■ 第1章:錆びた血と甘い劇薬 ■
鉄錆(てつさび)とアンモニアの臭いが鼻腔(びくう)を焼く。
足元のひどいぬかるみは昨夜の雨のせいではない。生温かく赤黒い液体が、ひび割れたアスファルトの隙間をねっとりと埋めているのだ。
ドクン、ドクン。
鼓膜を打つ心音。己のものか。足元に転がる肉塊のものか。
アッシュは、無造作な銀髪から滴る血を手の甲で乱暴に拭った。
鋭い三白眼が見下ろす先には、見慣れた少年の顔が転がっている。数分前まで、なけなしの配給を分け合おうと肩を叩き合った親友の死に顔だ。
その喉笛(のどぶえ)は、アッシュの握るサバイバルナイフで無惨に切り裂かれていた。
指先が、小刻みに震える。
首元の認識票(ドッグタグ)が擦れ合い、チャリ、と乾いた音を立てた。ボロボロに擦り切れた黒のタクティカルコートが、さらに重い赤を吸い込んでいく。
こいつが、ルルの分の缶詰に手を伸ばした。
ただそれだけの理由。急所を躊躇いなく抉り抜くには、十分すぎた。
背後から、細い腕が回される。
血と泥に塗(まみ)れたアッシュの背中に、純白のオーバーサイズワンピースが押し付けられた。
黒髪のボブカットが肩口に擦れ、甘くねっとりとした吐息が耳元を掠める。
ルル「お兄ちゃん、あったかいね」
裸足に不釣り合いな重いブーツ。それが、血だまりをピチャリと踏み鳴らす。
虚ろなまでに真っ黒な瞳が、足元の死体を見下ろして三日月型に歪んだ。
ルル「これで、ずっと家族だね。お兄ちゃんがいれば、他にはなにもいらないの」
狂っている。
理解はしている。だが、背中から伝わるこの熱。それだけが、アッシュの自我を繋ぎ止める唯一の鎖だった。
アッシュ「……ああ。俺が、ルルを守る。俺たちはずっと家族だ」
遠くで、治安維持部隊の甲高いサイレンが夜を切り裂く。
アッシュは血濡れたナイフを鞘(さや)に収め、その細い手を強く握りしめる。
振り返る事なく、暗い路地裏のさらに奥へと駆け出した。
■ 第2章:偽りの食卓 ■
廃教会の重い扉を押し開ける。
途端に、上質な葉巻の煙が紫色の靄(もや)となって立ち込めてきた。
ステンドグラスから差し込む月光の下、長机には不釣り合いなほど豪奢(ごうしゃ)な肉料理が並べられている。
グレイヴ「よく戻った、アッシュ。今日も見事に、家族を守り抜いたようだな」
仕立ての良いスーツを薄汚く着崩した大男だ。金髪をオールバックに撫でつけながら、腹の底から響く声で低く笑う。
顔を斜めに横断する古傷が、蝋燭(ろうそく)の炎に歪んで浮かび上がっている。
部屋の隅。音もなく人影が近づいてくる。
銀糸のような長髪と、焦点の合わない青い瞳。
所々に拘束具の名残があるエプロンドレスの隙間から、鈍く光る機械化された関節が覗く。
シエル「お食事の準備ができました、あなた。上着を、お預かりします」
抑揚のない、機械的な声。シエルはアッシュの血まみれのコートを無表情に受け取ると、丁寧に折りたたむ。
アッシュ「……悪いな。俺がやる」
シエル「肯定します。ですが、母としてのプロトコルが推奨されています。……たくさん、食べてください」
無機質な表情の奥で、微かに口角が上がったように見えた。
狂った世界に取り残された、温かくも歪(いびつ)な家族の団欒(だんらん)。
だが、その仮初めの平穏は強烈な違和感にたちまち塗り潰される。
ルルがテーブルナイフを握りしめ、自らの細い腕を躊躇(ためら)いなく切り裂いた。
赤い筋が走る。
削ぎ落とされた薄い肉片を、彼女はアッシュの皿の上にコトリと乗せた。
ルル「お兄ちゃん、これも食べて。私の、ぜんぶ」
虚ろな瞳が、とろけるような熱を帯びてアッシュを見つめる。
アッシュの喉がゴクリと鳴った。
その一部始終を、グレイヴは極上のワインを舌で転がしながら、底知れぬ笑みで見つめていた。
■ 第3章:崩壊のノイズ ■
轟音(ごうおん)。
ステンドグラスが粉々に砕け散る。色とりどりの破片が凶器となって降り注いだ。
