■ 第1章:泥濘に沈む防壁 ■
鼻腔を焦がすのは、鉄錆と肉の焼ける異臭。
足元には異形の残骸が泥のように溶け合い、どす黒い海を形成している。
九条朔は、その血溜まりのど真ん中で片膝を突いていた。
ドクン、と。
内臓が風船のように破裂する感覚。
喉の奥から込み上げる熱い鉄の味を、無理やり飲み込む。
かつて真っ白だった特務機関の防護コートは、返り血と汚泥にまみれ、すでに元の色すら定かではない。
色素の薄い灰色の髪が、じっとりと額に張り付いている。
虚ろな三白眼を伏せ、朔は耳元の通信機に触れた。
天導 凛音「……聞こえている? 九条朔」
通信越しに響くのは、氷のように冷徹なソプラノ。
艶やかな黒髪を揺らし、一切の汚れがない純白のマントを翻す少女の姿が脳裏に浮かぶ。
天導 凛音「足手まといは不要よ。私の部隊に、泥に塗れるような弱者は要らない。お前はもういらない。……部隊から消えなさい」
追放宣告。
最上級特務部隊『アーク』を率いる天導凛音の言葉には、一片の迷いもない。
朔の異能、【ダメージ置換】。
彼が遠く離れた場所で、部隊全員の致命傷をたった一人で肩代わりし続けていることなど、彼女は微塵も知らない。
知るはずがない。朔が、誰にも悟られぬよう完璧に隠し通してきたのだから。
九条 朔「……わかった。今まで、ありがとう」
せり上がる血反吐を押し殺し、朔は静かに笑う。
これでもう、彼女たちは前だけを向いて進める。
俺が弱いから、お前たちが強くなるんだよ。それでいい。
通信を切った瞬間。
朔の細い身体が、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。
冷たい石畳に頬が触れた。
ゴゴゴゴゴゴ……
薄れゆく視界の先。
都市の地下深くから、脈打つような不気味な震動が伝わってくる。
特S級厄災、【星喰い】の胎動。
それを肌で感じ取りながら、朔は血塗れの口角を微かに引き上げた。
■ 第2章:死出の時計と無垢な刃 ■
防衛都市、第一区画。
絢爛なシャンデリアが照らす祝賀会場は、勝利の美酒に酔いしれていた。
天導 凛音「次なる標的は、A級異形。私たちが、この世界を導くのよ」
鋭く意志の強い黄金の瞳を輝かせ、凛音はグラスを掲げる。
無傷のまま連戦連勝を重ねる彼女たちは、己の圧倒的な力を信じて疑わない。
最弱の防壁がいなくなったことで、部隊の士気は最高潮に達していた。
一方、外縁部の薄暗い路地裏。
常に煙草の匂いが染み付いた闇医院のベッドで、朔は痛々しい上半身を剥き出しにしている。
灰原 累「……お前の命はとっくにマイナスだ。さっさと死ねよ、英雄気取り」
ヨレヨレの白衣を羽織り、無精髭を乱暴に撫でながら、灰原累が毒づく。
眼鏡の奥、蛇のように鋭い瞳が、朔の全身を覆う黒いアザを睨みつけていた。
灰原 累「致死量、数百回分の呪毒。次にそのふざけた能力を使えば、肉体が細胞レベルで消滅するぞ」
冷徹な現実主義者からの、非情な余命宣告。
朔は痛覚を遮断した身体をゆっくりと起こし、窓の外を眺める。
朝陽に照らされた街は、忌々しいほどに美しい。
九条 朔「……ブラックコーヒー、淹れてくれないか」
灰原 累「チッ。胃に穴が開いても知らねェぞ」
累が舌打ちをして背を向けた、その時。
空気を切り裂くようなサイレンが、都市全域に響き渡った。
S級部隊が、A級異形との交戦を開始した合図。
■ 第3章:虚構の無敵、破滅の序曲 ■
「キャアアアアアアアッ!」
耳をつんざく悲鳴。
A級異形の鋭利な爪が、凛音の純白の軍服を掠めた直後。
