***第一章 滲み出す壁、歪む日常***
茜(あかね)は、実家の壁に目を凝らした。漆喰が剥がれ落ち、下地の木材がうっすらと覗くその古びた壁に、今日で三度目となる「色」の滲みを見つけていた。最初は目の錯覚だと思った。薄暗い廊下の照明が、木目の陰影を奇妙な模様に変えているのだと。だが、それは明らかに色だった。薄い紫がかった灰色が、微かに揺らぐように広がり、その中に鈍い赤茶色の斑点が混じっている。それはまるで、長年蓄積された埃や汚れが、水分を含んで浮かび上がってきたかのような、しかし、もっと有機的で、複雑な感情を宿しているかのような色だった。
「お父さん、また壁に何か出てきたよ」
リビングにいる父親に声をかけると、テレビから目を離さず、「ああ、古い家だからな。湿気が多いんだろ」と気のない返事が返ってきた。母親は台所で食器を洗う音を立てている。妹の葵(あおい)は自室にこもり、イヤホンから漏れる音楽が微かに聞こえてくる。家族の間に漂う、いつもと変わらない、しかしどこか希薄で表面的な日常。茜は、この何十年も家族が住み続けてきた古い木造家屋に、最近になって得体の知れない違和感を抱き始めていた。特に、この奇妙な色の出現以来、その感覚は強まっている。
その日、夕食の食卓は重苦しい空気に包まれていた。父親が突然、「この家ももう限界だ。そろそろ建て替えを考えるべきじゃないか」と切り出したのだ。母親は箸を止め、顔色を曇らせた。「急に何を言うの。まだ住めるわよ」。葵はスマホを弄っていた手を止め、興味なさげに顔を上げた。「どうせなら、もっと広いリビングで、自分の部屋ももっと大きくしてほしいな」。茜は何も言えなかった。この家には愛着がある。古く、不便で、あちこちにガタが来ているけれど、自分の人生の全てが詰まっている場所だ。しかし、この古さの裏に、何か不吉なものが隠されているような気がしてならなかった。
食卓が終わり、皆がそれぞれの場所に戻ると、茜は再び廊下に出た。先ほどの壁の滲みは、少し濃くなっていた。赤茶色の斑点は、まるで血痕のように、鈍い光を放っている。そして、その色の隣に、新たな滲みが広がっていた。それは淡い青色で、揺れる水面のように穏やかに、しかし底知れない悲しみを湛えているように見えた。家族の会話がぎこちなく、それぞれの心がすれ違うとき、壁の色が濃くなる。この奇妙な現象は、一体何を意味するのだろう。茜は、この家がただの建物ではないような、そんな漠然とした恐怖と好奇心に囚われていた。
***第二章 家の記憶、祖母の囁き***
翌日から、茜は家の壁の色の変化を注意深く観察するようになった。朝、家族が忙しなく朝食を摂り、それぞれの仕事や学業へと向かう準備をする時間。父親が新聞を読みながら不機嫌そうに唸り、母親が段取りに苛立っている時、壁の滲みは鈍い橙色を帯びた。妹の葵が友人と楽しそうに電話で話している時、壁には明るい黄色が差し込んだ。それは一瞬で消えるが、確かに色は現れ、消えていく。まるで家が、家族の感情を直接的に吸収し、表現しているかのようだった。
茜は、この現象について何か手掛かりがないかと、家の隅々を探し始めた。特に気になったのは、今は物置になっている祖母の部屋だ。祖母は数年前に他界しており、その部屋は手つかずのまま残されていた。埃をかぶった段ボール箱を漁っていると、一冊の古いノートを見つけた。それは祖母が大切にしていたであろう日記帳で、ところどころ鉛筆で書かれた文字は掠れ、インクは滲んでいた。
日記を読み進めると、意外な記述が目に飛び込んできた。「家は語る。色で。我らの感情が、この壁に染み込む。喜びは金色に、悲しみは藍色に、怒りは緋色に。だが、それらは普段、目には見えぬ。心の奥底が大きく揺さぶられし時、あるいは家が危うき時、その色は顕れる。家は我らの記憶の器。忘却せしものをも、色として刻む」。
茜は思わず息を呑んだ。祖母は、壁の色が見えていたのだろうか?そして、それは家族の感情を表しているというのか?「忘却せしものをも、色として刻む」という言葉が、茜の胸に深く刺さった。忘却されたものとは何か?家族の間に、何か隠された過去があるのだろうか?茜は漠然と感じていた家族間の表面的な繋がりや、深い部分での欠落感が、この「忘却」と結びついているのではないかと直感した。
祖母の日記には、家の壁の色の変化を記録したページもあった。ある日の記述には、「今日の壁は深く沈んだ藍色。あの子のことが、まだ癒えぬ」とあった。あの子とは誰だろう?茜には、他に兄妹がいた記憶がない。写真アルバムを見ても、両親と茜と葵の四人家族の写真しか見つからない。しかし、日記のページをめくると、時折、名前の書かれていない幼い子供への愛情と、そして深い悲しみが綴られていた。その子供は、茜が生まれるより前に、この家で生きていたのだろうか。家が語る、忘却された記憶。その謎が、茜の心を捉えて離さなかった。
***第三章 崩れる壁、暴かれた真実***
建て替えの話が具体的に進み始めた。不動産屋が何度か家を見に来て、解体業者も見積もりを取るために訪れた。その日、茜は最も衝撃的な光景を目にした。解体業者が家の構造をチェックするため、壁の一部を叩き、ひび割れを指摘していた。その時、家全体がこれまでにないほど、濃密な「感情の色」で覆われたのだ。
