響界の調律師

響界の調律師

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ヘッドホンの中で、またあの音がした。
常人には聞き分けられない、微かな高周波ノイズ。音響エンジニアである俺、桐谷奏(きりたにかなで)の耳だけが捉える、忌まわしい音。どんなフィルターをかけても消えないそれは、まるで世界の基盤にこびりついた耳鳴りのようだった。
「またか……」
コンソールのフェーダーを弄りながら、俺はそのノイズの波形を睨みつけた。特定のパターンを持つ、人工的でありながら不規則な響き。それに意識を集中させた瞬間、ぐにゃり、と視界が歪んだ。スタジオの風景が溶け、色彩が滲み、音が遠のいていく。激しい浮遊感の後、俺は硬い地面に背中を打ちつけていた。

見上げた空は、淡いセピア色をしていた。周囲には、見たこともない植物が水晶のように輝き、風が吹くたびに、ちりん、と涼やかな音を立てる。
「……なんだ、ここ」
状況が飲み込めない。夢か? にしては、土の匂いや肌を撫でる風がやけにリアルだ。
立ち上がろうとした俺の耳に、か細い歌声が届いた。それは歌と呼ぶにはあまりに途切れ途切れで、まるで壊れたオルゴールのような旋律だった。音のする方へ歩くと、泉のほとりで一人の少女が膝を抱えていた。
「君、大丈夫か?」
少女はびくりと肩を震わせ、翡翠色の瞳で俺を見上げた。年の頃は十五、六だろうか。亜麻色の髪を揺らし、彼女は何かを訴えようと口を開くが、そこから漏れるのは掠れた息の音だけだった。
彼女が指差す先には、もう一人、ぐったりと横たわる青年の姿があった。彼の身体の所々が、まるで古い写真のように色褪せ、透けている。
「これは……」
俺が絶句していると、少女は懐から古びた音叉を取り出し、そっと岩に打ち付けた。ポーン、と澄んだ音が響く。すると、彼女の掌に小さな光の玉が生まれ、青年に向かって飛んでいった。だが、光は青年に届く寸前で霧散してしまう。
少女は悲痛な表情で、何度も音叉を鳴らす。そのたびに生まれる光は、弱々しく消えていく。
俺は思わず口を開いた。
「……違う。その音じゃ、エネルギーが減衰するだけだ」
「え?」
少女は驚いて俺を見た。初めてまともな声を聞いた気がする。
「あんたのその音叉、たぶんA(ラ)の音、440ヘルツだろ。でも、この場の空気、というか空間全体が微妙に違う周波数で満ちてる。あんたの音が、空間の固有振動と干渉して、打ち消し合ってるんだ」
俺が何を言っているのか、少女は全く理解できない顔をしていた。当然だ。俺自身、何を言っているのか半信半疑なのだから。だが、俺の耳は、この世界の奇妙な法則を正確に捉えていた。
「貸してみろ」
俺は少女から音叉を受け取ると、指でそっと弾いた。耳元に近づけ、その微細な振動を聞き分ける。そして、ポケットからスマートフォンを取り出した。幸い、まだバッテリーは残っている。チューナーアプリを起動すると、案の定、この世界の基準音は俺たちの世界のそれより僅かに高かった。
「なるほどな……。あんたがやろうとしてるのは、たぶんヒーリング系の何かだろ。それなら、もっと調和の取れた響きが必要だ。例えば……そうだ、完全五度のハーモニーを作ってみろ。この音に対して、E(ミ)の音を重ねるんだ」
「いー……の、おと?」
「ドレミファソラシドのミだ。あんた、歌えるか?」
少女はこくりと頷くと、おずおずと口を開いた。俺は彼女の声に合わせて、手にした音叉を鳴らすタイミングを指示する。
「そう、その高さだ。いいか、俺が合図したら、その音をできるだけ長く、綺麗に伸ばせ。いくぞ……さん、はい!」
少女の澄んだソプラノが響き渡る。俺は完璧なタイミングで音叉を打ち鳴らした。
瞬間、二つの音が共鳴し、眩いばかりの光が渦を巻いた。それは先程までの弱々しい光とは比べ物にならない、力強い輝きだった。光は真っ直ぐに青年へと流れ込み、彼の透けていた身体がみるみるうちに実体を取り戻していく。
「……兄さん!」
少女――リラは、駆け寄って青年の手を握った。
この世界は「響界(きょうかい)」。全ての事象が「音」によって支配される世界。魔法は呪文ではなく「旋律」で、奇跡は詠唱ではなく「演奏」で起こる。リラの話を要約すると、そういうことらしかった。
そして今、この響界は「無音(サイレンス)」と呼ばれる現象に脅かされているという。音が力を失い、存在そのものが消えていく病。彼女の兄も、その犠牲者の一人だった。
「奏の耳は、まるで神様のようだわ」
リラは俺を尊敬の眼差しで見つめる。俺は音響エンジニアだ。神様なんかじゃない。だが、俺の知識と技術が、この世界では神業に等しい価値を持つらしい。それは、プロとして少しばかり、いや、かなり胸が躍る事実だった。

