***第一章 白紙の頁は囁く***
水無月湊の人生は、古書の黴とインクの匂いで満たされていた。街の片隅でひっそりと営む「時紡ぎ書房」。その名の通り、そこは忘れられた時間たちが埃を被って眠る場所だった。湊自身もまた、現実という喧騒から逃れ、物語の影で息をする人間だった。人と深く関わることを避け、本の背表紙をなぞる指先だけが、彼の世界との唯一の接点だった。
その日、店の古びたドアベルが、錆びた音を立てた。入ってきたのは、見慣れない老人だった。皺深い手でカウンターに置かれたのは、一冊の分厚い本。装丁は黒い革で、何の飾りも、タイトルすらもない。湊が手に取ると、ずしりとした重みが腕に伝わった。
「これは……?」
「引き取ってくれんかの。わしにはもう、必要ないものじゃ」
老人はそれだけ言うと、湊が代金を渡す間もなく、風のように去っていった。残されたのは、謎めいた無地の本。好奇心に駆られ、湊はページを繰った。しかし、どのページも真っ白だった。上質な羊皮紙と思しき紙は、滑らかで、インクの一滴すら染みたことがないように見える。ただの白紙の束。だが、なぜだろう。その沈黙するページから、何者かの強い意志のようなものが滲み出ている気がしてならなかった。
その夜、店を閉め、二階の自室で湊は再びその本を開いていた。窓を打つ雨音が、彼の孤独を際立たせる。白紙のページをぼんやりと眺めていた、その時だった。
ふ、とインクの染みが広がるように、ページの中央に文字が浮かび上がったのだ。心臓が跳ねる。それは幻覚ではなかった。まるで水面に描かれる波紋のように、美しい筆記体の文章が、次々と紙の上に紡がれていく。
『僕の描いた海は、誰もいない。ただ青いだけの絶望が、水平線の彼方まで続いている。キャンバスに塗り込めたのは、僕の魂の色だ。誰か、この色に名前をつけてくれないか』
それは、夭折した孤独な画家の独白だった。物語は悲哀に満ち、読む者の胸を締め付ける。そして、最後のページに、こう記されていた。
『君を待っている』
文字はしばらくすると陽炎のように揺らめき、跡形もなく消えて、ページは再び純白に戻った。湊は呆然と本を見つめた。これは一体、何なのだ? まるで、本そのものが意思を持ち、彼に語りかけているかのようだった。この日から、湊の静かすぎた日常は、白紙の頁が囁く不可思議な物語に、静かに侵食されていくことになる。
***第二章 ありえたかもしれない僕の影***
奇妙な現象は、その夜一度きりではなかった。毎晩、湊が本に触れると、新たな物語が浮かび上がるのだ。ある夜は、星の海を渡り、未知の言語を解読しようとする孤独な航海士の物語。またある夜は、聴衆のいないホールで、たった一人のためにピアノを奏でる音楽家の物語。
どの物語の主人公も、驚くほど湊に似ていた。物事の捉え方、孤独への親和性、そして、心の奥底に抱えた渇望。まるで、それは「ありえたかもしれない湊の人生」の断片を覗き見ているようだった。彼はいつしか、この本が示す世界を、自分とは異なる次元に存在する「異世界」なのだと確信するようになっていた。
どの物語も、それぞれの世界で類稀なる才能を持ちながら、決定的に何かが欠けていた。そして、物語の結びには必ず、あの言葉が現れるのだ。『君を待っている』。その言葉は、湊の心に小さな棘のように刺さり、疼いた。誰が、誰を待っているというのか。
そんな湊の世界に、ささやかな変化が訪れた。店の常連客である、女子高生の小夜だ。彼女は、湊とは正反対に、太陽のような明るさを持つ少女だった。
「湊さん、また難しい顔して。何を読んでるんですか?」
カウンターで例の本を眺めていた湊に、小夜が悪戯っぽく笑いかける。湊は慌てて本を伏せた。
「いや、これは……ただの古い本だよ」
「ふぅん? でも、湊さんがそんなに夢中になるなんて、すごい物語なんですね」
小夜の屈託のない笑顔は、湊が築いてきた心の壁を、少しずつ溶かしていくようだった。彼女が店にいる時間だけ、古書の黴臭い空気が、ふわりと華やぐ気がした。本の中の孤独な「僕」たちとは違う、温かい現実がここにはあった。しかし湊は、その温かさにどう触れていいのか分からず、戸惑うばかりだった。
彼は、異世界の物語にますます深く没入していった。それは、現実の小夜との関係から逃げるための、無意識の避難だったのかもしれない。本の中の「僕」たちは、決して彼を拒絶しない。ただ、静かにその孤独を共有してくれるだけだったからだ。
***第三章 嵐が明かした物語***
季節が移ろい、嵐が街を襲った夜だった。店を閉めた湊は、激しい風雨の音を聞きながら、いつものようにあの本を開いた。今夜はどんな物語が紡がれるのだろうか。期待と不安が入り混じる中、インクがページを濡らし始めた。