重武装の治安維持部隊が、教会の四方から雪崩(なだれ)れ込んでくる。
グレイヴ「シエル、排除しなさい。ゴミが食卓を汚している」
シエル「肯定します。殲滅(せんめつ)モード、起動」
青い瞳が、血のような赤に染め上がる。
エプロンドレスが風圧で舞い上がり、機械化された四肢が限界駆動の金属音を悲鳴のように上げた。
圧倒的な蹂躙(じゅうりん)。
銃弾の雨を意に介さず、シエルは素手で装甲兵たちの頭蓋を次々と砕いていく。
大理石の床は瞬く間に、肉と鉄の混ざり合う惨(むご)たらしい泥濘へと変わった。
だが。
教会の入り口に、鈍く光る砲塔が現れる。対装甲用の大型パイルバンカー。
アッシュ「シエル!!」
世界が、スローモーションになる。
砲口が火を噴く瞬間。シエルはアッシュとルルの前に立ち塞がり、両腕を大きく広げた。
閃光と爆炎。
シエル「……かぞく、を……」
焼け焦げた匂い。
シエルの上半身が無惨に吹き飛び、飛び散ったオイルと銀色の髪が、アッシュの頬にべっとりと張り付く。
アッシュ「ああああああああッ!!」
喉が千切れるほどの絶叫。
グレイヴがアッシュの襟首を乱暴に掴み、祭壇裏の隠し通路へと引きずり込む。
グレイヴ「喚(わめ)くな! 地下へ走れ!」
暗い階段を転がり落ちながらも、アッシュは燃え盛る教会の残骸から目を離せなかった。
■ 第4章:解体屋の微笑み ■
地下の防空壕(ぼうくうごう)。
埃っぽく冷たいコンクリートの床に、アッシュは膝をついて荒い息を吐き出す。
ルルを背中に庇(かば)い、震える手でナイフの柄(え)を握りしめた。
アッシュ「親父……母さんが……ッ」
振り返ったグレイヴは、葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。
その顔に、先程までの頼もしい父親の面影は微塵もない。
冷酷な計算を弾き出す、死の商人の凍りついた瞳。
グレイヴの手には、銀色に光る小さなデータチップが握られている。
シエルの頭部残骸から、彼が直前に抜き取ったものだ。
グレイヴ「素晴らしい戦闘データだ。これなら軍の上層部に高値で売れる。あの不良品も、最後にいい仕事をした」






空気が、凍りつく。
アッシュの頭の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
アッシュ「……は? なにを……言って……」
グレイヴ「家族とは素晴らしいものだ。互いに利用価値があるうちはな。さて、次はお前たちの解体だ」
暗闇の奥。無数の赤いレーザーサイトが、アッシュたちの身体に突き刺さる。
圧倒的な武装を施されたグレイヴの私兵たちが、音もなく包囲網を狭めていた。
家族など、最初から存在しなかった。
彼らはただの、生きた商品に過ぎなかったのだ。
■ 第5章:見捨てられた縋り糸 ■
アッシュ「ふざけるなあああッ!!」
アッシュは地を蹴った。
死に物狂いで、グレイヴの喉元へ刃を突き立てようと飛ぶ。
だが、歴戦の傭兵でもある大男の拳が、容赦なくアッシュの腹部を粉砕した。
鈍い破裂音。
胃液と血を吐き散らし、アッシュは冷たい床に這いつくばる。
肋骨が何本も折れ、立ち上がることすらできない。
アッシュ「がっ……ル、ル……逃げ……」
泥に塗れた手を伸ばす。
だが、視線の先で起きた光景に、アッシュは己の目を疑った。
怯えて泣いているはずのルルが、血だまりを避けるように軽やかな足取りで歩み寄り、グレイヴの足元にすがりついて小首を傾げたのだ。
ルル「ねえ、パパ」
舌足らずな声。だが、その瞳には何の温度も宿っていない。
ルル「お兄ちゃん、もう壊れちゃったみたい。だから、私だけ助けて?」
視界が、ぐにゃりと歪む。
耳鳴りが止まらない。
守るべき存在。自分の命よりも大切だった妹。
その言葉が鋭い刃となり、アッシュの自我を粉々に切り刻んでいく。
背中に回されたルルの小さな手に、赤黒く染まったナイフが握られていることなど、知る由もなかった。
■ 第6章:純真なる怪物 ■
グレイヴは満足げに喉の奥で笑い、ルルの細い顎を指で持ち上げる。
グレイヴ「賢い商品だ。美しいガラクタとして、上層部の変態どもに高く売ってやろう」
ルルは無邪気に微笑み、グレイヴの胸元へ身を寄せる。
細い腕が大男の太い首に回され、甘い吐息が葉巻の匂いと混ざり合う。
ルル「うれしい。ねえ、パパ……」
次の瞬間。
ルル「死んで」
躊躇いなく振り抜かれたナイフ。それが、グレイヴの頸動脈(けいどうみゃく)を深々と抉り抜いた。
ブチャッ、と鮮血が噴き出す。
信じられないものを見る目で目を見開くグレイヴ。
ルルは生温かい返り血を全身に浴びながら、クスクスと笑い声を上げる。
ルル「私、パパが嘘つきだって最初から知ってたよ。でもね、ちょうどよかったの」
倒れ伏すアッシュを見下ろし、ルルは恍惚(こうこつ)とした表情で頬を染める。
ルル「お兄ちゃんをからっぽにして、私だけを見るようにしたかったの。ほら、これで本当のふたりきり」
グレイヴ「この、クソガキがあああっ!!」
致命傷を負い、血泡を吹きながらも、怪物のごとき生命力でグレイヴが立ち上がる。
巨大な掌(てのひら)がルルの首を掴み、コンクリートの壁へと力任せに叩きつけた。
同時に、彼の網膜(もうまく)デバイスが赤く発光し、私兵たちの殺戮(さつりく)プログラムが強制起動される。
■ 第7章:泥と血の祝祭 ■
ルル「あ……がっ……」
ルルの身体が崩れ落ちる。純白のワンピースが、真っ赤に染まった。
その瞬間。
アッシュの中で、かろうじて繋ぎ止められていた理性の糸が、ブツリと音を立てて千切れた。
アッシュ「ルルに……触るなああああああッ!!」
痛みなど、とうにない。
砕けた足で跳躍する。銃弾が肩を貫こうが、脇腹の肉を抉り取られようが、歩みは止まらない。
ただの憎悪の塊と化したアッシュは、獣さながらにグレイヴへ飛びかかった。
大男の胸ぐらを掴み、その巨体を床へと引き倒す。
ナイフを落とした手で、近くにあった重いコンクリートの瓦礫(がれき)を掴み上げた。
グレイヴ「狂犬が……離せッ!」
アッシュ「死ね! 死ね! 俺たちの世界から消えろッ!!」
振り下ろす。骨が砕ける音。
振り下ろす。肉が潰れる音。
振り下ろす。断末魔が途絶える音。
返り血で視界が完全に赤に染まっても、アッシュは腕を止めなかった。
かつての父の顔が、原型を留めないただの肉塊に成り果てようと。ひたすらに、重い石を叩きつけ続けた。
■ 第8章:血塗られた揺り籠 ■
静寂。
鼻を突く硝煙(しょうえん)と、濃密な血の匂い。それだけが、地下室に充満している。
私兵たちは主の死によって機能を停止し、ただの鉄くずと化していた。
血だまりの中心。アッシュは荒い息を吐きながら、仰向けに倒れ込む。
四肢はまともに動かない。視界は端から暗転していく。
終わった。
裏切られ、何もかもを失った。
這(は)うような衣擦れ(きぬずれ)の音が近づく。
冷えゆくアッシュの頬に、温かく柔らかい手が触れた。
泥と血に塗れたルルが、覆い被さるようにして彼を覗き込んでいる。
ルル「お兄ちゃん、がんばったね。えらい、えらい」
虚ろだった黒い瞳は、今はとろけるような熱を帯びてアッシュを映していた。
この怪物が、全てを仕組んだのだ。
彼から全てを奪い去り、狂った愛の檻(おり)に閉じ込めるために。
だが。
アッシュは残された僅かな力を振り絞り、その小さな背中にゆっくりと腕を回す。
アッシュ「……ああ。俺が、お前を守った。俺たちはずっと、家族だ」
外の世界は、変わらず絶望的な地獄だ。
頼れる大人など誰一人いない。
それでも二人は、血塗られた互いの体温だけを鎖のように縛り付け合う。底なしの泥濘(ぬかるみ)の中で、永遠の眠りにつくように深く寄り添い合った。