意識がインクの染みのようにじわりと広がっていく。
瞼の裏でちらついていた光が鮮明になり、俺、佐藤海(さとうかい)は、自分が苔むした土の上に横たわっていることに気づいた。ひんやりとした土の匂いと、むせ返るような濃い緑の香り。昨夜までの残業で疲れ切った頭には、あまりに不釣り合いな自然の息吹だった。
「どこだ、ここ……」
絞り出した声は掠れていた。見渡す限り、天を突くような巨木が鬱蒼と茂る森。会社の仮眠室だったはずが、どういうわけか見知らぬ場所に迷い込んでしまったらしい。いわゆる、異世界転移というやつか。あまりに唐突な現実を前に、思考が麻痺する。
その時、背後の茂みがガサリと揺れた。振り向いた俺の目に飛び込んできたのは、銀色の毛並みを持つ巨大な狼だった。涎を垂らす牙、飢えにぎらつく赤い瞳。死が、獣の形でそこに立っていた。
「うわっ!」
情けない悲鳴を上げ、後ずさる。助けを呼ばなければ。だが、極度の緊張と恐怖で喉が引きつり、声が出ない。人前で話すのが極端に苦手な俺の欠点が、最悪の形で牙を剥いた。
「た、助け……!」
やっとの思いで絞り出した声は、蚊の鳴くような音しか立てず、狼の低い唸り声にかき消された。絶望が心を塗りつ潰していく。
その瞬間、指先が胸ポケットの硬い感触を捉えた。いつも持ち歩いている、愛用の万年筆と小さなメモ帳だ。プレゼンの資料作りでボロボロになった、唯一の相棒。
なぜかはわからない。ただ、藁にもすがる思いで、俺はメモ帳をひったくり、震える手でページを開いた。万年筆のキャップを外し、無我夢中で何かを書きなぐった。
『壁』
たった一文字。そのインクが紙に染み込んだ瞬間、信じられないことが起きた。俺と狼の間に、轟音と共に土の壁がせり上がったのだ。狼の突進が壁に激突し、土塊を散らす。
「な……んだ、これ……」
呆然とする俺の脳裏に、一つの仮説が閃いた。まさか、書いた文字が現実になるのか?
半信半半疑のまま、俺は次の言葉を書きつけた。
『光』
ページから閃光が迸り、狼の目を眩ませる。怯んだ隙に、俺はさらにペンを走らせた。
『火球』
メモ帳からバスケットボール大の火の玉が生まれ、狼へと撃ち出された。直撃を受けた狼は悲鳴を上げ、森の奥へと逃げ去っていく。
後に残されたのは、焦げた匂いと、自分の能力に震える俺だけだった。
森を抜けた俺がたどり着いた街は、活気に満ちていた。そして、驚くべき光景に満ちていた。
「そこの扉、開きたまえ!」
商人が荷馬車に向かって叫ぶと、荷台の扉がひとりでに開く。
「清き水よ、この杯に満ちよ!」
酒場の女将が杯を掲げると、何もない空間から水が湧き出し、杯を満たした。
ここは「言霊(ことだま)」――言葉が物理的な力を持つ世界なのだ。人々は言葉を紡ぐことで、望む現象を引き起こしていた。
俺の力は、言霊とは似て非なるものらしい。話す言葉に力はないが、書いた文字には絶大な力が宿る。俺はこの力を「文霊(もんれい)」と名付け、人目につかぬよう隠しながら、この世界の情報を集め始めた。
やがて、街の図書館で古い文献を見つけた。かつてこの世界には、言霊を操る「詠唱師」と並び、文霊を操る「書記官」が存在したこと。文霊は、言霊よりも複雑で精密な事象を操れたが、その技術は遥か昔に失われた、と。
そんなある日、街を揺るがす警鐘が鳴り響いた。
「魔獣の襲来だ!百を超える大群が北の平原から迫ってくる!」
見張り台からの絶叫に、街はパニックに陥った。屈強な詠唱師たちが城壁に立ち、「炎の槍よ!」「風の刃よ!」と叫び、魔獣を迎撃する。だが、敵の数はあまりに多く、防衛線は徐々に押し込まれていった。このままでは、街が陥落するのも時間の問題だろう。
俺は唇を噛んだ。隠れるか?それとも、力を使うか?
元の世界では、会議で一言も発言できず、いつも後悔ばかりしていた。でも、今は違う。俺の手には、世界を動かす力がある。
「……もう、逃げるのは終わりだ」
俺は自分に言い聞かせると、街の中央広場へと走り出した。
広場の中心に立ち、愛用の万年筆を握りしめる。人々が訝しげな視線を向ける中、俺は叫んだ。口下手な俺が、生まれて初めて張り上げた、魂の叫びだった。
「時間を稼いでください! 俺がこの街を、守ります!」
詠唱師の一人が「小僧、何をする気だ!」と怒鳴る。俺は答えず、石畳の上に膝をつき、万年筆のペン先を地面に押し当てた。
インクが流れ出す。それはただの黒い液体ではなかった。ペン先から放たれたインクは黄金の光を放ち、石畳の上に輝く軌跡を描き始めた。
俺は頭の中に叩き込んだ古代文献の図を頼りに、巨大な魔法陣を描き始めた。直線、円、複雑な幾何学模様。元の世界で培った几帳面さと集中力が、今ここで花開く。
俺の意図を察したのか、何人かの詠唱師が「あいつを守れ!」と叫び、向かってくる魔獣の分体を必死に食い止めてくれた。
背後で響く爆音と悲鳴。だが、俺はペンを止めない。一筆一筆に魂を込める。それは祈りであり、設計図であり、この世界で生きるという俺の決意表明だった。
どれほどの時間が経っただろうか。最後の一線を結んだ瞬間、地面に描かれた魔法陣が眩い光を放った。
ゴウッ、と風が鳴る。石畳の上の光の線が立ち上り、巨大な光のドームとなって街全体を覆い尽くした。
「なっ……!?」
「これは……伝説の『絶対守護結界』!?」
詠唱師たちが驚愕の声を上げる。結界に突進してきた魔獣たちは、見えない壁に弾き飛ばされ、なすすべもなく後退していく。やがて、勝ち目がないと悟ったのか、群れは撤退を始めた。
広場に、歓声が沸き起こった。人々が俺の名を呼び、駆け寄ってくる。
口下手で、うつむいてばかりだったサラリーマンは、もういない。俺は万年筆を胸ポケットにしまい、顔を上げた。人々が見つめる先で、静かに、だが確かに微笑んだ。
異世界での俺の物語は、まだ始まったばかりだった。
筆は言霊よりも強し
文字サイズ: