埃と油の匂いが染みついた工房の隅で、折原宗一郎は息を殺していた。七十八年の歳月が刻まれた指先が、ピンセットで掴んだ米粒よりも小さな歯車を、アンティーク時計の心臓部へと慎重に導く。カチリ、と微かな音を立てて歯車が噛み合った瞬間、止まっていた秒針が震え、再び時を刻み始めた。宗一郎は深く長い息を吐いた。彼の世界では、まだゼンマイと歯車だけが、唯一信じられる真理だった。
「ごめんください!折原宗一郎先生でいらっしゃいますか!」
工房の引き戸を叩く、場違いなほど明るい声。宗一郎は顔をしかめた。また面倒な時計修理の依頼か、あるいは物好きな好事家か。
「……帰ってくれ。もう廃業だ」
「お願いします!どうしても先生のお力が必要なんです!」
なおも食い下がる声に、宗一郎は渋々立ち上がり、重い引き戸を少しだけ開けた。そこに立っていたのは、流行りの細いフレームの眼鏡をかけた、快活そうな青年だった。
高槻蓮と名乗った青年は、タブレット端末を取り出し、滑らかなCG映像を宗一郎の前に突きつけた。画面の中では、昆虫のような形をした小型ドローンが飛んでいる。
「これ、僕たちが開発している災害救助用のドローンです。でも、致命的な問題があって……」
蓮が言うには、瓦礫の隙間のような極小空間で、要救助者を傷つけずに探索するための超精密な自律制御が、AIの演算能力だけでは限界なのだという。プロペラの風圧や作動音も、衰弱した人間には脅威となりうる。
「そこで、先生のオートマタ(自動人形)の論文を拝見しました。電気を使わず、ゼンマイと歯車の組み合わせだけで、あれほど滑らかで静かな動きを実現する技術……その心臓部を、このドローンにいただけないでしょうか」
宗一郎は鼻で笑った。
「デジタルの小僧が何を言うか。魂のない電子の塊に、わしの歯車をくれてやるものか。わしの技術は、人の心を慰めるためにある。お前たちのおもちゃとは違う」
それは、時代に取り残された老職人の強がりだった。かつて「神の手」とまで呼ばれた彼の技術は、今や博物館の展示品でしかない。その事実が、宗一郎の心を頑なにさせていた。
しかし、蓮は諦めなかった。翌日も、その次の日も、彼は工房に現れた。高価そうなジャケットを脱ぎ捨て、宗一郎が面倒がる雑用を黙々と手伝い始めた。床を掃き、道具を磨き、錆びついた部品を整理する。宗一郎は無視を決め込んでいたが、蓮のひたむきな姿に、心の壁が少しずつ削られていくのを感じていた。
ある雨の日、蓮は濡れた髪をタオルで拭きながら、ぽつりと言った。
「五年前の土砂災害で、俺、ボランティアに行ったんです。瓦礫の下から、か細い声が聞こえるのに、重機を入れたら崩れてしまう。結局、助けられなかった……。だから作りたいんです。蝶のように静かに舞い、瓦礫の隙間にそっと寄り添って、生きている場所を知らせてくれる、そんなドローンを」
その言葉が、宗一郎の心の奥底で眠っていた歯車を、きしませながら動かした。人の心を慰める。いや、人の命を救う。目的は違えど、その根底にある願いは同じではないか。
宗一郎は、何十年も開けていなかった設計図の棚に手をかけた。
「……小僧。お前の言う『蝶』の心臓、この手で作れるかどうか、試してみるか」
蓮の顔が、ぱっと輝いた。
そこから、二人の奇妙な共同作業が始まった。宗一郎の工房は、アナログとデジタルの技術が火花を散らす実験場と化した。宗一郎がミクロン単位で削り出した歯車を、蓮が3Dプリンターで出力した特殊合金のフレームに組み込む。AIの予測制御に、ゼンマイが持つ偶発的な「揺らぎ」を取り入れる。それは、誰もが不可能だと笑う挑戦だった。
夜を徹した作業が続き、何度も失敗を繰り返した。意見がぶつかり、怒鳴り合うこともあった。しかし、互いの瞳の奥にある真剣な光を認めるたび、二人の絆はより強く、硬質なものになっていった。それはまるで、異なる金属が熱によって溶け合い、新たな合金となるようだった。
三ヶ月後、ついに試作機が完成した。それは、トンボの羽のように繊細なローターを持つ、手のひらサイズのドローンだった。蓮はそれを「オリハラ」と名付けた。
最終実験は、巨大な倉庫に作られた模擬災害現場で行われた。瓦礫の山の中に、体温を持つ特殊な人形がいくつか隠されている。
蓮がタブレットを操作すると、「オリハラ」は音もなく宙に浮いた。従来のドローンのようなけたたましいモーター音はない。まるで息を殺しているかのように、静かに空間を滑っていく。それは、鳥が枝から枝へと飛び移るような、有機的で滑らかな動きだった。
「オリハラ」は瓦礫の隙間に吸い込まれるように入り込み、やがて、一つの人形のすぐそばで静止した。その動きは、まるで傷ついた命をいたわるようだった。蓮のタブレットに、正確な位置情報と「生命反応アリ」のサインが点灯する。
見ていた蓮のチームから、嗚咽のような歓声が上がった。
工房の片隅でその中継映像を見守っていた宗一郎は、固く握りしめていた拳をゆっくりと開いた。油に汚れた掌には、くっきりと爪の跡が残っている。目頭が熱くなり、視界が滲んだ。自分の技術が、自分の魂が、こんなにも美しく、力強く、新しい時代の中で羽ばたいている。
数年後、宗一郎の技術──「オリハラ・ギア」は、世界中の救命ドローンの標準装備となった。かつては静まり返っていた工房には、彼の技術を学ぼうとする若い技術者たちの熱気が満ち溢れていた。
宗一郎は、工房を訪れた蓮に、小さな桐の箱を差し出した。中には、真鍮で作られた精巧なトンボのオートマタが入っていた。ゼンマイを巻くと、トンボは本物そっくりに羽を震わせる。
「お前の最初の『蝶』だ。魂を込めておいた」
照れくさそうに笑う宗一郎の顔には、かつての頑なさはもうなかった。蓮はそれを宝物のように受け取り、深く頭を下げた。
ラスト・ギアは、確かに時を繋ぎ、未来へと受け継がれた。工房の窓から差し込む光の中で、小さなトンボの影が、希望の形をして、壁に長く伸びていた。
ラスト・ギア
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