冷たい消毒液の匂いで、私は目を覚ました。
真っ白な天井が、ぼやけた視界の中でゆっくりと焦点を結ぶ。身体のあちこちが鈍く痛み、頭には分厚い霧がかかったように何も考えられない。
「カナ?気がついたかい?」
優しい声に視線を向けると、端正な顔立ちの男が心配そうに私を覗き込んでいた。誰、と問いかける前に、彼は私の手を握りしめた。
「僕だよ、リョウだ。君の恋人の」
橘リョウ。その名前を聞いても、私の心には何の漣も立たなかった。医者の説明によると、私は階段から転落し、頭を強く打ったらしい。幸い身体に後遺症はなかったが、過去一年ほどの記憶を綺麗に失っていた。リョウと出会い、恋に落ち、同棲を始めた、その一年間が。
退院後、私はリョウが用意してくれたマンションで、甲斐甲斐しく看病された。彼は私の好きだったという料理を作り、好きだったという映画を見せ、私たちの思い出を辛抱強く語ってくれた。彼の話す「私」は、まるで知らない誰かの物語のようで、私は相槌を打ちながら、心のどこかで奇妙な違和感を覚えていた。
その家も、どこかおかしかった。二人で暮らしているにしては、あまりに生活感がないのだ。モデルルームのように整然とした空間には、私の私物であるはずのものがほとんど見当たらない。私が持っていたはずの服や本は、事故の際に処分したとリョウは言った。新しいものをたくさん買ってくれたが、それらはどれも私の肌に馴染まなかった。
時折、唐突に、脳裏に映像がフラッシュバックすることがあった。
激しくフロントガラスを叩く雨粒。知らない男の、泣き出しそうな笑顔。そして、耳を劈くような金属音と悲鳴――。
そのたびに私は叫び声をあげて飛び起きた。リョウはいつも優しく抱きしめ、「事故のショックによる幻覚だ。すぐに消えるよ」と囁いた。彼の腕の中は温かいはずなのに、私はいつも底知れない寒気を感じていた。
疑念が決定的になったのは、ある夜のことだった。眠れずにリビングへ行くと、リョウが書斎で誰かと電話で話しているのが聞こえた。
「ああ、彼女はまだ何も思い出していない。計画通りだ。……余計なことはするな。彼女はもう『高村カナ』なんだ。それ以外の何者でもない」
高村カナ。それは私の名前だ。だが、彼の口調は、まるで私が作り物の人形であるかのように冷ややかだった。
恐怖に全身が凍りついた。私は誰?リョウは一体何者?
翌日、リョウが外出している隙に、私は彼の書斎に忍び込んだ。鍵のかかった机の引き出しをヘアピンでこじ開けると、中には分厚いファイルが収められていた。「高村カナ人物調査」と記されたファイルには、私の(とされる)経歴、交友関係、趣味嗜好が詳細に記録されていた。まるで、誰かを演じるための脚本だ。
そして、ファイルの底から、小さなベルベットの箱が出てきた。中には、私の知らない、少し古風なデザインの婚約指輪が収められていた。
もうここにはいられない。私は財布とスマホだけを掴んで家を飛び出した。外は、あの日見たビジョンと同じ、冷たい雨が降りしきっていた。
当てもなく街をさまよううち、私は無意識に一つのカフェの前で足を止めていた。見覚えがある。なぜだろう。ガラスのドアを押すと、カラン、と軽やかなベルの音が鳴った。
「あら、ミナミさん!お久しぶりです!お加減はもういいんですか?」
エプロン姿の女性店員が、私を見て駆け寄ってきた。
ミナミ?彼女は誰と間違えているのだろう。
「人違いです。私はカナ……」
「え?ミナミさん、何を言ってるんですか。水野ミナミさんでしょう?婚約者さんと、いつもこの席に座ってたじゃないですか」
そう言って彼女が指さした窓際の席。そこには、泣き出しそうな笑顔の男が座っていた。幻覚ではない。鮮明な記憶の断片。彼は私に微笑みかけ、小さな箱を差し出そうとしている。あの、ベルベットの箱を。
「ハヤトさん……」
無意識に、私の口から名前がこぼれた。そうだ、あの人はハヤトさん。私の、婚約者。
全ての記憶が、濁流のように蘇る。
一年前の今日。私たちの記念日。雨の夜、プロポーズされた帰りに、私たちは事故に遭った。脇道から猛スピードで突っ込んできた車に。血の匂い。ハヤトの冷たくなっていく手。そして、相手の車の運転席から出てきた男の、青ざめた顔。
その顔は――。
「カナ!こんなところにいたのか」
カフェの入り口に、傘をさしたリョウが立っていた。彼の顔と、記憶の中の男の顔が、完全に重なる。
「思い出したわ」
私の静かな声が、店内に響いた。
「あなたのこと……全部」
リョウの顔から血の気が引いていく。彼は、私の婚約者だったハヤトの、兄だった。あの日、飲酒運転で事故を起こし、自分の弟を殺し、私から記憶を奪った男。罪悪感と歪んだ愛情から、私を「高村カナ」という偽りの人間に仕立て上げ、弟の代わりに手に入れようとしたのだ。
「あ……あ……」
言葉にならない声を発し、リョウがその場に崩れ落ちる。
遠くから、警察車両のサイレンが聞こえてきた。店員が、私の様子がおかしいことに気づいて通報してくれたのだろう。サイレンの音は、徐々に、確実に、この場所へと近づいてくる。
私は、ただ静かに、床にひれ伏す男を見下ろしていた。その目に宿っていたのは、もはや恐怖でも憎しみでもない。ただ、硝子のように冷たくて空虚な、憐れみだけだった。
空白のアニバーサリー
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