高志が実家の玄関をくぐったのは、実に五年ぶりのことだった。軋む廊下も、柱の傷も、黴と線香が混じった匂いも、何もかもが記憶の中のそれと同じで、息が詰まりそうだった。既に集まっていた妹の美咲と弟の健太は、通夜の席とは思えないほど険悪な空気を漂わせ、互いに視線も合わせずに座っている。
父、雄一郎が死んだ。享年六十八。破天荒で、自分勝手で、それでいてどこか憎めない人だった。高志はそんな父に反発し、故郷を捨てて東京でエリート然とした生活を築き上げた。父との最後の会話は、電話越しの怒鳴り合いだったことを思い出し、奥歯を噛みしめる。
翌日、弁護士に呼ばれた三兄妹の前に、一通の遺言状が置かれた。
「我が愛する子供たちへ。遺産として遺す現金三百万円は、諸君らが力を合わせ、私が仕掛けた『宝探し』をクリアした暁に贈呈する」
弁護士が淡々と読み上げる言葉に、三人は顔を見合わせた。
「宝探し? なんだよそれ、ふざけてるのか、あの親父は」
健太が吐き捨てるように言った。美咲も呆れたようにため息をつく。
「期限は、この手紙を読んだ瞬間から四十八時間。最初のヒントは、『お前たちが初めて空を飛んだ場所』にある。幸運を祈る。父、雄一郎より」
弁護士は「では、頑張ってください」とだけ言って、そそくさと退室してしまった。残されたのは、三百万円という現実的な数字と、あまりに非現実的な謎、そして不仲な三兄妹。
「くだらない。俺は帰る」
高志が立ち上がろうとした時、美咲が鋭い声で言った。
「待ちなよ、兄さん。三百万円だよ? 私には必要なの」
夢追い人の妹の台詞に、高志は鼻を鳴らした。「お前はいつもそうだ」
「じゃあどうするんだよ! このままみすみす諦めるのか?」
健太が苛立ったように頭を掻きむしる。
沈黙が落ちる。三百万円は、誰にとっても無視できない額だった。そして何より、このまま父の最後の「いたずら」を投げ出すのは、奇妙な敗北感を伴う気がした。
「……初めて、空を飛んだ場所」
高志が呟く。
「飛行機? 家族旅行なんて、あったか?」
「沖縄に行ったじゃない、小学生の時」
「あれは母さんの親戚の家だろ」
言い合ううちに、記憶の断片が擦り合わされていく。その時、ずっと黙って天井を眺めていた健太が、ぽつりと言った。
「……違う。飛行機じゃない」
健太は窓の外、遠くに見える小高い丘を指差した。
「親父が作った、あのデカいブランコだよ。公園の裏山にあったやつ。乗ると、空に飛んでいきそうなくらい高く揺れたんだ」
その言葉に、高志と美咲の脳裏にも、忘れかけていた光景が蘇った。錆びた鉄パイプを溶接して作った、手製の巨大なブランコ。それに乗って、空に向かって足を蹴り上げた時の、あの浮遊感。
三人は、まるで何かに導かれるように、裏山へと向かった。そこには、蔦に絡まれながらも、確かにあのブランコが残っていた。高志が支柱に触れると、そこに見慣れた父の不格好な文字で、何かが彫られているのを見つけた。
『母さんの涙が 宝石になった日』
「母さんの涙……?」
美咲が首を傾げる。母は数年前に病で他界している。涙の記憶など、数え切れないほどあった。
「プロポーズの時じゃないか」
意外にも、口火を切ったのは高志だった。
「親父がなけなしの金で買ったガラス玉を『世界で一番のダイヤモンドだ』って母さんに渡して。母さん、呆れて、でも嬉しそうに泣き笑いしてたって。子供の頃、自慢げに話してた」
そのガラス玉は、母が大切にしていた小物入れにしまわれ、今は仏壇の引き出しにあるはずだった。