リビングの壁には、憤怒の緋色が脈打ち、台所の床には焦燥の茶色が渦巻いていた。しかし、最も目を引いたのは、かつて祖母の部屋の隣にあった、今では物置と化している小さな部屋だった。その部屋の壁から床にかけて、深い悲しみと後悔が混じり合った、暗く淀んだ群青色が、まるで生き物のように蠢いていた。部屋全体がその色に包まれ、重い空気が満ちていた。
茜は吸い寄せられるようにその部屋へ足を踏み入れた。部屋の奥には、古びた勉強机と、小さなベッドの跡があった。そこには、幼い子供が描いたであろう絵が、壁に貼られたまま残されていた。落書きのような太陽と、家族らしき人物が描かれている。その絵の横に、薄れてほとんど読めないが、「健太」と書かれた文字があった。「健太……?」茜の脳裏に、祖母の日記の「あの子」という言葉が蘇った。
物置の片隅で、茜は祖母の日記のさらに奥深くに隠されていた、小さな手記を見つけた。それは祖母の達筆で、震えるような文字で記されていた。そこには、茜が生まれるよりもずっと昔、彼女には「健太」という兄がいたこと、そして彼が幼くして不慮の事故で命を落とした真実が綴られていた。健太は、両親にとって初めての子供で、その死はあまりにも突然で、深く、家族の心を打ち砕いた。悲しみに耐えきれなかった両親は、その記憶を心の奥底に封じ込めることを選んだ。そして、二度と健太について語らないという、無意識の合意を家族間で形成したのだ。
「家は、その痛みを蓄積し、色として表現していたのだ」。祖母の言葉が、茜の頭の中で響き渡った。この家は、家族が忘却しようとした、あるいは隠蔽しようとした悲劇の真実を、ずっと記憶し続けてきた。健太の部屋の、あの群青色は、家族が押し込めてきた悲しみと後悔、そして語られることのなかった兄への愛情の色だったのだ。
その事実を知った瞬間、茜の家族に対する認識は根底から揺らいだ。表面的な平和と、どこか希薄だと感じていた家族の絆は、実は深い悲しみと秘密の上に成り立っていたのだ。目の前の光景も、それを裏付けていた。感情の飽和状態に耐えきれないかのように、家はミシッと音を立て、壁には新たなひび割れが生じ、砂がサラサラとこぼれ落ち始めた。家が、家族の秘密と共に、崩壊しようとしている。このままでは、家だけでなく、家族そのものも失われてしまうかもしれない。茜は、これまで感じたことのない切迫した危機感に襲われた。
***第四章 記憶の解放、絆の色***
茜は、リビングに集まった家族に、祖母の手記を見せた。そして、健太という兄がいたこと、彼の死が家族にもたらした痛み、そしてそれが長年、この家と共に封じ込められてきた真実を、震える声で語った。
両親は、最初は戸惑いと拒絶の表情を浮かべた。母親は「そんな昔の話を掘り返してどうするの」と目を伏せ、父親は硬い表情で黙り込んだ。しかし、茜が健太の部屋から持ち出した、幼い兄が描いた太陽の絵を差し出し、家全体が発する感情の色、特に健太の部屋から溢れる群青色を見せるに及んで、彼らの表情は少しずつ変化していった。
「あの部屋の色は、健太への思いだと、おばあちゃんは言っていたの。私たちが忘れても、家は覚えていたのよ」と茜は訴えた。
やがて、母親の目から大粒の涙が溢れ落ちた。「健太…ごめんね。お母さん、怖かったの。あなたのことを話すと、またあの悲しみに潰されそうだったから……」父親も、硬く閉ざしていた口を開いた。「俺もだ。強がることで、家族を守れると思っていた。でも、違ったんだな」。妹の葵も、兄の存在を知り、これまで感じていた家族の違和感の根源を理解し、静かに涙を流していた。
家族は皆、健太の部屋に集まった。壁一面に広がる群青色の光の中で、それぞれが心の奥底に封じ込めていた感情を吐露し始めた。健太との思い出、彼を失った悲しみ、そして、その悲しみを分かち合えなかった後悔。涙、そして初めて口にする「ごめんね」の言葉。互いの痛みに触れ、共感し、そしてようやく許し合う。
感情が解放されるにつれて、奇妙なことが起こった。健太の部屋から溢れていた群青色は、ゆっくりと薄まり、そして穏やかな水色へと変化していった。リビングの壁の緋色や橙色も、やわらかな桜色や若草色に変わっていく。家全体のひび割れも止まり、まるで長い病から回復していくかのように、家は再び落ち着きを取り戻していった。家が、家族の心の癒しと共に、その傷を癒しているかのようだった。
建て替えの話は延期された。家族は家と共に、健太の死という過去の痛みに向き合い、ゆっくりと前に進むことを選んだ。茜は、家族とはただ血の繋がった集団ではないことを知った。それは、共有された記憶だけでなく、共有されなかった痛みをも内包し、時には沈黙の中に秘められた深い愛情を宿す、複雑で、しかしかけがえのない存在だった。
家の壁の色は、完全に消えたわけではない。淡く、しかし温かい虹色として、これからも家族の過去と未来を見守り続けていくだろう。茜は、家族の絆は完璧ではないけれど、それでも深く、そして何よりも美しいものだと、その目で確かめることができた。この家は、これからも家族の喜びや悲しみを記録し続ける。そして、茜自身も、この家の記憶の庭で、家族と共に新たな絆の色を紡いでいくのだ。
色のない家、記憶の庭
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