星屑のオルゴールと、透明な君への恋文

星屑のオルゴールと、透明な君への恋文

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第一章 空白の食卓

焦げたトーストの匂いが、鼻腔にへばりついて取れない。

朝の光が差し込む食卓で、母さんは虚空を見つめていた。

視線の先にあるのは父さんではない。壁紙の、小さな剥がれだ。

「あの……すみません。あなたは、どなた?」

母さんの声は、喫茶店で店員を呼ぶときのように丁寧だった。

カチャン。

父さんの手からスプーンが滑り落ち、ソーサーとぶつかる。

「由美子……。俺だよ。隆文だ」

父さんがテーブル越しに身を乗り出す。

その目尻には、幾重もの皺と、滲み出した涙が溜まっていた。

縋るような目。

しかし、父さんが必死になればなるほど、母さんの瞳から光が失せていく。

愛を注ごうとするたび、まるで器の底が抜けるように、母さんの中から「父さん」が零れ落ちていく。

僕はトーストを口に運んだ。

砂を噛んでいるみたいだ。

目の前で両親の関係が崩壊しているのに、僕が気になったのは父さんの涙ではない。

こぼれたコーヒーが、白いクロスに作った茶色い染みの形だけだった。

「湊、お前からも言ってくれ。母さんに……」

父さんの声が震える。

僕は咀嚼を止めた。

面倒だ、と思った。

胸の奥が冷え切っている。凪いだ水面のように、何も感じない。

その時。

ズボンのポケットの中で、硬い異物が熱を持った。

『星形のオルゴール』。

錆びついた真鍮の塊。

いつから持っているのかも定かではないガラクタが、不意に震えだした。

――キリ、キリリ。

ゼンマイなど巻いていない。

なのに、微かな駆動音が骨伝導で響いてくる。

頭の芯が痺れるような、懐かしい痛み。

(お兄ちゃん、はい、これ)

脳裏に、映像が焼き付く。

夕暮れのオレンジ色。

短い指。

おかっぱ頭の少女が、僕に何かを差し出している。

「……誰だ」

呟いた瞬間、心臓が早鐘を打った。

一定だった脈拍が、いきなり暴れだす。

喉が渇く。

視界の端で、ありもしない光の粒が舞った気がした。

母さんが、ふと顔を上げる。

「あら、何か……懐かしい音が」

父さんには聞こえていない。

母さんと、僕だけに届く音。

この家には、僕たち三人以外の「誰か」がいた痕跡がある。

第二章 愛の消失点

夜になっても、家の中は凍りついたままだった。

僕はリビングで、古いアルバムを開く。

七五三。入学式。運動会。

どの写真を見ても、僕は不自然に端へ寄って写っている。

まるで、隣にもう一人、誰かが立つスペースを空けているように。

そこには背景の植え込みや、壁が写っているだけなのに。

「……不自然すぎる」

指先で、その「空白」をなぞる。

父さんは今日、母さんに結婚記念日の思い出を語って聞かせた。

結果は惨憺たるものだ。

夕食の時、母さんは父さんを「親切な隣人さん」と呼んだ。

父さんが愛を叫ぶほど、母さんの記憶領域は上書きされ、白紙に戻る。

まるで、容量オーバーのデータを無理やり詰め込んで、システムがクラッシュしているみたいだ。

テーブルの上で、星形のオルゴールが鈍く光る。

角が摩耗し、手油で黒ずんでいる。

――キリ、キリリ……。

まただ。

今度は、耳鳴りのように鋭く響く。

鼓膜じゃない。脳に直接、音が流し込まれてくる。

「お兄ちゃん」

声がした。

背筋が粟立つ。

振り返っても、誰もいない。

「お兄ちゃん、こっち」

声は、アルバムの「空白」から聞こえてくるようだった。

息が苦しい。

冷徹なはずの僕の目が、勝手に熱を帯びる。

視界が歪み、涙が溢れてくる。

わけがわからない。

悲しいのか? 嬉しいのか?