しかし、今夜の物語は今までとは全く違っていた。
そこに描かれていたのは、彼が今いるこの世界と、ほとんど同じ世界だった。時紡ぎ書房の店主である「僕」。本が好きで、人付き合いが苦手な「僕」。違うのは、たった一つ。その「僕」の隣には、いつも小夜がいた。二人は恋人同士で、ささやかながらも幸福な毎日を送っていた。古書店のカウンターで交わされる何気ない会話、一緒に見上げる夕焼け、指先が触れ合う瞬間のときめき。そこには、湊が心のどこかで渇望していた全てがあった。
湊は息を詰めてページを追った。胸が張り裂けそうだった。これは、自分が選び取らなかった、幸福な可能性の物語なのだ。
だが、物語は突然、暗転する。
ある雨の日、二人を乗せた車が事故に遭う。一瞬の閃光と衝撃。「僕」は軽傷で済んだが、隣にいた小夜は……帰らぬ人となった。
ページは、絶望の言葉で埋め尽くされた。色彩を失った世界。時間の止まった部屋。小夜のいない現実は、彼にとって生き地獄だった。彼女の笑顔も、声も、温もりも、全てが失われた。
『君のいない世界に、意味などない』
絶望の淵で、「僕」はある禁断の知識に手を伸ばす。それは、世界の理を歪め、次元の壁を越えるための古の魔術。彼は、自分の魂を削り、ありったけの記憶と願いを込めて、一つの道具を創り上げた。
それが、この「白紙の本」だった。
『僕は、僕が存在しうる全ての並行世界に、この本を送る。僕が彼女と出会えなかった、あるいは、彼女を守りきれなかった、全ての僕へ。どうか、僕の代わりに、小夜を守ってほしい。彼女のいる世界の尊さを、知ってほしい』
湊は愕然とした。そういうことだったのか。この本は、異世界の自分が、愛する人を失った絶望の果てに生み出した、悲痛な願いそのものだったのだ。
『君を待っている』
最後のページに現れたその言葉は、もはや謎ではなかった。それは、小夜のいない世界の果てからの、もう一人の自分の魂の叫びだった。
湊は、自分の価値観が根底から覆されるのを感じた。今まで彼は、この退屈な現実から逃げ出したくて、本の中の「異世界」に憧れていた。しかし、その彼が退屈だと切り捨てていた日常こそ、別の世界の自分が、命を懸けてでも取り戻したかった、かけがえのない奇跡だったのだ。
彼が逃げていたこの場所こそが、誰かにとっての「異世界」だったのである。
***第四章 ここが僕のいるべき場所***
嵐が過ぎ去った朝、空は嘘のように晴れ渡っていた。湊は、一睡もせずに夜を明かした。カウンターに置かれた黒い革張りの本は、ただ静かにそこにあるだけだった。もう、それに触れても文字が浮かび上がることはないだろう。本は、その役目を終えたのだ。
カラン、とドアベルが鳴った。そこに立っていたのは、心配そうな顔をした小夜だった。
「湊さん、よかった。昨日の嵐、すごかったから……お店、大丈夫でしたか?」
「……ああ、大丈夫だ」
彼女の何気ない言葉と、変わらない笑顔。その姿が、昨夜見た物語の残像と重なる。湊の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。驚く小夜の前で、彼は子供のように声を上げて泣いた。異世界の「僕」の悲しみと、今ここに小夜がいるという途方もない幸福が、ごちゃ混ぜになって胸に込み上げてきたのだ。
「ごめん……なんでもないんだ。本当に、なんでもない」
涙を拭い、湊は精一杯の笑顔を作った。それは、彼が生まれて初めて、自分の意志で浮かべた笑顔だったかもしれない。
「小夜さん、もしよかったら……お茶でもどうかな」
それは、湊にとって、世界を反転させるほどの勇気を要する一言だった。小夜は一瞬きょとんとした後、花が咲くように笑った。
「はい、ぜひ!」
湊は、異世界へ旅立ったわけではない。しかし彼は、確かに「異世界」を知った。それは、遥か彼方の空想の世界などではない。自分が選び取らなかった無数の可能性。すぐ隣にある日常の、奇跡的なまでの尊さ。それら全てが、彼の「異世界」だった。
小夜と温かいお茶を飲みながら、湊は窓の外に目を向けた。見慣れたはずの街並みが、昨日までとは全く違って見えた。道行く人々も、揺れる街路樹も、空を流れる雲も、全てが愛おしく、輝いて見えた。
彼の傍らには、もう何も語らない白紙の本が静かに置かれている。それは、ある男の絶望と愛の物語であり、そして今、湊が新しい物語を紡ぎ始めるための、最初の真っ白なページなのだった。ここが、彼がいるべき場所なのだ。湊は、確かな実感とともに、そう思った。
君のいない世界の果てで
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