忘却の対価

忘却の対価

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第一章 記憶市場アムネシア

アスファルトの匂いが、不意に消えた。

終電間際の踏切の警報音が、脳の中で途切れる。水野圭(みずの けい)が次に感じたのは、乾いた土と、嗅いだことのない甘い香辛料の入り混じった異質な空気だった。目の前には、ランタンの灯りが乱雑に揺れる、薄暗い市場が広がっていた。ざわめきは耳に届くのに、言葉はまるで意味をなさない音の羅列だ。

「……どこだ、ここ」

数秒前まで、彼は東京の片隅で、疲労困憊の体を引きずっていたはずだった。締め切りに追われた三徹明けの頭は、まだ鈍い痛みを訴えている。だが、目の前の光景は、疲労が見せる幻覚にしてはあまりに生々しかった。異国風の衣装をまとった人々が、色とりどりのガラス玉のようなものを手に、熱心に何かを売り買いしている。

その時、腹の虫が情けない音を立てた。視線の先、屋台で焼かれているパンの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。現実感のない状況下でも、生理的な欲求は正直だった。圭はふらふらと屋台に近づき、無意識に財布を探す。だが、ズボンのポケットには空の定期入れしかない。

パンを指さすと、しわがれた顔の店主がにやりと笑い、自分のこめかみを指でトントンと叩いた。対価を払え、ということらしい。圭が身振り手振りで金がないことを伝えると、店主は彼の目の前に立ち、その節くれだった指を圭の額に伸ばした。

ひやり、とした感触。次の瞬間、脳裏に昨日の昼食の光景がフラッシュバックした。コンビニで買った、味気ないペペロンチーノ。それを無感動に口に運ぶ自分の姿。その映像が、まるでデータファイルを抜き取られるかのように、急速に色褪せていく。

「あっ……」

店主が指を離すと、手の中には乳白色にうっすらと輝く小さなガラス玉が握られていた。そして、圭の頭の中から、「昨日の昼食」に関する一切の情報が消え失せていた。何を食べたのか、思い出せない。空腹だったことだけは覚えているのに、その中身がすっぽりと抜け落ちている。

店主は満足げに頷き、ガラス玉を木箱にしまうと、温かいパンを一つ、圭の手に押し付けた。

圭はパンを握りしめたまま、その場に立ち尽くした。ここは、記憶が通貨になる世界。理解が追いつかないまま、彼はその世界の冷たい法則を、身をもって体験したのだった。

第二章 忘却者たちの街で

その世界は「アムネシア」と呼ばれていた。圭は日々の糧を得るため、自分の些細な記憶を切り売りして生き延びる術を学んだ。一週間前の天気。学生時代に聞いた流行歌の歌詞。昨日見た空の色。そんな、失っても惜しくないはずの記憶がガラス玉――「記憶晶(メモリア)」へと変わり、パンや水になった。

しかし、記憶を売るたびに、自分の過去に小さな穴が空いていく感覚は、言いようのない恐怖を伴った。市場の片隅には、すべての記憶を売り払い、自分が誰なのか、どこから来たのかさえ忘れてしまった「忘却者(ロストワン)」たちが、虚ろな目で座り込んでいる。彼らの瞳には何の光もなく、ただ呼吸をしているだけの抜け殻のようだった。ああなってはいけない。圭は固く心に誓った。

元の世界へ帰りたい。その一心で、圭は情報を集め始めた。そして、リラという女性と出会った。彼女は、市場で希少な記憶を取引する情報屋で、琥珀色の瞳の奥に深い憂いを湛えていた。

「故郷に帰りたいのね。そういう人間、何人も見てきたわ」

リラは、圭が差し出した「子供の頃、初めて自転車に乗れた日の記憶」を鑑定しながら言った。その記憶晶は、ひときわ明るい光を放っていた。

「世界を渡るには、膨大なエネルギーが必要。街の外れにある『転移の門』を動かすには、最高純度の記憶晶が要るの」

「最高純度の……? それは、どんな記憶なんだ?」

圭の問いに、リラは少しだけ目を伏せた。「誰もが宝物にするような、幸福で、鮮烈な記憶よ。例えば……愛する人との誓いの記憶とか、人生で最も感動した瞬間の記憶とかね」

圭の脳裏に、一つの光景が浮かんだ。病院のベッドで、細い腕に点滴の管を繋がれながらも、健気に笑う妹の顔。

『お兄ちゃん、退院したら、またあの公園に連れてってね。今度はブランコ、もっと高く漕げるようになりたいな』

それが、この世界に来る三日前の会話だった。あの約束。妹の笑顔。それこそが、今の圭を支えるすべてだった。この記憶だけは、何があっても手放すわけにはいかない。

「俺は、絶対に帰る。どんな代償を払ってでも」

圭の強い決意を感じ取ったのか、リラは静かに頷いた。「分かったわ。門の場所を教える。でも、覚えておいて。アムネシアは、いつだって一番大切なものを欲しがる世界よ」

リラの言葉が、予言のように圭の胸に重くのしかかった。彼は妹との思い出を心の金庫にしまい込み、他の記憶をかき集めて、門を目指すことを決意した。たとえ自分の過去が虫食いだらけになっても、帰るべき場所さえ覚えていれば、それでいいはずだった。

第三章 帰郷のパラドックス

リラに教えられた場所は、街の最も古い区画にある、苔むした石造りの遺跡だった。その中央に、巨大なアーチ状の門が鎮座している。表面には解読不能な文字がびっしりと刻まれ、まるで生きているかのように微かな光を放っていた。これが「転移の門」。

圭は、これまで売り払わずに貯めてきた、価値の高い記憶晶をいくつか手に握りしめていた。「大学の卒業式で、友人と肩を組んで泣いた記憶」「初めてデザインの仕事で認められた日の高揚感の記憶」。これだけあれば、門は開くはずだ。

門の中央にある窪みに、圭は震える手で記憶晶を一つ置いた。しかし、門はうんともすんとも言わない。光が弱すぎるのだ。彼は焦りながら、次々と記憶晶を捧げていく。だが、門の光はわずかに強まるだけで、開く気配は一向になかった。

「どうしてだ……これ以上、何を差し出せばいいんだ……!」

途方に暮れた圭の背後から、静かな声がした。

「無駄よ。そんな記憶じゃ、門は開かない」

振り返ると、リラが立っていた。彼女の琥珀色の瞳は、悲しいほどに澄んでいた。

「どういうことだ? あなたは、幸福な記憶が必要だと言ったじゃないか!」

「ええ、言ったわ。でも、一番大事なことを伝え忘れていた」リラはゆっくりと門に近づき、その冷たい石肌に触れた。「この門が要求する、たった一つの最高純度の記憶。それはね……」

彼女は一度言葉を切り、圭の目をまっすぐに見つめた。

「『故郷に帰りたいと願う、その強い想いの記憶そのもの』よ」

圭の思考が、凍りついた。

「……なんだって?」

「門を動かすエネルギー源は、異世界への強い憧れや、故郷への強い渇望。つまり、ここではないどこかへ行きたいと願う、その情念の記憶なの。あなたが『帰りたい』と強く願えば願うほど、その記憶の価値は高まり、門を開く鍵になる。でも……」

リラの言葉が、圭の心臓に突き刺さる。

「その記憶を対価として支払ってしまえば、あなたは故郷に帰ることはできても、なぜ自分が帰りたかったのか、その理由も、動機も、衝動も、すべてを失うことになる」

絶望的なパラドックス。帰るために、帰りたいという想いを捨てなければならない。それは、目的地に着いた瞬間、自分がなぜ旅をしていたのかを忘れてしまうに等しい。ただ肉体が移動するだけで、魂は置き去りにされる。

圭は崩れるように膝をついた。妹との約束。彼女の笑顔。それが彼の帰りたいと願う理由のすべてだった。その想いを捧げてしまえば、たとえ妹の前に立てたとしても、自分はもはや「兄」ではいられないのではないか。約束を果たしに来たことさえ、分からなくなってしまうのではないか。

「私も……」リラが絞り出すように言った。「失った家族の記憶を取り戻したくて、ずっと他人の記憶を集めてきた。でも、最後に必要だったのは、『家族を忘れたくないと願う、この切ない想いの記憶』だった。それを払えば、家族の記憶は戻るかもしれない。でも、彼らを愛していた私の心は、空っぽになってしまう……」

二人の前に、残酷な選択肢だけが横たわっていた。アムネシアは、いつだって一番大切なものを欲しがる。リラの言葉が、現実となって圭に襲いかかった。

第四章 魂が覚えている約束

圭は何日も門の前で悩み続けた。記憶を失う恐怖と、帰れない絶望の間で、心はすり減っていく一方だった。彼は自分の残り少ない記憶を、何度も何度も頭の中で再生した。仕事に疲れ、現実から逃げたいと願っていた夜。アムネシアに来て、失うことの痛みを知った日々。そして、どんな時も心の支えだった、妹の笑顔。

『お兄ちゃん、また公園に連れてってね』

あの声が、彼の存在の核だった。この記憶があるから、彼は彼でいられる。だが、この記憶に固執すれば、二度と妹に会うことはできない。

ある嵐の夜、圭はついに決意を固めた。彼はリラのもとを訪れ、静かに告げた。

「俺は、帰るよ」

「……正気なの? 意味を失った帰郷に、何があるというの」リラの声は震えていた。

「意味なら、ある」圭は自分の胸に手を当てた。「頭が忘れても、きっと魂が覚えている。俺の体が、細胞の一つ一つが、妹との約束を覚えているはずだ。理由なんて分からなくてもいい。ただ、あの子のそばにいる。それだけで、俺が帰る意味になる」

彼の瞳には、恐怖を乗り越えた者の、静かで力強い光が宿っていた。それは、記憶という論理を超えた、もっと根源的な愛の決断だった。

再び、門の前に立つ。圭は目を閉じ、心のすべてを集中させた。妹に会いたい。あの約束を果たしたい。帰らなければならない。彼の渇望が、胸の中で灼熱の塊となって燃え上がる。

「頼む……!」

圭が叫ぶと、彼の額から、これまでで最も眩い、太陽のような光を放つ記憶晶が生まれ、門の窪みへと吸い込まれていった。

瞬間、世界が白い光に塗りつぶされる。

次に圭が目を開けた時、彼は見慣れた踏切の前に立っていた。カン、カン、カン、と無機質な警報音が鳴り響いている。頭がぼんやりとして、ひどく混乱していた。なぜ自分はこんな場所にいるのだろう。何か、とても大切な用事があった気がするのに、それが何なのか全く思い出せない。

ただ、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。温かくて、切ない疼き。誰かに会わなければならない。そうしなければ、自分が自分でなくなってしまうような、抗いがたい衝動が内側から突き上げてくる。

足が、勝手に動き出す。記憶を頼りにしているのではない。体が、魂が、向かうべき場所を知っているかのように。やがて、彼は大きな病院の前にたどり着いた。

吸い寄せられるように院内に入り、ある病室のドアの前で立ち止まる。名札には、見覚えのない名前が書かれていた。だが、彼は迷わずドアを開けた。

ベッドの上で、窓の外を見ていた少女が、ゆっくりとこちらを振り返る。痩せてはいるが、澄んだ瞳をした、愛らしい少女だった。

少女は、圭を見て、ふわりと微笑んだ。

その笑顔を見た瞬間、圭の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

理由は分からない。この少女が誰なのかも思い出せない。なぜ自分が泣いているのかも、全く理解できない。

けれど、分かった。

守るべき、かけがえのない宝物が、今、目の前にある。

彼は記憶を失った。帰りたいと願った理由さえ、忘れてしまった。

だが、愛は残っていた。魂に刻まれた約束は、決して消えてはいなかった。圭は、しゃくりあげながら、それでも少女に向かって、精一杯の笑顔を作った。

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