***第一章 亡き妻からの声***
高野健司の朝は、挽きたての豆で淹れた苦いコーヒーの香りと、無機質な静寂から始まる。都心の高層マンションの一室。広すぎるリビングには生活の気配が希薄で、まるでショールームのように整然としていた。精密機器メーカーの営業部長である彼の人生は、長年、この部屋と同じだった。無駄なく、効率的で、そして冷たい。
五年前、妻の美咲が病でこの世を去ってから、その冷たさは一層、彼の内面に深く沈殿していった。高校二年生になる一人娘の結衣との間には、見えない壁がそびえ立ち、食卓での会話は業務連絡にも似た短い言葉の応酬で終わる。健司は、それが仕方のないことだと、半ば諦めていた。悲しみを乗り越える最善の方法は、忘れること。仕事に没頭し、感情のスイッチを切ることだと信じていた。
そんなある日曜の午後だった。重い腰を上げ、美咲が遺したままになっていたクローゼットの奥の段ボール箱に手を入れた。埃をかぶったアルバムや、趣味だった手芸の道具。その中に、ひっそりと鎮座する古びたポータブル・カセットレコーダーを見つけた。そして、その横には、丁寧に輪ゴムで束ねられた十本のカセットテープ。一本目のケースには、美咲の丸みを帯びた文字で『健司さんへ ①』と記されていた。
懐かしさと、触れてはならないものに触れるような背徳感が入り混じる。健司は、ほとんど無意識にテープをレコーダーにセットし、再生ボタンを押し込んだ。
カチリ、という機械音の後、数秒のノイズ。そして、スピーカーから流れ出したのは、紛れもない美咲の声だった。まるで昨日も隣で聴いたかのような、陽だまりを思わせる温かい声。
『……健司さん、聴こえる?ふふ、なんだか恥ずかしいな。ええと、これを聴いている頃、あなたはきっと眉間に皺を寄せて、難しい顔をしているんじゃないかしら』
心臓が鷲掴みにされたように痛んだ。記憶の中の妻が、鮮やかに蘇る。だが、続く言葉に、健司は眉をひそめた。
『あのね、来週のことなんだけど、結衣が学校の階段で足を滑らせるの。右足首を捻挫しちゃうから、気をつけてあげて。それから、あなたの会社の来月のプレゼン。大事なデータを入れたUSBメモリ、間違えて違うのを持って行っちゃうから、必ずバックアップを取っておいてね』
何だ、これは。健司は混乱した。未来の出来事を、なぜ美咲が?闘病生活で精神が不安定になっていた時期の、戯言だろうか。馬鹿馬鹿しい、と彼は再生を止め、レコーダーを箱に戻そうとした。だが、その声の温かさが耳に残り、どうしても箱を閉じることができなかった。
そして翌週の火曜日。学校から一本の電話が入った。結衣が、階段で足を踏み外し、保健室で手当てを受けているという。迎えに行った健司の目に映ったのは、右足首に湿布を貼られ、ばつが悪そうに俯く娘の姿だった。
「……捻挫だそうだ。大したことはない」
「ごめん……」
帰り道、車内の沈黙が痛いほどだった。健司の頭の中では、テープの声が何度も反響していた。偶然だ、と彼は自分に言い聞かせた。だが、心の奥底で、無視できない何かが芽生え始めていた。
***第二章 声に導かれて***
美咲の「予言」は、その後も不気味なほど正確に現実のものとなった。些細なことから、健司の仕事の核心に触れることまで。彼は言われた通り、プレゼンの前にデータのバックアップを二重三重に確認した。すると当日、同僚が慌てた様子で駆け寄ってきて、健司が提出したはずのUSBメモリが、先方のパソコンで認識されないと告げた。健司が冷静にバックアップを差し出すと、プレゼンは事なきを得て、大成功に終わった。
健司は、憑かれたように毎晩一本ずつテープを聴き進めた。そこには、結衣の友人関係の小さなトラブルや、健司が患うことになる軽い胃腸炎、次に契約が取れる取引先の名前までが、穏やかな声で語られていた。健司は、亡き妻が何か人知を超えた力で、自分と娘の未来を見通し、守ってくれているのだと確信するようになっていた。
