白紙の頁が囁く世界

白紙の頁が囁く世界

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***第一章 白紙の頁が囁くとき***

水島奏(みずしまかなで)の世界は、古書のインクと、埃の匂いで満たされていた。神保町の裏路地にひっそりと佇む古書店「時雨堂」。そこで彼女は、まるで時間の標本のように並べられた本たちに囲まれ、静かに息をしていた。現実の喧騒から逃れるように、彼女は物語の森に分け入り、他人の人生を追体験することで、かろうじて自分の輪郭を保っていた。

その本が持ち込まれたのは、冷たい雨がアスファルトを濡らす、灰色の午後だった。店主の老人が留守の間に訪れた客は、顔を深く俯かせたまま、古びた木綿の風呂敷包みをカウンターに置いた。「これを、引き取ってはもらえませんか」。掠れた声だけを残し、男は代金も受け取らずに店を出ていった。

残されたのは、一冊の奇妙な本だった。革と思しき装丁には、タイトルも著者名も、いかなる装飾もなかった。ただ滑らかな、無地の表紙があるだけ。奏は訝しみながらページを繰った。しかし、どの頁も、インクの染み一つない、真っ白な紙が続くだけだった。まるで、これから紡がれる物語を待ちわびる、沈黙そのもののような本。

悪戯だろうか。そう思いながら、無意識に指先でその白紙を撫でた瞬間だった。

――風が、吹いた。

もちろん、店の中は窓も閉め切られ、無風だ。しかし奏の脳裏には、どこまでも広がる草原を渡る、涼やかな風の感触がはっきりと生まれた。目を閉じると、情景はさらに鮮明になる。見たこともない瑠璃色の蝶が舞い、空気は蜜のように甘い花の香りで満ちている。遠くで、水晶を重ねたような優しい音色が響いていた。それは五感を直接揺さぶる、あまりに鮮烈な体験だった。

慌てて本から指を離すと、幻は霧散し、再び古書の匂いと静寂が戻ってくる。心臓が早鐘を打っていた。もう一度、恐る恐る本に触れる。今度は、月光に照らされた静かな湖畔のイメージが流れ込んできた。水面を渡る風はひんやりと肌を撫で、満ち欠けを繰り返す二つの月が、銀色の光の道を水面に描いている。

この本は、文字の代わりに「記憶」を記録しているのだ。

その日から、奏の世界は二つになった。埃っぽい現実の古書店と、白紙の頁に触れることで訪れることのできる、光と風に満ちた異世界。彼女はその名もなき世界にのめり込んでいった。それは、現実から目を逸らすための、甘美で危険な逃避行の始まりだった。

***第二章 言葉紡ぎと忘れられた庭***

奏は、その世界を「アニム」と名付けた。ラテン語で魂や心を意味する言葉から取った、彼女だけの密やかな名前だ。仕事の合間を縫ってはアニムに触れ、その世界の断片を心に焼き付けた。そこは、現実よりもずっと色彩豊かで、感情に満ちていた。

何度目かの接触で、彼女はアニムで初めて「他者」の意識に出会った。

『きみは、誰? 外の世界のひと?』

それは文字ではなく、想念の響きとして直接、奏の心に届いた。声の主は、リヒトと名乗った。彼は、アニムの世界で「言葉紡ぎ」と呼ばれる存在だという。彼らが紡ぐ詩や物語が、この世界の草木や生き物、果ては天候までをも形作るのだと。

リヒトとの対話は、奏にとって至上の喜びとなった。彼の紡ぐ言葉は音楽のように美しく、奏の内向的な心を優しく解きほぐした。彼は奏に、忘れられた花の物語を語り、奏は彼に、現実世界の雨の匂いや、コーヒーの苦さを教えた。二つの世界の住人は、白紙の頁を介して、かけがえのない絆を育んでいった。

しかし、美しい世界には影が差していた。

『この世界は、消えかけているんだ』

ある日、リヒトは悲しげに告げた。アニムは、誰かに記憶され、想われることでその存在を維持しているという。しかし、創造主である「最初の言葉紡ぎ」が遠い昔に不在となって以来、世界は「忘却」という名の病に侵され、少しずつ色彩を失い、無に還りつつあるのだと。

「そんなの、嫌だ」

思わず声が漏れた。奏にとって、アニムはもはや単なる逃避先ではなかった。リヒトのいる、かけがえのない第二の故郷だった。彼を、この美しい世界を、失いたくない。

その日から、奏の行動は変わった。彼女は、アニムで見た風景を拙いながらもスケッチブックに描き留め、リヒトが語ってくれた物語をノートに書き写し始めた。それは、忘却に抗うための、彼女なりの戦いだった。灰色の現実世界に、アニムという物語を「記録」することで、世界を繋ぎ止めようとしたのだ。今までただ受け取るだけだった彼女が、初めて自らの意志で何かを創造しようとしていた。その行為は、彼女自身の心にも、確かな光を灯し始めていた。

***第三章 記憶を喰らう物語***

奏の努力は、無駄ではなかった。彼女がアニムの記憶を現実のキャンバスや紙の上に定着させるたびに、リヒトは『庭の花の色が、少し濃くなった気がする』と嬉しそうに報告してくれた。奏は満たされた気持ちで、さらにその作業に没頭した。

だが、奇妙な変化が彼女自身に起こり始めていた。常に付きまとう気怠さ。時折、ふっと自分の幼い頃の記憶が靄に包まれたように思い出せなくなる。古書店の常連客の名前が、すぐに出てこないこともあった。それは、創造の苦しみに伴う、些細な疲労なのだと彼女は自分に言い聞かせた。

決定的な転機は、満月の夜に訪れた。アニムを救う鍵は「最初の言葉紡ぎ」の記憶にあるはずだと考えた奏は、今までで最も強く意識を集中させ、白紙の頁のさらに奥深くへと精神を沈めていった。

