忘却の家、刻印の絆
2 4273 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:
表示モード:

忘却の家、刻印の絆

第一章 透ける指先

異変は、自分の指先から始まった。

ピアノの鍵盤に置いた右手の薬指が、象牙の白さを透かして、その向こうの黒檀をうっすらと映していたのだ。瞬きを繰り返したが、その景色は変わらない。まるで、上質なガラス細工のように、僕、水上湊(みなかみ みなと)の身体は、その存在の輪郭を失い始めていた。

「湊、どうしたの? ぼーっとして」

母の声に顔を上げると、彼女は僕の前の空になった皿に、湯気の立つシチューを注ぎ足してくれた。その視線は僕の顔を捉えているはずなのに、どこか焦点が合っていない。まるで、ここにいるはずの誰かを探しているような、そんな心許ない眼差しだった。

「…ううん、なんでもない」

僕は慌てて手をテーブルの下に隠した。この家では、何かが狂い始めている。壁に掛かった古時計の秒針は、せわしなく盤面を駆け足で叩き、窓の外では、昨日植えたばかりのマリーゴールドの苗が、瞬く間に萎れて土に還っていく。

僕たちの家だけ、時間が異常な速さで流れているのだ。

この世界では、家族の絆の強さが、その家の時間の流れを決める。強い絆は時を緩やかにし、希薄な絆は時を容赦なく加速させる。僕の身体が透けていくのは、家族の誰かの意識の中で、僕という存在が薄れている証拠だった。完全に忘れられた時、その部分は世界から消失する。

「父さん、母さん、ソラ」僕は食卓を囲む家族を見渡した。「最近、何だか変だと思わないか? 家の時間が…」

「変? 何がだ?」父は新聞から目を離さずに言った。「いつも通りじゃないか。家族の絆は、昔から何も変わらんよ」

その言葉に、母も、末の弟のソラも、静かに頷いた。彼らの顔には何の疑念も浮かんでいない。僕だけが、この狂った時の流れと、消えゆく身体の恐怖に苛まれている。なぜ、誰も気づかない? この家を蝕む忘却の正体は、一体何なのだ。

第二章 色褪せる家系図

夕食の後、僕は逃げるように書斎へ向かった。目当ては、壁際に置かれた桐の箱。その中に、僕たち家族の歴史そのものが眠っている。そっと蓋を開けると、古びた羊皮紙の匂いが鼻をくすぐった。

「空白の家系図」。

それは、僕たちが生まれた時から共同で書き継いできた、家族の絆の証。中心に描かれた一本の太い樹の幹から、枝葉のように家族の名前が伸びていく。絆が深まるほど、その名を囲む線は濃く、力強くなる。

僕は息を呑んだ。父と母の名を繋ぐ線は変わらずそこにある。だが、そこから伸びる僕の名、「湊」を囲むインクの輪郭は、滲んで掠れ、ほとんど消えかかっていた。まるで、雨に打たれた古い手紙のように。

絶望が胸を締め付ける。やはり、僕は忘れられかけている。

その時、ふと奇妙な点に気がついた。僕の名前だけではない。弟のソラ。彼の名を囲む線もまた、父や母のそれと比べて、わずかに精彩を欠いているように見えた。なぜだ? ソラは今も家族の中心にいるはずなのに。

僕は三ヶ月前の事故を思い出す。崩れた足場からソラを庇い、頭を強く打った。幸い命に別状はなかったが、医師から告げられた言葉が脳裏に蘇る。「いつ、何が起きてもおかしくない」。僕はその事実を、家族には隠し通していた。この加速する時間の中で、僕に残された命は、もう幾ばくもないのかもしれない。

だが、それがどうして家族の絆を希薄にさせる? 僕の死期が近いから、家族は僕を忘れようとしているとでもいうのか? いや、そんなはずはない。だとしたら、この家系図の掠れは、一体何を意味しているのだろう。

第三章 加速する忘却

翌朝、僕の左腕は肘から先が完全に透き通り、陽光がそのまま壁に届いていた。まるで、そこに腕など初めから存在しなかったかのように。

食卓に着くと、僕の席には皿もカトラリーも用意されていなかった。

「母さん、僕の分は…」

「あら?」母は不思議そうに首を傾げた。「あなた、もう食べたでしょう? さっき、ごちそうさまって」

違う。僕はまだ一口も食べていない。母の記憶が、僕の存在を都合よく書き換えている。父は僕がリビングにいても気づかず、僕が座っているソファに腰を下ろそうとして、空中に尻餅をついた。彼は怪訝な顔で首を捻るだけで、そこに透けた僕がいることには思い至らない。

孤独だった。同じ空間にいながら、違う次元にいるような隔絶感。窓の外では、隣家の子供たちが昨日と変わらず水遊びをしている。あの家には、穏やかな時間が流れているのだ。僕たちの家だけが、忘却という名の嵐に飲み込まれる孤島だった。

「やめてくれ!」

僕は叫んだ。声は、水中で響くようにくぐもって、誰の耳にも届かない。家族は僕の姿が見えず、声が聞こえず、その存在すら感じなくなってきている。このままでは、僕は完全に消える。誰にも記憶されることなく、この狂った家の中で。

一体、誰が? 何のために? 僕を、そしてこの家族を、忘却の彼方へ追いやろうとしているのか。

第四章 ソラの沈黙

家族の中で、唯一、弟のソラだけが違った。

彼は僕の存在を認識できないそぶりを見せながらも、時折、僕がいたはずの空間に視線を向け、唇を噛み締めていた。その瞳には、他の家族にはない、深い苦悩と罪悪感の色が浮かんでいた。

その夜、ほとんど全身が透けかかった僕は、ソラの部屋の前に立った。ドアノブに手を伸ばすが、指は虚しくそれをすり抜ける。僕は壁を通り抜け、部屋の中へと侵入した。

ソラは机に向かい、何かを書き殴っていた。積み上げられた本は、量子力学、相対性理論、時空連続体に関する専門書ばかり。この世界の法則を、彼は独学で解き明かそうとしていたのだ。

「ソラ」

僕の声は、か細い風の音にしか聞こえないかもしれない。それでも、僕は問いかけた。

「お前だけは、知っているんだろう。この家で何が起きているのか」

ソラの肩が、びくりと震えた。彼はゆっくりと振り返る。その目は、僕の透けた姿をはっきりと捉えていた。彼は僕が見えている。ずっと、見えていたのだ。

「…兄さん」

絞り出すような声だった。彼は何も答えず、ただ静かに涙を流した。その沈黙は、どんな言葉よりも雄弁に、彼がこの悲劇の渦中にいることを物語っていた。

第五章 弟の告白

僕の意識が、霧のように薄れ始めた。家の時間は暴風のように荒れ狂い、壁紙は一瞬で剥がれ落ち、家具は見る間に埃を被って朽ちていく。もう、終わりが近い。

最後の力を振り絞り、僕はソラに向かって透けた手を伸ばした。実体のない指先が、彼の頬に触れた、気がした。その微かな感触が、彼の固く閉ざされた心の扉をこじ開けた。

「僕がやったんだ…僕が…!」

ソラは崩れ落ち、嗚咽を漏らした。そして、全てを告白した。

「兄さんを、死なせたくなかったんだ…!」

ソラは、僕の事故後の余命を知っていた。医者の話を、偶然聞いてしまったのだという。彼は絶望した。家族の絆に縛られている限り、僕はこの加速する家の中で、定められた運命の死を迎える。それを覆す方法を、彼は必死で探した。そして、一つの狂気的な結論にたどり着いた。

僕を「家族」という概念から切り離せばいいのだ、と。

家族全員の意識から、僕の記憶を少しずつ消し去る。僕が「家族」でなくなれば、この家の時間の法則は適用されない。そうすれば兄さんは、時空の狭間で、誰にも認識されない透明な存在として、永遠に生き続けられるはずだ――。それが、弟の歪んでしまった、あまりにも純粋な愛情だった。

他の家族が気づかなかったのは、ソラがこの家の法則を解析し、彼らの記憶に直接干渉していたからだ。家系図の彼の線が薄れていたのは、家族を欺くという行為が、ソラ自身の絆をも深く傷つけていたからだった。

第六章 最後の選択

真実を知り、僕は涙も出なかった。ただ、愚かで、愛おしい弟の姿が、霞む視界に焼き付いていた。忘れ去られた幽霊として、永遠の孤独を生きる。それが、ソラが僕に与えようとした「救い」だった。

だが、僕はそんなものは望んでいない。

「ソラ…ありがとう」僕は、ほとんど音にならない声で囁いた。「でも、俺は…忘れられたくない。みんなの兄として、父さんと母さんの息子として、この命を終えたいんだ」

永遠の孤独よりも、記憶される一瞬の生を。

僕は、消えゆく存在の全てをかけて、家族に呼びかけた。透けた胸の奥で、魂が燃え上がるのを感じた。

「思い出してくれ! 僕を! 湊を!」

その叫びは、物理的な音波を超え、家族の魂に直接響いた。ソラが築いた記憶の壁に、亀裂が走る。食卓で呆然としていた父と母が、はっと顔を上げた。彼らの瞳に、失われかけていた光が宿る。

「湊…?」

「ああ…私たちの、息子…!」

第七章 遺伝子に刻む絆

父が、母が、そしてソラが、僕の名を叫んだ。三人の意識が、想いが、完全に一つになった瞬間、世界の法則が悲鳴を上げた。

家の時間の流れが、ピタリと止まる。

書斎の「空白の家系図」が、ひとりでにまばゆい光を放った。消えかけていた僕の名前「湊」を囲む線が、黄金色の輝きを放ち、これまでで最も力強く、太く浮かび上がる。それはもはやインクではなく、絆そのものが結晶化した光だった。

僕の身体は、穏やかな光の粒子となって、ゆっくりと宙に舞い上がっていく。消滅の恐怖はない。ただ、温かい家族の愛に包まれる、至福の感覚だけがあった。

「ありがとう…忘れないで…」

最後の言葉を残し、僕は完全に光の中へと溶けていった。

僕、水上湊は、この世界から消滅した。だが、僕の存在が失われたわけではなかった。僕の記憶、僕への愛、家族としての絆は、父と母、そしてソラの心に、いや、その遺伝子の螺旋に深く、永遠に刻み込まれたのだ。

再び、家の時間は正常に流れ始める。壁の傷も、朽ちた家具も元通りになり、まるで何事もなかったかのように、穏やかな午後が戻ってきた。

悲しみの中で、家族は互いの手を強く握りしめた。彼らの血の中には、もう僕がいる。これから生まれてくる新しい命にも、その絆は受け継がれていくだろう。

家系図の樹は、黄金に輝く「湊」という枝を抱きしめるように、未来へと力強く伸びていく。それは、忘却に抗い、愛を選んだ家族の、永遠の証となった。


TOPへ戻る