仕事人間だった彼の生活に、変化が訪れた。テープに導かれるままに行動することで、彼の評価はうなぎ上りになった。部下からは、以前の「ロボット部長」から一転、「神がかった直感を持つ男」と囁かれるようになった。
だが、それ以上に大きな変化は、家庭に訪れた。
『結衣、最近、クラスで少し元気がないみたい。好きなアイドルのコンサート、チケットが取れなくて落ち込んでるのよ。あなたから、誘ってあげてくれないかな』
テープの言葉に従い、健司が「コンサートのチケットが手に入ったんだが」と切り出すと、結衣は驚きに目を見開いた後、数年ぶりに、心の底から嬉しそうな笑顔を見せた。
食卓に、少しずつ会話が戻ってきた。健司は、美咲の声に促される形で、結衣の好物を作り、学校での出来事に関心を示した。娘との間にあった氷の壁が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
健司にとって、美咲の声は絶対的な指針であり、唯一の救いとなっていた。生前の妻との思い出を振り返るよりも、テープの中の「予言者」としての妻に、彼は深く依存していった。夜、一人で書斎にこもり、レコーダーのスピーカーに耳を寄せる時間だけが、彼が心から安らげる瞬間だった。まるで、美咲が今も隣にいて、囁きかけてくれているような錯覚。その甘美な幻想に、彼は身を委ねていた。九本目のテープを聴き終えた時、彼の心は奇妙な万能感と、妻への神格化にも似た想いで満たされていた。
***第三章 日記と偽りの声***
残るテープは、あと一本。健司は、どこか名残惜しい気持ちで、最後のテープ『健司さんへ ⑩』を手に取った。これを聴き終えたら、妻との繋がりが本当に途絶えてしまうのではないか。そんな不安が胸をよぎる。深呼吸をし、意を決して再生ボタンに指をかけようとした、その時だった。
「お父さん」
書斎のドアが静かに開き、結衣が立っていた。その表情は、健司が見たこともないほど真剣で、どこか悲しみを湛えているように見えた。
「そのテープ、聴くの?」
「ああ。……これが、最後の一本だ」
「やめて」
結衣は、震える声で言った。そして、ゆっくりと健司に近づくと、テーブルの上のテープレコーダーをじっと見つめた。
「お父さん、ごめんなさい。……その声、お母さんの声じゃないの」
健司の思考が、一瞬停止した。何を言っているんだ、この子は。妻の声を、夫である自分が間違うはずがない。
「私が……私が、録音したの」
結衣の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。健司は、ハンマーで頭を殴られたような衝撃に襲われた。結衣の告白は、彼の築き上げてきた世界を根底から揺るがす、信じがたい内容だった。
母の死後、仕事に逃げ、心を閉ざしてしまった父。日に日に遠ざかっていく背中を見つめながら、結衣は絶望的な孤独を感じていた。そんな時、母の遺品の中から、一冊の日記帳を見つけたのだという。
「これ……お母さんの日記」
結衣が差し出したのは、使い込まれて表紙が擦り切れたノートだった。健司が恐る恐るページをめくると、そこには、美咲の文字で、家族への愛に満ちた言葉がびっしりと綴られていた。
『健司さんは仕事一筋だけど、本当は優しい人。でも、時々、大事なことを見失ってしまうから心配』
『結衣は少しドジなところがあるから、いつか学校の階段で転びそうで、目が離せないわ』
『あの人、大事なプレゼンの前はいつも、詰めが甘いところがある。私がそばで見ていてあげないと』
