第一章 柱時計の囁き
蓮(れん)が暮らす古い木造の家には、声が棲んでいる。
一年前に亡くなった母の声だ。それは決まって、玄関ホールに置かれた古めかしい柱時計から聞こえてくる。カチ、カチ、と重々しい振り子が空気を揺らす合間に、ふと、風が木の葉をさらうような微かな音量で、母が囁くのだ。
「蓮、また本ばかり読んで。目が悪くなるわよ」
ソファで文庫本に没頭していた蓮は、顔を上げた。視線の先で、真鍮の振り子が左右に揺れている。時計の文字盤を縁取る、黒ずんだ彫刻がまるで老婆の皺のようだ。声はそれきり聞こえない。だが、蓮の胸には、じんわりと温かいものが広がった。まるで、今しがた母に肩を叩かれたような、確かな気配だった。
ここは、蓮が生まれ育った家だ。十年前に父を、そして一年前には母を亡くし、今は広すぎるこの家に一人で暮らしている。古書店で働き、静かに本と向き合う毎日。人との交流は最小限で、彼の世界の中心は、この家と、時折聞こえる母の声だった。
声が初めて聞こえたのは、母の四十九日を終えた雨の夜だった。ずぶ濡れで帰宅した蓮が、ただいま、と誰に言うでもなく呟いた時、柱時計がゴーン、と鳴り、その余韻の中に混じって聞こえたのだ。「…おかえり…」。空耳かと思った。しかし、それからというもの、声は蓮の日常に寄り添うようになった。蓮が夜更かしをすれば心配する声を、庭の金木犀が咲けば懐かしむ声を、柱時計は届けた。それは生前の録音とは違う、今の蓮の状況に応じた、不思議な囁きだった。
だから、蓮はこの家を離れることなど考えられなかった。
「蓮、この家、どうするかそろそろ考えないと。お前一人には広すぎるし、何より傷みがひどい」
先日、法事で会った叔母が、心配そうにそう言った。売却して、もっと便利な街中のマンションにでも越したらどうか、と。蓮は曖昧に笑って聞き流したが、内心では激しく抵抗していた。この家を売るということは、母の声を捨てることだ。それは、母を二度殺すことに等しいとさえ感じていた。
その夜、蓮は柱時計の前に膝をつき、磨き込まれたガラスの扉にそっと指で触れた。
「母さん…俺、ここにいるよ。ずっと、ここにいるからね」
返事はなかった。ただ、振り子の刻む音が、まるで心臓の鼓動のように、静かな家の中に響いていた。蓮は、その音に守られているような気がした。この家と、母の声と、過去の記憶。それが彼の世界のすべてだった。外界の喧騒も、未来への不安も、この柱時計が刻む時間の壁が、優しく遮ってくれているようだった。
第二章 軋む家、揺れる心
秋が深まり、木枯らしが家の古い窓を揺らすようになると、蓮の平穏は少しずつ翳りを見せ始めた。叔母の言葉通り、家の老朽化は深刻だった。歩くたびに床板が悲鳴をあげ、隙間風が室温を奪っていく。蓮は週末になると、慣れない手つきで屋根の瓦を補修したり、壁のひび割れをパテで埋めたりした。だが、それは焼け石に水だった。
家の傷みが進むにつれて、母の声にも変化が現れた。囁きは不明瞭になり、意味をなさない断片的な音になることが増えた。
「…さむい……」
「……どこ……?」
蓮は、自分が家を 제대로 관리できていないせいで、母を不安にさせているのだと思い込んだ。申し訳なさで胸が締め付けられる。彼は一層家に固執し、古書店の仕事が終わると、どこにも寄らずに真っ直ぐ帰宅するようになった。まるで、幼い子供を一人で留守番させているような、切迫した気持ちだった。
「ごめん、母さん。すぐに暖かくするから」
ストーブの火力を上げながら、柱時計に話しかける。カチ、カチ、と無機質な音が返ってくるだけだ。蓮は焦燥感に駆られ、家の歴史を調べてみることにした。何か、この家と母の声の繋がりを強めるヒントがあるかもしれない。屋根裏部屋で埃をかぶっていた古いアルバムや書類を引っ張り出すと、この家が曾祖父の代に建てられたものであることが分かった。写真の中の曾祖父母、祖父母、そして若い頃の両親が、同じ家の前で微笑んでいる。誰もがこの家を愛し、ここで生きて、そして死んでいった。
この柱時計も、曾祖父が家を建てた時に購入したものらしかった。百年近く、この家の時間を刻み続けてきたのだ。蓮は、その気の遠くなるような年月に圧倒された。この時計は、蓮の知らない家族の歴史を、ずっと見つめてきたのだろうか。
ある晩、蓮は珍しく熱を出した。薬を飲んで布団に潜り込んだが、悪寒が止まらない。心細さが募り、耳を澄ます。柱時計の音だけが、遠くで響いている。母の声が聞きたい。慰めてほしい。そう強く願った時、微かに聞こえてきたのは、予想もしない言葉だった。
「…いたい…くるしい…」
それは母の声ではなかった。もっとしゃがれた、知らない老婆のような声だった。蓮は恐怖に跳ね起きた。時計は変わらず時を刻んでいる。幻聴だったのか? いや、確かに聞こえた。その声は、蓮の不安を映し出すかのように、家の軋む音と混じり合いながら、闇の中に消えていった。蓮は、自分が守ろうとしていたものが、本当は何なのか、分からなくなっていた。
第三章 屋根裏の告白
運命の夜は、台風と共にやってきた。
猛烈な風雨が家を打ち付け、古い建物は今にも崩れ落ちそうな悲鳴を上げていた。蓮は不安な気持ちで、リビングのソファにうずくまっていた。その時、二階から「ミシリ」という鈍い音と、何かが崩れる音が響いた。恐る恐る階段を上がると、天井から雨水が滴り落ち、壁紙が大きく剥がれ落ちていた。雨漏りだ。
蓮は、これ以上家を傷つけたくない一心で、懐中電灯を手に屋根裏へと続く梯子を上った。埃とカビの匂いが鼻をつく。梁が剥き出しになった薄暗い空間を照らすと、雨漏りの箇所はすぐに見つかった。そして、そのすぐそばに、桐の古い木箱が置かれているのが目に入った。
好奇心に駆られて蓋を開けると、中には和紙で綴じられた数冊の日記が入っていた。表紙には、か細い筆跡で『小夜子』と書かれている。曾祖母の名前だ。蓮は息を呑み、ページをめくった。
そこには、蓮の知らない家族の日常が、淡々と綴られていた。そして、あるページで、蓮の心臓は凍りついた。
『主人が逝って、早一年。この家は静かになりました。けれど、時折、主人の声が聞こえるのです。台所の壁の、あの雨染みから。まるで、私を呼ぶように。皆は私が寂しさのあまり、おかしくなったのだと言いますが、私には聞こえるのです』
蓮は愕然とした。壁の染みから、曾祖父の声が? 彼は震える手で、次の日記を手に取った。それは祖母の日記だった。
『母が亡くなり、家がまた広くなりました。寂しい夜、キッチンの蛇口からポタリ、ポタリと落ちる水の音に混じって、母の声が聞こえることがあります。「火の元に気をつけなさいよ」と。父には言えませんが、私はこの声に、どれだけ慰められていることか』
頭を殴られたような衝撃だった。柱時計だけではなかった。壁の染み、水道の蛇口…。この家に住んできた家族は、それぞれが、亡くした者の声を、この家の中に聞いていたのだ。
蓮は悟った。自分が聞いていたのは、母一人の声ではなかった。この家そのものが、百年近くにわたって住人たちの喜びや悲しみ、そして「残された者の寂しさ」を吸い込み、それを「声」という形で、次の住人に届けていたのだ。柱時計は、たまたま蓮にとっての受信機だったに過ぎない。熱の夜に聞いた老婆の声は、おそらく曾祖母か、あるいはもっと前の誰かの苦しみの残響だったのだろう。
蓮が執着していたのは、母という個人ではなかった。この家に染み付いた、血と記憶の集合体。名前も知らない先祖たちから連綿と受け継がれてきた、「家族」という概念そのものの残響だったのだ。
価値観が根底から覆された。母は、この柱時計の中にだけいるのではない。父も、祖父母も、曾祖父母も、みんなこの家にいた。そして、何より、自分自身の心の中にいるはずだ。家に縛り付けることだけが、供養ではない。自分の心の中で、彼らと共に未来へ歩き出すことこそが、本当の意味で家族を大切にすることなのかもしれない。
外では、台風が嘘のように静まり始めていた。屋根裏の小さな窓から、白み始めた空が見えた。蓮は、まるで長い夢から覚めたような心地で、その光を見つめていた。
第四章 心に棲む声
嵐が去った朝の光は、部屋の隅々に溜まった埃をくっきりと照らし出していた。蓮は静かに階段を下り、玄関ホールの柱時計の前に立った。カチ、カチ、と振り子の音は変わらない。しかし、蓮の耳にはもう、特別な囁きは聞こえなかった。彼はそっと時計に触れ、心の中で語りかけた。
『母さん、ありがとう。そして、ごめん。もう大丈夫だから』
その日のうちに、蓮は叔母に電話をかけた。
「叔母さん、家、手放そうと思う」
受話器の向こうで叔母が驚く気配が伝わった。
「でも、一つだけ条件がある。あの柱時計だけは、俺が持っていく」
引っ越しの日は、穏やかな晴天だった。運び出された家具でがらんどうになった家は、蓮が知っているどの空間よりも広く、そして寂しく見えた。最後に、業者と一緒に柱時計を慎重に運び出す。蓮が玄関に立ち、誰もいなくなった家を振り返った。
すると、不思議なことが起きた。壁の染みが、床の軋む音が、窓を揺らす風の音が、まるで歴代の家族たちからの囁きのように聞こえたのだ。「元気でね」「頑張りなさい」「さよなら」。それはもう、依存や執着の対象ではない、温かく、力強いエールだった。蓮は深く一礼し、静かに扉を閉めた。
新しい住まいは、日当たりの良いワンルームのアパートだ。部屋の片隅に置かれた柱時計は、以前より少しだけ小さく見えた。もう、あの不思議な声が聞こえることはない。時計はただ忠実に、新しい部屋の、蓮だけの時間を刻み始めている。それでも、蓮はもう孤独を感じなかった。家族は家という器を離れ、彼の心の中という、もっと確かな場所に棲み着いたのだ。彼は窓を大きく開け放ち、知らない街の喧騒と、新しい風を胸いっぱいに吸い込んだ。
数週間後、蓮はいつものように古書店で本の整理をしていた。買い取ったばかりの古い文学全集の一冊を開くと、間に一枚の家族写真が挟まっていた。セピア色に変色した写真には、見知らぬ家族が、古びた家の前で幸せそうに笑っている。その笑顔が、アルバムで見た自分の家族の笑顔と、ふと重なった。
家族とは、血や家という形あるものではないのかもしれない。それは、人の記憶から記憶へと受け継がれていく、温かい残響のようなものなのだろう。蓮は写真をそっと本に戻し、書棚に収めた。誰かの大切な記憶が、また次の誰かへと旅をしていく。その果てしない連鎖の中に自分もいるのだと思うと、不思議と力が湧いてくるのだった。