉄の匂い。
エルヴィン「馬鹿野郎!! 何で出しゃばった!」
巨漢の兵士が剣を引き抜き、再び大上段に振り上げる。
だがその刹那、腕の中の少女の赤い魔眼が妖しい光を放った。
リリア「……いいの。あなたが死ぬなら、私が代わりに死ぬから……」
リリアの震える指先が、エルヴィンの傷ついた頬を撫でる。
《血の治癒》
リリアの傷口から溢れ出した血液が、意志を持つかのように這い上がり、エルヴィンの身体に纏わりつく。
裂けた肩の肉が、細胞を強制的に結びつけられるように瞬く間に塞がっていく。
代償として、リリアの顔からは急速に血の気が引き、死人のような蒼白に変わった。
リリア「はぁっ……あ……エルヴィンの匂い……血の匂い……私、あなたの役に、立てた……?」
彼女の赤い唇が、エルヴィンの血塗れの首筋に擦り寄せられる。
狂気に満ちた自己犠牲。エルヴィンの痛みと傷を請け負うことこそが、彼女の生きる価値だった。
エルヴィン「ああ……お前は俺のもんだ。誰にも殺させねぇ」
全身に熱が、異様なまでの力が漲る。
エルヴィンはリリアをそっと泥の上に寝かせると、爆発的な脚力で巨漢の懐に潜り込んだ。
黒い長剣が下から跳ね上がり、鎧の隙間である顎下から脳天までを一撃で貫通する。
息絶え、崩れ落ちる巨漢。
周囲には、五つの物言わぬ肉塊が転がっている。
エルヴィンは荷馬車の幌を乱暴に引き剥がした。
積まれていたのは、僅かな金貨とカビの生えた兵糧だけだった。
疑念が、確信に変わる。
エルヴィン「あのクソ火傷野郎……!」

帝都の白亜の城。
豪奢なペルシャ絨毯の上に、血に染まった報告書が放り投げられる。
レオンハルト「我が補給部隊が、スラムのネズミ二匹に全滅させられただと?」
白銀のフルプレートアーマーに身を包んだ男、レオンハルト。
整った金髪碧眼の顔立ちが、微かな不快感に歪む。
レオンハルト「薄汚いネズミは、光の元で浄化されるべきだ。それが世界の理だよ。……私自ら、駆除に赴こう」
一切の汚れを知らぬ高貴な佇まい。
しかしその双眸の奥底には、異端を赦さない狂信の炎が燃え上がっていた。

スラムの澱んだ空気が、圧倒的な光によって一瞬で灼き尽くされる。
「ガァアアアアッ!!」
エルヴィンの身体が、跳ね飛ばされた小石のように泥水の中を無様に転がる。
右腕はあり得ない方向にへし折れ、左足の骨は砕けて皮膚を突き破っていた。
肉の焦げる異臭が路地裏に充満する。
レオンハルト「泥を這う害獣め。その無様な足掻きは、世界の美しさをひどく損なうのだよ」
月明かりすら霞むほどの眩い白光。
レオンハルトの白銀の剣先から放たれる《聖なる光刃》が、エルヴィンの肉体を無慈悲に抉っていく。
防ぐ手立てはない。
これが、絶対的な力の差。
どれだけ泥水を啜って足掻こうとも、決して越えられない理不尽の壁だった。
ガルダ「いやぁ、お見事っすねぇ、騎士様! 約束通り、こいつらのねぐらを教えた報酬、期待してますよ」
屋根の上から、紫のコートを着たガルダが下劣な笑みを浮かべて見下ろしていた。
エルヴィン「ガ、ル、ダァ……ッ!!」
ガルダ「悪いっすねぇ、エルヴィン。強い奴には逆らえないんすよ。それに、今のあんたらの命は……完全に底値でしょ?」
レオンハルトは汚物を検分するような目でエルヴィンを見下ろし、ゆっくりと剣を振り上げた。
レオンハルト「終わりにしよう。神の御許へ」
リリア「やめてぇぇぇッ!!」
ドクン。
路地裏の空気が、異常な質量を帯びた。
瓦礫の陰から飛び出したリリアが、隠し持っていた短刃で自らの両腕を深く切り裂きながら、レオンハルトへと一直線に突進した。
リリア「エルヴィンを傷つける奴は、全部、全部、私が殺す!!」
リリアの細い血管から、文字通り全ての血液が噴き出す。
それは空中で赤黒い血の槍へと形を変え、レオンハルトへ殺到する。
命そのものを薪にくべる、最期の魔法。
レオンハルト「汚らわしい魔族の血が!」
レオンハルトが光の障壁を展開する。
血の槍は純白の光に触れた瞬間、ジュウッと耳障りな音を立てて蒸発していく。
反射された光の奔流が、防ぐ術を持たないリリアの痩せこけた身体を容赦なく飲み込んだ。
リリア「あ……エル、ヴィン……私、捨てないで、ね……」
フードが焼け落ちる。
長い前髪がチリチリと燃え、赤い瞳から一筋の涙が溢れた。
リリアの身体が、徐々に灰へと還っていく。
パキン、と。
エルヴィンの頭の中で、何かが決定的に砕け散る音がした。
エルヴィン「あ……ぁ……」
他人を信じたいという、最後まで捨てきれなかった淡い本能。
理不尽な世界に対する、諦観に似た服従。
その全てが、リリアの燃えゆく身体と共に灰燼に帰していく。
俺は、また奪われるのか。
こんなクソみたいな世界で、唯一俺の熱になってくれたものを。
ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるな
「返せよォォオオオオオオオオッ!!」
喉の奥から血塊を吐き出しながら、エルヴィンが絶叫する。
その瞬間。
条件を満たしました。固有スキル【泥濘の王(真)】が覚醒しました。
折れた右腕から。砕けた左足から。
泥水のような、漆黒のドロドロとしたオーラが爆発的に噴出する。
それは実体を持った闇。光を喰らい、絶対的な理不尽を暴力で塗り潰す、異端の力。
レオンハルト「な、なんだこの禍々しい気は!? 貴様、本当に勇者か……!?」
漆黒のオーラが、エルヴィンの千切れかけた四肢を強引に繋ぎ合わせる。
バキバキと骨が噛み合う不気味な音を響かせながら、エルヴィンは立ち上がった。
血走っていた三白眼は、底なしの漆黒に染まり抜いている。
エルヴィン「綺麗事じゃ、俺たちは殺せねぇんだよ……!!」
ドォンッ!!