感情のラベルが貼れないまま、激流のような衝動が体を突き動かす。

「そこに、いるのか?」

僕は震える手で、空気を掴もうとした。

指先が、何かに触れる。

冷たくて、柔らかい、空気の層。

その瞬間。

部屋の照明が明滅した。

オルゴールの音が絶叫のように高まる。

光が集まる。

青白い燐光が渦を巻き、人型を象っていく。

透き通るような肌。

夜空を切り取ったような瞳。

記憶の中と同じ、おかっぱ頭の少女。

彼女は、そこに「在」った。

幽霊ではない。

もっと確かな、重みのある存在として。

第三章 隠蔽された守護者

「やっと、見つけてくれたね」

少女――澪(みお)が、困ったように眉を下げて笑う。

その笑顔を見た瞬間、肺の中の空気がすべて吐き出された。

妹だ。

僕には、妹がいたんだ。

「澪……なんで、今まで」

「シーッ」

澪が、透き通る人差し指を唇に当てる。

彼女の体は不安定だ。

まるで接触不良のホログラムのように、足元からノイズが走り、消えかかっている。

「パパ、またママに『愛してる』って言ったでしょ」

澪の言葉は、世間話でもするように軽かった。

けれど、彼女の左手は見ていられないほど崩れかけている。

「パパの想いが強すぎて、ママの心が溢れちゃったの。だから、私が貰ってあげた」

「貰う……?」

「そう。溢れた分を、私が引き受けるの」

澪が、崩れかけた左手を隠すように背中に回す。

「この家はね、愛が重すぎるの。だから誰かがいなくならないと、バランスが取れない。パパとママの思い出を守るためには、そのための『場所』が必要なんだよ」

彼女の姿が、また一段と薄くなる。

向こう側のカーテンの柄が、彼女の体を透かして鮮明に見えた。

理解したくなかった。

でも、僕の脳は冷酷なまでに状況を分析してしまう。

父さんが母さんを愛し、母さんがそれを受け止める。

その代償として発生する「忘却」を、澪が肩代わりしている。

彼女自身の「存在」を削ることで。

「じゃあ、お前が写真にいないのは……」

「私が『忘れられる』ことで、パパとママの記憶を繋ぎ止めてるから」

澪があっけらかんと言う。

その顔は、聖女のような自己犠牲の色なんてない。

ただ、大好きな家族の役に立てて嬉しいと、無邪気に笑っているだけだ。

「そんなの、おかしいだろ!」

僕は叫んでいた。

喉が張り裂けそうだ。

「お前が消えて、それで守ったことになるのかよ! 僕たちは、お前を犠牲にして笑ってたのか!」

「犠牲じゃないよ」

澪が近づいてくる。

冷たい手が、僕の頬を包んだ。

「これは、私のわがまま。みんながバラバラになるくらいなら、私が透明になって、みんなを包んであげる方がいい」

「嫌だ。僕は忘れたくない。父さんにも、母さんにも、お前のことを思い出させてやる!」

僕は彼女の手を掴もうとした。

すり抜けた。

掴めない。

彼女はもう、ここにはいないのに、ここにいる。

「だめだよ、お兄ちゃん」

澪の瞳から、光の粒がこぼれ落ちる。

「思い出したら、また容量が溢れちゃう。そうしたら、今度は本当にママの心が壊れちゃうよ」

彼女の輪郭が、溶け始めた。

オルゴールの音が、止まりかけている。

「お願い。お兄ちゃんだけは、覚えていて。誰にも言わなくていい。ただ、お兄ちゃんの心の隅っこに、私を置いてくれるだけでいいの」

「澪ッ!」

「私を『秘密』にして。それが、私への一番のプレゼントだよ」

第四章 確かなる痛み

最後の光が弾けた。

星屑のような粒子が、天井へと吸い込まれ、消えた。

部屋には、僕と、沈黙だけが残された。

オルゴールはもう、鳴らない。

ただの古びた金属に戻っていた。

「う、あ……ぁ……」

喉の奥から、言葉にならない音が漏れる。

胸が痛い。

物理的に、心臓を万力で締め上げられるような激痛だ。

これが「感情」か。

こんなに苦しくて、熱くて、息ができないものが、人の心なのか。

僕は床に蹲り、拳を叩きつけた。

何度も、何度も。

擦りむけた痛みさえ、今は愛おしい。

ガチャリ。

ドアが開く音がした。

「湊? どうしたの、大きな音を出して」

母さんだった。

その顔には、朝のような虚無はない。

心配そうに僕を覗き込む瞳は、確かな意思と、愛情を宿していた。

「……父さんは?」

「リビングでうたた寝してるわ。まったく、あんなに泣いた後で、子供みたいに」

母さんは、呆れたように、でも嬉しそうに笑った。

覚えている。

父さんのことを。

二人の時間が、繋がったのだ。

妹が、その存在すべてを差し出したおかげで。

「なんでもないよ。ちょっと、転んだだけ」

僕は立ち上がり、涙を袖で乱暴に拭った。

母さんに、澪の話をしてはいけない。

写真の空白の理由を、聞いてはいけない。

それが、僕と澪との契約だ。

「そう? 気をつけてね。……あら、それ」

母さんの視線が、僕の手元に注がれる。

星形のオルゴール。

「ずいぶん古いのを持ってるのね。どこで拾ったの?」

「……大切なお守りなんだ」

僕はオルゴールを強く握りしめた。

星の鋭い角が掌に食い込み、皮膚を破る。

滲んだ血が、真鍮を赤く染めた。

痛い。

けれど、この痛みだけが、彼女が確かにここにいた証だ。

世界が彼女を抹消しようとしても、この傷跡だけは消させない。

「おやすみ、母さん」

僕はオルゴールをポケットにしまい、窓の外を見上げた。

夜空には無数の星が瞬いている。

そのどれか一つが、あのおかっぱ頭の少女のように見えて、僕は小さく手を振った。

透明な君へ。

この痛みと共に、僕は生きていく。

誰にも言わない、君だけの兄として。

AIによる物語の考察

**深掘り解説文**

**1. 登場人物の心理**
主人公・湊は、冷徹な傍観者から妹・澪の犠牲を知り、激しい感情に目覚めます。痛みを伴う記憶と秘密を抱え、妹を愛する決意を固めます。澪は、家族の「重すぎる愛」が招く忘却を、自らの存在を「透明」化して肩代わりする自己犠牲の象徴。その「わがまま」という言葉に、家族への無垢な愛情が滲みます。

**2. 伏線の解説**
物語全体を貫く「空白」が重要な伏線です。家族写真に空けられた一人分のスペースは、澪という存在が「忘れ去られている」証。星形のオルゴールは、澪の存在と湊の記憶を繋ぐ鍵であり、駆動音は澪の生命力、音の停止は消滅を暗示します。母が無意識にオルゴールの「懐かしい音」を感じる描写も、深い記憶の痕跡を示唆します。

**3. テーマ**
本作は「愛の代償と記憶の守護」という哲学的な問いを投げかけます。家族の強い愛が時に「容量オーバー」となり、誰かの「忘却」を引き起こす現実。澪は自身の存在を犠牲にすることで家族の記憶を繋ぎ止めます。その犠牲を唯一知る湊が、透明な妹との「秘密」を胸に生きることで、消えたはずの愛と記憶が未来へと紡がれていく、切なくも美しい物語です。
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