追憶の皿

追憶の皿

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潮の香りが染みついた港町に、その食堂はあった。「うみねこ亭」。年季の入った暖簾をくぐると、煮物の甘い匂いと、女将のハルコの朗らかな声が客を迎える。その厨房に立つ男は、自分の名前が「リョウ」であること以外、何も覚えていなかった。

一年前、店の裏で行き倒れていたリョウをハルコが拾った。医者は記憶喪失だと告げた。行くあてのないリョウに、ハルコは住み込みで働くことを提案した。リョウはなぜか、包丁の握り方から火加減まで、料理の全てが身体に染みついていた。

彼が作る料理は、少し不思議だった。客が「懐かしい味だ」と涙ぐむことが度々あったのだ。長距離トラックの運転手は、リョウの作った生姜焼きを一口食べて、「おふくろが運動会の朝に作ってくれた味とそっくりだ」と声を震わせた。失恋した若い女性は、ナポリタンを前に「初めてデートした喫茶店の味…」と呟き、泣きながら笑った。

リョウは、人の記憶を皿の上に再現するらしかった。だが、彼自身の記憶は真っ白な皿のまま。他人の幸せな過去をなぞるたびに、自分の空虚さが胸に広がった。

「あんたは、ここにいていいんだよ」
不安げなリョウの背中に、ハルコはいつもそう言った。数年前に一人息子を海で亡くした彼女にとって、リョウは新たな家族のような存在だった。

ある日の午後、一台の黒塗りの高級車が店の前に停まった。降りてきたのは、テレビや雑誌で辛辣な批評をすることで有名な料理評論家、神崎俊介その人だった。彼は腕を組み、値踏みするように店内を見回した。
「面白い噂を聞いてね。ここの料理は、思い出の味がするんだとか。馬鹿馬鹿しい」
神崎はメニューを一瞥し、嘲るように言った。「お任せで何か。私を驚かせてみろ」

厨房に緊張が走る。ハルコはリョウの肩をそっと叩いた。「いつも通りでいいんだよ、リョウさん」。その言葉に頷き、リョウは神崎の顔をじっと見た。華やかな美食の世界に生きる男。その瞳の奥に、なぜか冷たい冬の隙間風のような孤独を感じた。

リョウが作り始めたのは、アジフライでも、刺身でもなかった。ごくありふれた、家庭料理の肉じゃがだった。出汁の香りがふわりと店に広がる。

「なんだ、これは…」
湯気の立つ小鉢を前に、神崎は眉をひそめた。だが、レンゲでじゃがいもを一口運んだ瞬間、彼の時間が止まった。硬直した表情がみるみるうちに崩れ、大きな瞳から一筋、涙がこぼれ落ちた。それは、音もなく流れる静かな涙だった。

「母さんの…味だ…」

貧しかった幼少期。病床の母が、なけなしの材料で最後に作ってくれた肉じゃが。少ししょっぱくて、形が崩れたじゃがいも。忘れようとしても忘れられなかった、愛と後悔の味。神崎は、皿が空になるまで無言で食べ続け、やがてぽつりと言った。

「…参ったよ」

その一言だけを残し、彼は店を去った。数日後、神崎のコラムには「うみねこ亭」への最大級の賛辞が掲載された。「最高の料理とは、星の数や希少な食材が決めるものではない。人の心の最も柔らかな場所に触れる一皿だ」という一文で締めくくられた記事は大きな話題を呼び、小さな食堂は一躍有名になった。

その報道がきっかけだった。ある雨の日、一人の若い女性が店を訪れた。彼女は厨房に立つリョウの姿を見るなり、息を呑んだ。
「お兄ちゃん…?」

彼女は一条栞と名乗り、リョウの妹だと告げた。リョウの本名は、一条亮。パリで三つ星を獲得し、彗星のごとく現れた天才フレンチシェフ。しかし、彼は一年前に忽然と姿を消したのだという。重すぎる名声と期待、創作のプレッシャーに押し潰されて。

「一緒に帰りましょう。みんな心配してる」栞は涙ながらに訴えた。
リョウは静かに首を振った。そして、賑わう客席と、心配そうに自分を見守るハルコに目を向けた。
「僕の記憶は、ここにあるんだ」
過去の栄光も、苦悩も、彼の中にはない。ただ、目の前の人のために料理を作り、喜ぶ顔が見たいという温かい感情だけが、今の彼の全てだった。

「僕は、うみねこ亭のリョウだ」

その言葉に、栞は全てを悟った。彼女は兄の新しい人生を受け入れ、深く頭を下げて店を出て行った。

雨が上がり、港には美しい虹がかかっていた。厨房に戻ったリョウを、ハルコがいつもの笑顔で迎える。
「おかえり、リョウさん」
「ただいま、ハルコさん」

真っ白だったリョウの皿の上に、今、新しい記憶が彩り豊かに描かれ始めていた。潮騒の音だけが優しく響く食堂で、彼はこれからも、誰かのための追憶の皿を作り続けるだろう。彼自身の、確かな未来を築きながら。

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