踏み込んだ石畳がクレーター状に爆散する。
エルヴィンの姿が掻き消えた。
光すら置き去りにする速度で、レオンハルトの死角へと入り込んだ。
レオンハルト「ば、馬鹿な! 光の障壁が……!」
刃こぼれした黒い長剣に、泥濘のオーラがどす黒く纏わりつく。
エルヴィンが剣を横に薙いだ。
《泥濘の凶刃》
ガラスが粉砕されるような甲高い音。
絶対不可侵であるはずの光の障壁が、一撃で粉々に砕け散った。
勢いそのままに、黒い刃が白銀のフルプレートアーマーを紙のように引き裂いた。
「ギァアアアアアアアッ!?」
レオンハルトの整った顔が、かつて見せたことのない苦痛と恐怖に醜く歪む。
高貴な血が、腐臭漂う泥水の上に撒き散らされた。
エルヴィン「浄化してみろよ、騎士様。俺のこの、泥まみれの命をよぉ!」
エルヴィンは右足でレオンハルトの膝関節を逆方向に踏み砕き、崩れ落ちた彼の金髪を乱暴に鷲掴みにした。
レオンハルト「や、やめたまえ! 私は、神に選ばれし……!」
エルヴィン「うるせぇ」
ザクリ。
刃こぼれした剣が、レオンハルトの喉元を深々と掻き切った。
気管を断たれ、ヒューヒューと空気が漏れる音。
光の使徒は、己の血とスラムの泥に咽びながら、無様に痙攣して事切れた。
ガタガタ、ガタガタガタガタ。
屋根の上で、ガルダの歯の根が合わない音が響き渡る。
絶対の強者であったはずの騎士が、瞬きする間に屠られた。
その理解を超えた暴力の前に、ガルダの狡猾な計算は完全にショートしていた。
ガルダ「え、エルヴィン……! 待て、俺が悪かった! 金ならある! だから、助け……!」
エルヴィンはゆっくりと首を巡らせ、漆黒の瞳でガルダを見上げた。
エルヴィン「底値の命が、いくら払うって?」
漆黒のオーラが触手のように伸び、屋根の上のガルダの足首に巻き付く。
有無を言わさず、地面へと力任せに引きずり落とした。
グシャァッ!!
全身の骨が不規則に折れ曲がる音。
ガルダ「あ、あ、が、ぁ……」
エルヴィン「安心しろ。お前はすぐには殺さねえ。その命の価値、たっぷりと味わわせてやるよ」
黒い刃が、ガルダの右手の指を一本ずつ、丁寧に切り落としていく。
絶叫がスラムの夜空を切り裂き、やがてそれも肉塊のくぐもった啜り泣きへと変わっていった。
◇◇◇
静寂。
血と泥と、肉の焦げる匂いだけが立ち込める路地裏。
エルヴィンは血濡れた剣を放り投げ、這うようにしてリリアの元へ向かった。
全身の皮膚が焼け焦げ、呼吸もひどく浅い。
生命力は完全に枯渇し、今にもその輪郭が消え入りそうだ。
エルヴィン「リリア、おい、目を覚ませ……!」
震える手で、彼女の炭化した頬を包み込む。
その痛覚への刺激に反応したのか、リリアがうっすらと赤い瞳を開いた。
リリア「あ……エルヴィン……生きて、る……?」
エルヴィン「ああ、生きてる。お前のおかげだ」
エルヴィンは迷わず自らの手首に牙を立て、肉を力任せに引きちぎった。
ドクドクと溢れ出す赤黒い血を、リリアの乾ききった唇に押し当てる。
エルヴィン「飲め。俺の血を飲んで、生きろ」
リリアは小さく喉を鳴らし、エルヴィンの血を貪るように飲み込む。
血を介して、エルヴィンの規格外の生命力が彼女へと直接注ぎ込まれていく。
火傷がジュクジュクと泡立つような音を立てて塞がり、真っ白な肌が元通りに再生していく。
リリア「あぁ……熱い、エルヴィンの熱……嬉しい、嬉しいの……っ」
リリアは血塗れの両腕でエルヴィンの首に縋り付き、その首筋の甘ったるい匂いを深く吸い込んだ。
エルヴィン「お前は俺のもんだ。もう誰にも、死にすら渡さねえ」
リリア「うん……私、ずっとエルヴィンのために傷つくね。だから、ずっと私を壊して、直して……」
血と泥に塗れた二人の唇が、深く重なり合った。
鉄の味がする、狂気に満ちた口づけ。
周囲に転がる凄惨な死体など、もはや二人の目には一切映っていない。
世界中が敵に回ろうと、どうでもいい。
泥濘の底で咲いた歪な愛は、誰にも踏みにじらせはしない。
二人は互いの体温と血の味だけで完結する世界へと、深く、深く沈んでいった。
夜明けの光すら届かない路地裏に、血塗られた笑い声だけが微かに響き続けている。
雨は、とうに止んでいた。