ほんのかすり傷のはずのその箇所から、鮮血が噴水のように吹き出した。
天導 凛音「ガッ……!? あ、ああああっ!」
膝から崩れ落ち、泥に塗れる凛音。
今まで一度も感じたことのない、脳を焼き切るような激痛。
周囲でも、隊員たちが次々と手足を抑え、悲鳴を上げてのたうち回っている。
氷室 雫「ヒ、ヒール! 《広域治癒(エリア・ヒール)》! ……どうして、どうして塞がらないんですかぁっ!」
淡い水色のショートボブを振り乱し、氷室雫が杖を掲げる。
怯えた大きな青い瞳から、ボロボロと涙が溢れ出していた。
これまで彼女の魔法が絶対的だったのは、朔が致命傷を肩代わりし、表面的な傷しか残っていなかったからに過ぎない。
本当の致命傷を前にして、彼女の魔法はただの気休め以下に成り下がる。
天導 凛音「……おかしい。なぜ、痛い? どうして私たちは、今まで一度も痛みを知らなかった?」
視界が、赤黒く滲む。
呼吸の仕方を忘れたように喘ぐ凛音たちの前に、異形が歓喜の咆哮を上げる。
その時。異形の脳内に蓄積された記憶と能力の残滓が、空間にホログラムのように投影された。
■ 第4章:暴かれた凄惨なる真実 ■
空中に浮かび上がったのは、過去の戦闘記録。
最前線で無双する凛音たちから遠く離れた、薄暗い後方陣地。
そこに、泥と血に塗れて這いつくばる、九条朔の姿があった。
『——がハッ、ごふっ……!』
映像の中の朔の腕が、不可視の力でねじ切れる。
凛音が敵の死角から受けたはずの即死攻撃。
それが、朔の身体に【置換】される瞬間。
氷室 雫「あ……ああ、あ、あ、あああ……っ!」
雫は杖を落とし、自身の髪を力任せに掻き毟る。
胃液が込み上げ、美しい医療制服を汚すのも構わず、四つん這いになって嘔吐した。
自分たちの優越感。無敵の力。
その全てが、あの虚ろな目をした少年の命をすり潰して作られた、砂上の楼閣。
天導 凛音「嘘よ……嘘よ、嘘よ、嘘よ、嘘よ!」
爪が剥がれるほど地面を掻きむしり、凛音は泣き崩れる。
自分の傲慢さが、無自覚な甘えが、どれほど残酷に彼を削り取っていたのか。
ピピッ!
凛音の耳元の通信機が、強制的に起動する。
灰原 累「……九条朔が地下へ向かった。特S級、【星喰い】を一人で道連れにする気だ」
天導 凛音「っ……!」
灰原 累「あの馬鹿の余命は、あと三十分。さっさと迎えに行ってやれ。……クソッタレの、英雄サマ」
通信が切れると同時。







地殻が裂け、都市全体が凄まじい轟音と共に崩壊を始めた。
■ 第5章:崩落する都市、狂乱の追走 ■
天導 凛音「どきなさいィィィッ!!」
白銀の刃が閃き、道を塞ぐ瓦礫を粉砕する。
舞い上がる粉塵の中、凛音は狂ったように地下最深部へと疾走していた。
純白だったマントは泥と自身の血で汚れ、美しい黒髪は無惨に乱れている。
嫌だ、死なせない。絶対に謝る。私の命を、全部くれてやるから!
息が切れ、肺が焼け焦げるように痛む。
それでも足を止めない。
通路のあちこちに、べっとりとこびりついた赤黒い手形。
朔が一人で戦い抜き、壁を這って進んだ痕跡を見つけるたび、凛音の心臓が千切れるように軋む。
氷室 雫「九条、先輩……ごめんなさい、ごめんなさいぃ……!」
後ろから、雫がしゃくり上げながら追ってくる。
彼女もまた、自らの罪に押し潰されそうになりながら、必死に足を動かしていた。
天導 凛音「朔ッ! 朔ゥゥゥッ!!」
血まみれの手で、最深部を隔てる巨大な鋼鉄の扉を殴りつける。
肉が裂け、白い骨が覗いても、構うものか。
ドォォォォンッ!