実家に戻り、仏壇の引き出しを開けると、小さなビロードの袋があった。中から転がり出たのは、光を鈍く反射する安物のガラス玉。そして、その袋の底には、折りたたまれた一枚の写真と、小さなメモが入っていた。写真は、ガラス玉を手に泣き笑いする若き日の母と、照れくさそうに寄り添う父の姿。メモには、次のヒントが記されていた。
『三つの心が一つになった 勝利のガラクタ』
「勝利のガラクタ……さっぱり分からん」
健太が降参とばかりに畳に寝転んだ。時間は刻一刻と過ぎていく。焦りから、またしても兄妹の口論が始まった。
「兄さんがもっと協力的だったら!」
「お前のその場しのぎの考えが問題なんだ!」
「二人ともやめてよ!」
怒声が飛び交う中、高志の脳裏に、ふとある光景がフラッシュバックした。
それは、小学生の頃。夏休みの課題で、町内会の模型コンテストに出品した時のことだ。高志が設計図を描き、美咲がデザインを考え、不器用な健太は廃材集めに奔走した。三人がそれぞれの力を持ち寄って作り上げたガラクタの集合体のような模型は、意外にも「アイデア賞」を受賞したのだ。その時の、手作りのトロフィー。あれこそ「勝利のガラクタ」ではないか。
「屋根裏部屋だ!」
ホコリっぽい屋根裏部屋の隅で、そのトロフィーは見つかった。空き缶と木の板で作られた、今見れば滑稽なほどの代物だ。高志がそれを手に取り、底を改めると、テープで貼り付けられた一本の古びた鍵が転がり落ちた。見覚えのある、父が営んでいた町工場の、ロッカーの鍵だった。
タイムリミットまで、あと一時間。
三人は車に飛び乗り、今は閉鎖された父の工場へと急いだ。油と鉄の匂いが染みついた空間。その片隅に、目的のロッカーはあった。
高志が鍵を差し込み、回す。ギ、と鈍い音を立てて扉が開いた。
中には、現金など入っていなかった。
あったのは、年季の入ったブリキの缶。蓋を開けると、一本の8ミリフィルムと、手紙が添えられていた。
『宝は見つかったかな。
約束の三百万円は、弁護士に預けてある。いつでも受け取るといい。
だがな、本当の宝物は、このフィルムだ。
お前たちがこのパズルを解いている間に、もう一度『家族』に戻れていることを、父さんは願っている。
それこそが、父さんと母さんにとっての、本当の宝物だからな』
誰からともなく、工場の壁に白い作業用のシーツを張った。健太がどこからか見つけてきた映写機にフィルムをセットすると、カタカタという音と共に、壁に光の粒が踊り始めた。
そこに映し出されたのは、あまりに眩しい過去の断片だった。
巨大なブランコで、空に向かって歓声を上げる幼い三人の姿。模型作りに夢中になり、ペンキで顔を汚しながら笑い合う姿。そして、そんな子供たちを、少し離れた場所から、この上なく愛おしそうな眼差しで見つめる、若き日の父と母の笑顔。
フィルムが終わっても、誰も動けなかった。
最初に、美咲の嗚咽が漏れた。それにつられるように、健太が顔を覆った。高志は、天井を仰ぎ、熱いものが頬を伝うのを止められなかった。
父は、ただ自分勝手に生きていたのではなかった。不器用なやり方で、いつだって家族を愛し、その絆が失われることを、誰よりも恐れていたのだ。
「……親父の最後の、一番壮大ないたずらだったな」
高志が、掠れた声で言った。
美咲と健太が、涙で濡れた顔で頷く。
「三百万円、どうする?」
健太の問いに、初めて三人の間に穏やかな空気が流れた。
「そうだな……」
高志は、妹と弟の顔をまっすぐに見つめて、微笑んだ。
バラバラだった三つのピースは、父が遺したラスト・パズルによって、ようやく一つの絵を完成させた。工場の窓から差し込む夕日が、まるで祝福のように、再生した家族を優しく照らしていた。
ラスト・パズル
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