そして、彼女は見た。

そこは、古い日本の屋敷の一室だった。窓の外には、荒れた海が見える。一人の老婆が、病床に伏しながら、震える手で一冊の真っ白な本を握りしめている。その顔を見て、奏は息を飲んだ。アルバムで何度も見た、自分の曽祖母、水島巴(みずしまともえ)だった。

『ああ、私の世界。私の愛しいアニム。私が逝けば、あなたも消えてしまうのね……』

曽祖母の悲痛な想念が、奏の心を貫いた。

『お願い。誰か、この物語を受け継いで。私の可愛いリヒトを、独りにしないで……』

物語を愛し、現実の孤独に耐えきれなかった曽祖母は、その類稀なる想像力で、精神の内側にアニムという広大な世界を創造したのだ。そしてリヒトは、彼女が若くして亡くした息子、つまり奏の祖父の面影を重ねて創り出した、「理想の息子」の幻影だった。この本は、彼女が死の間際に、自らの魂と記憶の全てを注ぎ込んだ、世界そのものの器だったのだ。

愕然とする奏に、さらなる真実が牙を剥く。アニムの世界を維持する力。それは、曽祖母の血を引く者の「記憶」と「生命力」を糧としていた。奏がアニムを想い、記録すればするほど、彼女自身の現実における存在が、記憶が、本に吸い上げられていく。最近の体調不良や記憶の混濁は、その代償だったのだ。

愛しい世界を救うことは、自らの身を滅ぼすことと同義だった。

リヒトの優しい声が、遠くに聞こえる。『奏? どうかしたのかい? きみの光が、揺らいでいる』

奏は返事ができなかった。優しさが、今は刃となって突き刺さる。信じていた全てが反転し、足元が崩れ落ちていく感覚。美しい物語は、実は彼女の命を喰らう、優しい捕食者だったのだ。

***第四章 きみがための最終章***

奏は何日も本に触れなかった。時雨堂の隅で、彼女はただ痩せていく自分と、日に日に色褪せていくであろうアニムの世界を想い、引き裂かれそうになっていた。自らが消えるか、世界を消すか。残酷な二択が、彼女の心を苛んだ。

だが、何日も苦悩した末に、彼女は一つの答えに辿り着く。それは、曽祖母がなし得なかった、第三の道だった。犠牲ではない。消滅でもない。「共存」のための選択。

奏は震える手で、久しぶりに白紙の頁に触れた。すぐに、リヒトの安堵したような想念が伝わってくる。

『奏……! よかった、また会えた』
『リヒト、聞いて。あなたに、伝えなければならないことがあるの』

奏は、自分が知った全ての真実を、静かに、誠実に語った。アニムの成り立ち、リヒトが生まれた理由、そして、このままでは自分が消えてしまうこと。

リヒトは、長く沈黙していた。やがて、絞り出すような響きが返ってきた。
『そうか……僕は、誰かの孤独が生んだ、幻だったのか。そして、きみを苦しめていた……』その声は、深い哀しみに濡れていた。『ならば、もういい。僕たちのことは忘れておくれ。きみには、きみの世界で生きてほしい』

自己犠牲を促す彼の言葉に、奏は強く首を振った。
「違う。忘れたりしない。あなたは、幻なんかじゃない。私の曽祖母が生んで、そして、私が心から愛した、美しい物語そのものよ」

彼女の瞳には、涙が浮かんでいた。だが、その奥には、かつてないほど強い意志の光が宿っていた。

「だから、物語として生きて。私が、あなたたちの世界を、永遠の物語にする」

奏は、白紙の本を傍らに置き、新しいノートと万年筆を用意した。彼女は、書き始めた。生命力や記憶を直接注ぎ込むのではなく、一人の作家として、自らの創造力と技術の全てを懸けて、アニムの世界を言葉で再構築する。それは、曽祖母の孤独の物語であり、言葉紡ぎリヒトの物語であり、そして何より、二つの世界に引き裂かれながらも愛を見つけた、水島奏自身の物語だった。

インクが紙に染み込むたび、彼女の体からは疲労が抜け、代わりに創造の熱が満ちていく。何日も、何週間も書き続けた。そして、最後のページに最後の句点を打った、その日。

傍らの白紙の本が、淡い光を放ち始めた。最後のページに、ただ一文だけ、奏にしか読めないアニムの美しい文字が、金色の光で浮かび上がる。

――ありがとう、僕の物語の語り部。

その言葉を最後に、本は静かに光の粒子となって崩れ、風に溶けるように消えていった。

数年後、水島奏の名は、新人小説家のものとして多くの人に知られるようになった。彼女が自らの体験を基に紡いだ物語『白紙の頁が囁く世界』は、多くの読者の心を打ち、静かな感動を呼んだ。彼女はもう、古書の影に隠れるように生きる、内気な女性ではなかった。現実の世界で言葉を紡ぎ、人々と繋がり、強くしなやかに立っていた。

ある晴れた午後、奏は、かつて曽祖母が住んでいた海辺の家を訪れていた。潮風が、彼女の髪を優しく揺らす。目を閉じると、遠い波の音に混じって、微かに、あの甘い花の香りがしたような気がした。そして、風の囁きの奥に、懐かしい誰かの優しい声の響きを感じた。

アニムは消えたのではない。物語となり、彼女の中で、そして彼女の物語を読んだ全ての人の心の中で、永遠に生き続けるのだ。

喪失の痛みと、何かを創り上げたという確かな歓び。その二つを抱きしめて、奏は静かに微笑んだ。空はどこまでも青く、彼女が生きる現実は、かつて夢見たどの物語よりも、美しく輝いていた。

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