扉を力任せに蹴り破った彼女の網膜を、想像を絶する光景が焼き尽くした。
■ 第6章:神座に座す愚者 ■
ドクン、ドクン、ドクン。
広大な地下空間。
天を突くほどの巨躯を持つ【星喰い】が、都市全体を消し飛ばす極大の熱線を放射している。
その暴力の嵐のど真ん中に。
九条朔は、たった一人で立っていた。
九条 朔「……ふ、ははっ。案外、いけるもんだな」
防ぐのではない。避けるのでもない。
都市に向けられた億単位のダメージを、全て自らの小さな肉体に【置換】し続けている。
両目から、耳から、口から、毛穴という毛穴から鮮血が噴き出す。
肉体が内側から崩壊し、紫色の呪毒がオーラのように彼を包み込む。
その姿はあまりにも痛々しく。そして——神のように美しかった。
天導 凛音「朔ッ! やめて、お願いっ!!」
絶叫と共に駆け寄ろうとした凛音の体が、目に見えない壁に弾き飛ばされる。
朔の身体から溢れ出した呪毒が、絶対的な結界を形成していた。
氷室 雫「嫌……! 《超位治癒(ハイ・ヒール)》! お願い、届いてよぉっ!」
雫が血を吐きながら魔法を放つが、結界に触れた途端に霧散する。
触れることすら、許されない。
泥に塗れる弱者など不要だと切り捨てたのは、自分だったから。
その声に気づき、朔がゆっくりと振り返る。
黒ずんだコートの奥、三白眼が、優しく細められた。
■ 第7章:血だまりのエモーショナル・レクイエム ■
光の粒子が、朔の足元から立ち昇り始める。
肉体の限界。崩壊の始まり。
結界の向こう側で、彼はいつものように酷い疲労感を漂わせながらも、澄み切った顔をしていた。
天導 凛音「嫌っ! 許して、私を許して! お前が必要なの、置いていかないで!」
凛音は結界を両手で叩き、額を打ち付け、血の涙を流して懇願する。
黄金の瞳は完全に自我を失い、ただ目の前の少年を求める獣と化していた。
だが、朔の口から紡がれたのは、怨み言ではなく。
九条 朔「……泣かないでくれ、凛音」
ガラス細工のように脆く、優しい声だった。
九条 朔「俺が弱いから、お前たちは強くなれたんだ。これでもう、お前たちは……本物の英雄だ」
それが、最も残酷な呪い。
自らの命を犠牲にしてまで、彼女たちに『完璧な正義』を与えようとする無垢なる狂気。
天導 凛音「違う! 違うの、朔ゥゥゥゥッ!!」
カァァァァァァァッ!
【星喰い】の全エネルギーが一点に収束し、朔の体内へと飲み込まれる。
圧倒的な光の奔流。
視界が白に染まり、すべての音が消え失せる。
やがて光が晴れた後、そこに星喰いの姿はなかった。
都市は救われた。
残されたのは、血と泥に塗れた、ボロボロの防護コートだけ。
天導 凛音「あ……あ……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
圧倒的な静寂の中。
凛音の絶望的な慟哭だけが、どこまでも深く、地下空間に反響していった。
■ 第8章:永遠に解けない灰色の呪縛 ■
数ヶ月後。
防衛都市は平和を取り戻し、S級部隊は真の英雄として民衆から熱狂的な称賛を浴びていた。
しかし、光の当たる表舞台とは裏腹に、彼女たちの時間は、あの地下空間で完全に停止している。
特務機関の、特別医療病棟。
氷室 雫「九条先輩、また怪我ですか? ふふっ、駄目ですよぉ。私が治してあげますからね」
淡い水色の髪は伸び放題。
虚ろな青い瞳を宙に向け、雫は誰もいない空間に向かって延々と治癒魔法をかけ続けている。
彼女の壊れた精神は、罪悪感から生み出した朔の幻影に、永遠に依存していた。
そして、防衛都市第一区画。
陽の光を完全に遮断した、暗く冷たい自室。
シーツの乱れたベッドの上で、天導凛音は身を丸めている。
彼女の細い腕に抱きしめられているのは、赤黒く変色した朔の防護コート。
鉄錆と泥の匂いを深く吸い込み、彼女は脳髄が焼き切れるような恍惚とした表情を浮かべた。
天導 凛音「朔……今日も私が守ったよ。えらいねって、頭を撫でてよ……」
コートに頬を擦り寄せ、布地にこびりついた彼の血液の跡に、ねっとりと舌を這わせる。
黄金の瞳は濡れ、狂おしいほどの熱を帯びている。
トクン、トクン。
聞こえるはずのない彼の心音を求めて、凛音は自身の胸を強く掻き毟った。
肌が裂け、血が滲む。視界が激しく明滅し、呼吸が浅くなる。それでも、彼女は狂おしく微笑み続ける。
天導 凛音「ずっと一緒よ、朔。ずっと、ずっと、ずっと……」
窓の隙間から差し込む一筋の朝陽が、彼女の狂気に満ちた美しい横顔を切り取る。
世界は救われた。
けれど、彼女たちは永遠に、九条朔という底なしの愛に囚われ続ける。
決して解けることのない、灰色の呪縛の中で。