それは、予言ではなかった。妻として、母として、家族を誰よりも深く見つめ、愛し、心配していた日々の記録。健司の癖、結衣の性格、家族の未来に馳せる、ささやかな願い。
結衣は、この日記を読み解き、父の心を取り戻すための、最後の賭けに出たのだ。母の声色を必死に真似て、母が「心配しそうなこと」を「予言」としてテープに吹き込んだ。自分が階段で転んだのも、父に信じさせるための、苦肉の策だったと泣きながら告白した。
「お父さんに、もう一度、こっちを向いてほしかった。お母さんのこと、私のこと、見てほしかったの……!」
健司は、その場に崩れ落ちた。自分が頼りにしていたのは、妻の奇跡の力などではなかった。それは、自分が顧みることのなかった妻の深い愛情と、そして、今まで見て見ぬふりをしてきた、娘の必死の叫びだったのだ。冷徹な仮面の下で、どうしようもないほどの後悔と自己嫌悪が渦を巻き、彼の体を震わせた。自分はなんて愚かだったのだろう。一番大切なものを、二度も失うところだった。
***第四章 本当の宝物***
健司は、夜を徹して美咲の日記を読んだ。そこには、健司が知らない妻の姿があった。彼の仕事の成功を自分のことのように喜び、彼の疲れを心配し、娘のささやかな成長に目を細める、愛情深い女性の記録。ページをめくるたびに、涙が後から後から溢れて止まらなかった。自分は、こんなにも深く愛されていながら、そのことに気づこうともしなかった。
翌朝、健司は腫れ上がった目でリビングに向かった。結衣は、食卓で俯いたままだった。健司は娘の前に座ると、深く、深く頭を下げた。
「結衣……すまなかった。本当に、すまなかった」
声が震えた。謝罪の言葉は、それしか出てこなかった。結衣は顔を上げ、静かに涙を流しながら、小さく首を横に振った。父と娘の間にあった分厚い氷壁が、音を立てて完全に溶け落ちた瞬間だった。
その日の午後、二人は書斎で、最後の十本目のテープに向き合っていた。結衣によれば、これだけは本当に美咲が遺したものだという。日記の最後に、「もしもの時のために、一本だけ、本当の声を遺しておきます」と書かれていたそうだ。
健司は、結衣と一緒に再生ボタンを押した。ノイズの向こうから聴こえてきたのは、予言ではない、ただ穏やかで、優しい美咲の声だった。
『健司さん、結衣。もしこれを聴いているということは、私はもう、二人のそばにはいないのかもしれないね。……でも、悲しまないで。難しいお願いかもしれないけれど、できるだけ笑っていてほしい。二人で美味しいものをたくさん食べて、時々、本当に時々でいいから、私のことを思い出して笑ってくれたら、私は、それだけで、ずっと幸せです。心から、愛しています』
声は、そこで途切れた。健司と結衣は、どちらからともなく寄り添い、静かに涙を流した。それは、後悔や悲しみだけではない、温かくて、優しい涙だった。
数ヶ月後。健司の朝は、相変わらずコーヒーの香りから始まる。だが、そこに加わったのは、キッチンから聞こえる結衣の鼻歌と、卵を焼く香ばしい匂いだ。会社の健司は、部下の話を最後まで聞き、時には冗談を言って場を和ませる、人間味のある上司に変わっていた。
週末、健司と結衣は、美咲が好きだった白いフリージアの花束を抱え、小高い丘の上にある墓地を訪れていた。柔らかい春の日差しが、墓石を優しく照らしている。花を供え、静かに手を合わせながら、健司は心の中で妻に語りかけた。
(美咲、聞こえるか。俺はもう大丈夫だ。お前が俺たちのために遺してくれた一番の宝物は、予言なんかじゃなかった。すぐ隣にいた、この子だったんだよ)
隣で手を合わせる結衣の横顔は、どこか美咲に似ていた。見上げた空は、どこまでも青く澄み渡り、まるで未来を祝福しているかのように、二人を包み込んでいた。
予言テープとラストメッセージ
文字サイズ: