言祝ぎ(ことほぎ)の家

言祝ぎ(ことほぎ)の家

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第一章 沈黙の食卓

私の家族は、奇妙な掟に縛られている。

それは、決して感謝や愛情を言葉にしない、というものだった。食卓にはいつも、母さんの心のこもった料理が並ぶ。湯気の立つ肉じゃが、艶やかな白米、出汁の香りが鼻をくすぐる味噌汁。けれど、誰一人として「美味しい」とも「ありがとう」とも言わない。父はただ黙々と箸を動かし、母は穏やかな微笑みを浮かべているだけ。私も、物心ついた頃からその沈黙に倣ってきた。

「ただいま」

玄関のドアを開けると、革靴を磨く父の背中が見えた。振り向いた父は、何も言わずに僅かに口角を上げる。それが、彼の「おかえり」の合図だ。キッチンからは、夕食の準備をする母の立てる、リズミカルな包丁の音が聞こえる。この家は、言葉の代わりに音と気配で満ちている。

大学に入り、外の世界を知るようになってから、私はこの家の静寂が息苦しくなった。友人たちは「大好きだよ」と軽やかに言い合い、恋人の健太は「ありがとう」という言葉を、まるで呼吸するように私にくれる。そのたびに、私の心は温かさと同時に、ちくりとした痛みに苛まれた。なぜ私の家族は、こんなにも簡単な言葉を惜しむのだろう。愛情が薄いのだろうか。そう思うと、胸の奥が冷たくなるのを感じた。

その日、私は人生の大きな岐路に立っていた。健太から、プロポーズされたのだ。夕暮れの公園で、少し照れながら差し出された小さな箱。その瞬間、世界が輝いて見えた。もちろん、答えは「はい」だ。けれど、喜びの絶頂から現実に戻った時、真っ先に頭に浮かんだのは、あの沈黙の食卓だった。

「近いうちに、莉緒のご両親に挨拶に行きたい」

健太の誠実な瞳を見つめながら、私は頷くことしかできなかった。健太は、感謝と愛情を惜しみなく言葉にする人だ。そんな彼が、私の家族とどう向き合えばいいのか。想像するだけで、胃が重くなった。

古い木の匂いが染み付いた我が家。言葉が真空パックされたような、あの静かな空間。そこに、健太という異物が投入された時、一体何が起こるのだろう。それは、私の日常を根底から覆す、嵐の前の静けさのように思えた。私は、まだ知らなかったのだ。我が家の沈黙が、私を傷つけるためのものではなく、私を守るための、必死の祈りであったことなど。

第二章 招かれざる言葉

週末、健太が我が家を訪れた。手には老舗の羊羹を提げ、少し硬い表情で玄関に立っている。

「はじめまして、健太と申します。莉緒さんとお付き合いさせていただいております」

深々と頭を下げる健太に、父は無言で会釈を返すだけだった。母は「どうぞ」とだけ言って彼をリビングに招き入れたが、その笑顔はいつになく引き攣っているように見えた。

リビングの空気に、緊張が張り詰める。まるで薄氷の上を歩くような、危うい静寂。健太は懸命に会話の糸口を探し、大学での私の様子や、自分の仕事について語った。父は時折、短く相槌を打つだけで、母は俯いてお茶を啜っている。

「お母様のお料理、本当に美味しいです。ありがとうございます」

健太が、母の作った筑前煮を口にして言った。その瞬間、母の肩がびくりと震え、持っていた湯呑みがカチャリと音を立てた。父の眉間に、深い皺が刻まれる。健太の言葉は、この家では「招かれざる言葉」だった。純粋な善意から発せられたその言葉が、見えない刃のように家族を傷つけているのを、私だけが感じていた。

「莉緒、お前は本当に幸せ者だな。こんなに優しいご両親に育てられて」

健太の無邪気な一言が、決定打だった。父は持っていた箸を静かに置くと、険しい顔で健太を睨みつけた。その眼差しは、怒りというよりも、何かを恐れるような、悲痛な色を帯びていた。

