彩音郷のフォトグラフ

彩音郷のフォトグラフ

6
文字サイズ:

***第一章 褪せたセピアの嘘***

水島湊の時間は、四年前のあの雨の日に止まったままだ。妹の澪を失ってから、世界は色褪せ、音をなくした。かつてあれほど情熱を注いだカメラは、今や部屋の隅で静かに埃を被っている。彼はただ、惰性で大学に通い、意味のないアルバイトをこなし、空っぽの部屋に帰るだけの毎日を繰り返していた。

その日、湊はふと、母親が残していった古いアルバムを開いた。一枚一枚、セピア色に染まった思い出を指でなぞる。幼い自分がいて、その隣にはいつも、花のように笑う澪がいた。一枚の写真に、指が止まる。夏の日差しの中、ひまわり畑で笑う自分と澪。見慣れたはずのその写真に、違和感を覚えた。

二人の少し後ろ。ひまわりの影に隠れるように、第三の人物が写り込んでいる。

今まで、一度も気づかなかった。顔は判然としないが、風に揺れる長い髪と、この世界の衣服とは明らかに違う、どこか異国の民族衣装のようなものを身に着けた少女だった。湊は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。これは誰だ? なぜ、自分たちの思い出のど真ん中に、見知らぬ誰かがいる?

湊はその写真を凝視した。少女が立つ背後の空は、見たこともないような深い琥珀色に染まっている。まるで、この世のものではない風景。記憶の扉が軋む音がした。これは、ただの心霊写真などではない。もっと根源的な、自分の存在そのものを揺るがす何かの予兆であるように思えた。

その夜、湊は夢を見た。琥珀色の空の下、風が吹くと、草木がガラス細工のような澄んだ音を立てて鳴る世界に立っていた。足元には水晶でできた川が流れ、魚の代わりに光の粒が泳いでいる。遠くには、ひまわりによく似た、しかし花弁そのものが淡い光を放つ花々が咲き乱れていた。写真で見た、あの風景だ。背後で、リン、と鈴の音がした。振り返ると、あの写真の少女が立っていた。彼女は何も言わず、ただ静かに微笑んで、湊に手を差し伸べていた。

***第二章 音が色づく世界***

それから毎夜、湊は夢の中でその世界――彩音郷(さいおんきょう)を訪れるようになった。眠りに落ちると、意識は滑らかにあの琥珀色の空の下へと旅立つ。そこは、言葉が存在しない世界だった。人々は、胸の奥から湧き上がる「心音(しんおん)」と呼ばれる、その人固有の音色で意思を疎通する。喜びは軽やかなフルートの調べとなり、悲しみはチェロの低く咽ぶような響きになる。湊は言葉を発せなかったが、不思議と彼らの心音は理解できた。そして、湊自身の感情もまた、おぼつかないながらも微かな音となって、この世界の住人たちに伝わっているようだった。

湊は、あの写真の少女を探した。彼女はいつも、光るひまわりの咲く丘にいた。名をルナという。彼女の心音は、まるで古いオルゴールのように、どこか懐かしく、切ない旋律を奏でていた。

「ここは、強い想いが流れ着く場所。忘れられた記憶や、叶わなかった願いが形作る世界なの」

ルナは、心音に澄んだ光のイメージを乗せて、湊に語りかけた。彼女の説明によれば、彩音郷は現実世界で生きる人々の魂の残滓が寄り集まってできた、記憶の海のような場所だという。だから、この世界の風景はどこか現実と似ていながら、決定的に異なっているのだ。

湊は、自分の心が少しずつ色を取り戻していくのを感じていた。現実世界では感じることのなかった、穏やかな安らぎがそこにはあった。彼は、この美しい世界に、失われた澪の面影を探し始めていた。澪もまた、強い想いを残して逝ったはずだ。ならば、彼女の記憶のかけらが、この彩音郷のどこかに流れ着いているのではないか。

「澪に、会いたいんだ」

湊の心音が、震えながら悲痛なヴィオラの音色を奏でた。ルナは黙ってその音を受け止めると、悲しげに瞳を伏せた。

「あなたの想いが真実なら、きっと会える。この世界の最も深い場所……記憶の源流へ行けば」

ルナは湊の手を取り、水晶の川の上流へと導き始めた。そこは、個人の記憶が溶け合い、世界の原型となる場所だという。湊の胸は高鳴った。もう一度、澪に会えるかもしれない。あの笑顔を、もう一度見られるかもしれない。失われた時間を取り戻せるかもしれない。その希望だけが、湊を突き動かしていた。現実の灰色の日々を耐えるための、唯一の光だった。

***第三章 ファインダー越しの真実***

記憶の源流は、色も音も形も失った、まばゆい光の渦だった。ルナに支えられながら、湊はその中心へと足を踏み入れる。澪、澪、と心の中で呼び続ける。彼の切なる願いに応えるように、光の中から一つの情景が浮かび上がってきた。

それは、見慣れた自分の子供部屋だった。机の上にはスケッチブックが広げられ、そこには、ひまわりのように笑う少女が描かれている。傍らには、日記が置かれていた。

『きょう、みおといっしょに、うみへいった。みおは、きれいなかいがらをみつけて、ぼくにくれた』

拙い文字。それは紛れもなく、幼い自分の筆跡だった。しかし、湊の全身から血の気が引いた。その日の記憶に、澪はいない。自分は、たった一人で浜辺を歩き、一人で貝殻を拾ったはずだ。

次々と、記憶の断片が奔流となって押し寄せる。二人乗りをした自転車。一緒に作った秘密基地。澪のために撮った数々の写真。そのすべてが、音を立てて崩れていく。どの思い出の中にも、本当は澪の姿などなかった。いるのはいつも、孤独な少年時代の湊、ただ一人だった。

写真。そうだ、あの写真は。湊はハッとして、ポケットを探るように手を動かした。現実の自分が持っているはずの、ひまわり畑の写真。あの写真も、自分が巧みに合成したものだった。カメラ好きの少年が、孤独に耐えきれず、自分の手で作り上げた「理想の妹」との「思い出」。

絶望的な真実が、湊の意識を焼き尽くした。
妹の、水島澪は、事故で死んだのではない。
――そもそも、最初から、存在しなかったのだ。

「そんな……嘘だ……」

声にならない叫びが、音のない悲鳴となって彩音郷に木霊した。なぜ、忘れていた? なぜ、こんな残酷な嘘を、自分は信じ込んでいた? 成長するにつれて、空想の妹がいるという現実が耐えがたいものになり、無意識のうちに「彼女は事故で死んだ」という、より受け入れやすい悲劇へと記憶を改竄したのだ。そうして蓋をした心の傷が、孤独が、この彩音郷という広大な幻想世界を創り上げていた。

湊は崩れるように膝をつき、目の前のルナを見上げた。彼女は、悲しい微笑みを浮かべていた。彼女の姿が、スケッチブックに描かれた「理想の妹」の面影と重なる。写真に写り込んでいた謎の少女も、この彩音郷も、そしてルナ自身も。すべては、湊の孤独が生み出した、巨大な幻だった。

「あなたは、知りたがっていたから」
ルナが、初めて現実の「言葉」で語りかけた。その声は、湊がずっと聞きたいと願っていた、優しく澄んだ声だった。
「あなたが前に進むためには、この嘘を終わらせなくちゃいけなかった」

ルナの姿が、光の粒子となって少しずつ透け始めていた。真実が暴かれたことで、幻想の世界はその存在意義を失い、崩壊を始めようとしていた。

***第四章 きみがいた風景***

琥珀色の空に亀裂が走り、ガラス細工の草木が砕け散っていく。水晶の川は干上がり、世界のすべてが白い光の中に溶けていく。湊は、消えゆく世界の中で、ただ立ち尽くしていた。愛した妹との思い出、彼女を失った悲しみ、再会を願った希望。そのすべてが、自分の脳が生み出した虚構だったという事実を受け止めきれずにいた。

「行かないでくれ」

湊は、透けていくルナの腕を掴もうとした。指先が、空気を掻く。

「もう、一人にしないでくれ……」

それは、幼い頃からずっと、彼の心の奥底にあった叫びだった。その叫びに、ルナ――湊が作り出した理想の幻影――は、穏やかに首を振った。

「あなたは、もう一人じゃない」
彼女の心音が、最後の旋律を奏でる。それは、湊が今まで聞いた中で、最も温かく、力強い音色だった。
「私がいたから、あなたは寂しさを乗り越えられた。私がいたから、あなたは人の痛みがわかる優しい人になれた。私がいた風景は、あなたの心の中に、本当にあるじゃない」

たとえ幻でも。たとえ嘘から始まった思い出でも。その記憶に支えられ、形作られた今の自分がいる。澪という存在が、孤独だった自分を確かに救ってくれた。その事実は、何一つ揺らがない。

「……ありがとう、澪」

湊は、初めてその名を、感謝と共に口にした。涙が頬を伝う。それは、喪失の涙ではなく、受け入れるための涙だった。ルナは満足そうに微笑むと、完全に光の中へと溶けて消えた。同時に、湊の意識もまた、白い光に包まれていった。

目を開けると、見慣れた自分の部屋の天井があった。窓から差し込む朝日が、床に落ちたアルバムを照らしている。ひまわり畑の写真が、そこにあった。湊と、誰もいない空っぽの空間。しかし、湊にはもう、そこに立つ少女の笑顔が見える気がした。

部屋の隅で埃を被っていたカメラを、彼は手に取った。ずしりとした重みが、不思議と心地よかった。ファインダーを覗くと、切り取られた四角い世界が、以前とは比べ物にならないほど鮮やかに、愛おしく見えた。

湊は、かつて澪の部屋として使っていた、今は物置になっている空っぽの部屋にレンズを向けた。がらんとした空間に、朝の光が柔らかく満ちている。そこに、きみはいた。そして、これからもずっと、僕の中にいる。

カシャッ、と乾いたシャッター音が響いた。
それは、水島湊の時間が、再び動き出した音だった。

TOPへ戻る