俺はリラと共に、「無音」の原因を探る旅に出ることになった。旅の途中、俺は奇妙な事実に気づく。この世界を蝕む「無音」の気配は、俺が元の世界で聞いていた、あの忌まわしいノイズと酷似しているのだ。周波数パターンが、完全に一致している。
「まさか……」
俺の世界のノイズが、この世界を破壊している?
仮説は、響界の中心に聳える「調律の塔」で確信に変わった。塔の最上階、そこには巨大な水晶の音叉が鎮座していた。世界の音の調和を司る、いわばこの世界の心臓部だ。だが、その水晶は不気味に黒ずみ、耳障りな不協和音を絶え間なく発していた。
「これが……『無音』の源……!」
リラが息を呑む。
俺は水晶に近づき、その表面に手を触れた。びりびりと伝わる嫌な振動。そして、脳内に直接響いてくる様々な「音」。それは、俺が暮らしていた世界の音だった。車のクラクション、電車の走行音、スマートフォンの通知音、エアコンの室外機の唸り――ありとあらゆる現代の環境音が混ざり合い、混沌としたノイズとなってこの世界の心臓を乱していたのだ。
次元の壁に偶然空いた小さな穴から、俺たちの世界の「騒音」が漏れ出し、この世界の「調和」を破壊していた。そして、そのノイズに最も敏感だった俺が、いわばアンテナのようにこの世界へ引き寄せられた。
「どうすれば……こんなもの、どうやって止めれば……」
リラが絶望の声を上げる。
だが、俺の目は、絶望とは違う色に燃えていた。
「止めるんじゃない。チューニングするんだ」
俺は不敵に笑うと、スマートフォンを取り出した。録音アプリを起動し、マイクを巨大な水晶に向ける。
「リラ、俺の言う通りに歌ってくれ。これは、この世界を救うためのセッションだ」
俺は録音した不協和音の波形を分析し、その音を完全に打ち消すための「逆位相」の波形を脳内で設計する。それは、無数の音の断片を組み合わせた、複雑怪奇なメロディだった。
「こんな無茶苦茶なメロディ、歌えないわ!」
「歌うんだ。君にしかできない。君の声は、この世界で最も純粋なサイン波だ。理論上、完璧なカウンターサウンドになる」
俺の言葉に、リラは覚悟を決めたように頷いた。
俺は指揮者のように両手を広げる。
「いくぞ! カウント、スリー、フォー!」
リラの歌声が、塔全体を震わせた。それは、常識的な音楽からはかけ離れた、不規則で起伏の激しい旋律。だが、その声が黒い水晶に届いた瞬間、耳障りだった不協和音がピタリと止んだ。
逆位相の音が、ノイズを打ち消したのだ。ノイズキャンセリング。俺がいつもヘッドホンの中でやっていることを、世界規模でやってのけた瞬間だった。
静寂が訪れる。だが、それは「無音」の虚無ではない。全ての音が調和を取り戻した、完璧な静寂。やがて、巨大な水晶の音叉は、澄み切った輝きを取り戻し、深遠で美しい基音を朗々と響かせ始めた。
その音は、世界中に広がっていく。色褪せていた大地に色彩が戻り、枯れていた花が再び咲き誇る。人々の顔に活気が戻り、世界が再び美しいシンフォニーを奏で始めた。

俺をこの世界に繋ぎとめていた次元の歪みも、調律が正常に戻ったことで急速に消えていく。身体が透け始め、元の世界に引き戻されようとしているのが分かった。
「奏!」
リラが俺の名を呼ぶ。その声は、もう掠れてはいなかった。
「世話になったな。君たちの世界の音楽、こっちでも流行らせてみるよ」
俺は精一杯の軽口を叩き、親指を立ててみせた。リラは涙を浮かべながら、最高の笑顔で頷いた。

意識が浮上する。
気づけば、俺はいつものスタジオの椅子に座っていた。窓の外は、見慣れた東京の夜景が広がっている。
全ては夢だったのだろうか。
俺はそっとヘッドホンを外した。すると、いつもはノイズとしか感じていなかった街の喧騒が、全く違って聞こえた。車の走行音、人々の話し声、遠くで鳴るサイレン。それら全てが混ざり合い、一つの壮大な音楽を形作っている。不協和音だらけだが、生命力に満ち溢れた、力強いシンフォニーだ。
俺は窓を開け、夜風と共に流れ込んでくるその「音楽」に、静かに耳を澄ませた。この世界の音も、案外悪くない。俺は、響界の調律師。そして、この世界の調律師でもあるのだから。

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