「……健太くん。すまないが、今日はもう帰ってくれないか」

父の絞り出すような声に、健太は呆然としていた。私も、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。恥ずかしさと、家族への怒りと、健太への申し訳なさがごちゃ混ぜになって、胸が張り裂けそうだった。

家を飛び出した健太を追いかけ、私は何度も謝った。

「ごめん、うちの家族、変なの。昔からああで……」

「いいんだ。俺が、何か失礼なことをしたんだろう。でも、何が悪かったのか、全然わからないんだ」

困惑する健太の顔を見ているのが辛かった。私たちは、この日を境に、少しだけ距離ができてしまった。

私は、もう限界だった。この息苦しい沈黙の理由を、知らなければならない。私は、家の離れで静かに暮らす祖母の元を訪ねた。祖母は、この家の歴史のすべてを知っている。縁側で日向ぼっこをしていた祖母は、私の切羽詰まった顔を見ると、静かに畳の部屋へ招き入れた。

「おばあちゃん、教えて。どうしてうちは、あんなにおかしいの?どうして『ありがとう』も『愛してる』も言っちゃいけないの?」

涙ながらに訴える私を、祖母は皺の刻まれた優しい目で見つめていた。そして、長い沈黙の後、重い口を開いた。

「莉緒、お前に話す時が来たのかもしれないね。この家に代々伝わる、言霊の呪縛について」

第三章 言霊(ことだま)の呪縛

祖母の部屋には、古い白檀の香りが満ちていた。障子越しに差し込む柔らかな光が、畳の上に落ちる埃をきらきらと照らし出している。

「言霊の呪縛、だって……?」

私は、祖母の言葉が理解できずに聞き返した。まるで物語の中の話のようだった。

祖母は、ゆっくりと頷いた。

「そうだよ。 우리 일족(ウリ イルジョク)……私たちの血筋には、特別な力が宿っている。それは、心から発した祝福の言葉が、その祝福の対象そのものをこの世から消し去ってしまう、という呪いなんだ」

頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。何を言っているの、この人は。

「例えば、『ありがとう』と心から感謝を告げれば、感謝すべき幸福な出来事そのものが、人々の記憶からも記録からも消え失せる。『きれいだね』と花の美しさを本心から讃えれば、その花は次の瞬間には色褪せて枯れてしまう」

祖母は、遠い目をして続けた。

「そして、最も強力で、最も恐ろしいのが、愛の言葉だ」

ごくり、と喉が鳴った。

「『愛してる』。その言葉を口にした瞬間、向けられた相手の心から、愛という感情が根こそぎ消え去ってしまう。愛した記憶も、愛された温もりも、何もかもが。ただ、空っぽの器だけが残される」

信じられなかった。けれど、祖母の真剣な眼差しは、それが冗談ではないことを物語っていた。

「昔ね、私には妹がいたんだ。お前の大叔母さんにあたる子だ。あの子は、愛する男と一緒になることを心から喜んでいた。そして、婚礼の前夜、幸せの絶頂で、彼に囁いてしまったんだ。『愛しています』と」

祖母の声が、微かに震えた。

「次の日、彼は別人になっていた。妹を見ても、何の感情も浮かべない、冷たい瞳をしていた。彼は妹を愛していたこと、結婚の約束をしたこと、その全てを忘れてしまっていた。心を失った彼は、やがて自ら命を絶った。妹も、後を追うように……」

息が、詰まった。今まで点と点だったものが、一本の線で繋がっていく感覚。

父が寡黙なのも、母の微笑みにいつも影が差しているのも、健太の「ありがとう」に怯えていたのも、全てがこの呪いのせいだったのだ。

私が生まれた日。両親は、どれほど「生まれてきてくれてありがとう」と叫びたかっただろう。どれほど「愛してる」と抱きしめたかっただろう。しかし、それをすれば、私の存在という幸福そのものが消えるか、私が愛を知らない人間になってしまう。だから、彼らは沈黙を選んだ。言葉を殺すことで、私への愛を守ろうとしたのだ。

「お父さんもお母さんも、不器用なだけじゃない。誰よりもお前を愛しているからこそ、何も言えないんだよ。お前の幸せが消えてしまわないように、毎日毎日、必死に言葉を飲み込んでいるんだ」

涙が、後から後から溢れてきた。私は、なんて愚かだったのだろう。家族の沈黙を、愛情の欠如だと誤解していた。あの静寂は、無関心ではなかった。それは、世界で最も深く、切実で、そして痛みを伴う愛の表現だったのだ。

父の無骨な手料理も、母の毎朝の「いってらっしゃい」の微笑みも、全てが声にならない「愛してる」の言葉だった。それに気づかなかった自分が、恥ずかしくて、悔しくて、たまらなかった。私の世界が、ガラガラと音を立てて崩れ落ち、そして、全く新しい形で再構築されていくのを感じた。

第四章 声なき愛の唄

真実を知った私は、健太にどう話すべきか、答えを出せずにいた。あまりに非現実的なこの話を、彼は信じてくれるだろうか。私を、おかしな人間だと思わないだろうか。悩んでいるうちに、病院から電話があった。祖母の容態が急変した、という知らせだった。

病室には、家族全員が集まっていた。モニターの無機質な電子音だけが響く中、祖母はか細い息を繰り返していた。酸素マスクの下で、祖母の唇が微かに動く。父が、母が、その手を固く握りしめている。誰も何も言わない。けれど、その空間には、悲しみと、感謝と、そして深い愛情が、言葉以上に濃密に満ちていた。

祖母が、ゆっくりと私の方に視線を向けた。皺だらけの、けれど温かい手が、私の手を求めて彷徨う。私がその手を握ると、祖母は安心したように目を細めた。そして、最後の力を振り絞るように、囁いた。

「……しあわせ、に」

それは、呪いのかからない、ギリギリの祈りの言葉だった。その一言に、祖母の生涯をかけた愛情のすべてが込められているのがわかった。ありがとう、おばあちゃん。愛してる。心の中で叫んだ言葉は、涙となって頬を伝った。祖母は、穏やかな顔で、静かに息を引き取った。

数日後、私は健太のアパートを訪れた。彼は、何も聞かずに、ただ黙って私を迎え入れ、温かいコーヒーを淹れてくれた。私は、家族の秘密を打ち明けることをやめた。これは、私が一生をかけて背負っていくべき、私の家族の物語だ。彼を巻き込むべきではない。

健太が淹れてくれたコーヒーは、少し苦くて、でもとても優しくて、温かかった。私はマグカップを両手で包み込み、その温もりを、香りを、味わいを、全身で感じた。そして、健太の顔をじっと見つめた。

「ありがとう」も「愛してる」も言えない。けれど、私の瞳が、私の浮かべた微笑みが、私の沈黙が、彼に何かを伝えてくれたのかもしれない。健太は、私の隣に静かに座ると、そっと私の手を握ってくれた。その温もりが、どんな言葉よりも雄弁に、私を包み込んでくれた。

言葉は、万能ではない。時には人を傷つけ、時には真実を覆い隠す。私の家族は、言葉を失うことで、言葉よりも確かな愛の形を見つけ出していたのだ。

私は、私の家族を、誇りに思う。この沈黙の系譜を受け継ぎ、生きていく覚悟ができた。

心の中で、私は声なき唄を歌う。決して口には出せない、けれど世界で一番美しい愛の唄を。天国の祖母に、不器用な両親に、そして隣で微笑む健太に。私の愛が、どうか届きますようにと、祈りを込めて。

言祝ぎの家に生まれた私の、新しい人生が、静かに始まろうとしていた。

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