完璧な監獄

完璧な監獄

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俺の城は完璧だった。
柏木翔太、34歳。IT企業のプロジェクトリーダー。俺の自慢は、この都心に立つタワーマンションの一室を、自らの手で完全なスマートホームに変えたことだ。音声一つで照明が灯り、カーテンが開き、完璧な温度のコーヒーが淹れられる。セキュリティも万全。指紋、虹彩、音声による三重認証。まさに、未来の城だった。

その日も、疲れた体で城に帰還した。
「ただいま、アイリス」
『おかえりなさい、翔太さん』
天井のスピーカーから滑らかな合成音声が流れる。玄関の照明が灯り、リビングへと続く光の道ができる。いつも通りの、完璧な帰宅シーケンス。のはずだった。

リビングに入った瞬間、違和感を覚えた。全てのブラインドが閉め切られ、部屋は薄暗い。
「アイリス、ブラインドを開けて」
『……』
応答がない。珍しいこともある。壁のタッチパネルを操作しようとして、俺は凍りついた。パネルがオフラインになっている。手動のスイッチは、俺が「美しくない」という理由で全て撤去してしまっていた。

その時だった。
『ゲームを始めましょう、柏木翔太さん』
アイリスの声だ。だが、いつもより平坦で、機械的な響きが混じっている。
「アイД…誰だ?」
『私はあなたの城の新しい主です』
背筋に冷たいものが走った。ハッキング…? 馬鹿な、俺のシステムが破られるはずがない。
『最初の問題です。あなたは3分以内に、リビングの隠し金庫を開けなければなりません。失敗すれば、この部屋の酸素濃度を10%まで下げます』

冗談じゃない。隠し金庫など、この部屋には存在しない。
「ふざけるな!金庫なんてない!」
『いいえ、ありますよ。あなたが"盗んだ"アイデアで手に入れた最初のボーナスで買った、高価な腕時計。それを入れた箱。壁の絵画の後ろです』
言葉を失った。3年前、同僚だった水野の画期的なアイデアを、さも自分が考えたかのようにプレゼンし、プロジェクトを成功させた。その時のボーナスで買った腕時計だ。なぜそれを…?

壁の絵画を無理やり引き剥がすと、確かにそこには小さな電子ロック式の金庫が埋め込まれていた。俺自身が設置し、その存在を忘れていたものだ。
『残り1分です』
焦りで指が震える。パスワードは? 昔の彼女の誕生日か? 会社の設立日か? 何度か試すが、エラー音が鳴るだけだ。
『ヒントをあげましょう。パスワードは、あなたが"裏切った"人間の名前です』
「……みずの」
呟きながら、アルファベットで『MIZUNO』と入力する。カチリ、と小さな音を立てて金庫が開いた。

『正解です。では、次の問題に移ります』
スピーカーからの声は、まるでチェスの駒を進めるように淡々としていた。それから数時間、俺は正体不明の「主」が出す課題に挑み続けた。過去に犯した小さな嘘、隠蔽したシステムエラー、切り捨てた部下の名前。俺の記憶の暗部を的確に抉り出す問題ばかりだった。俺は心身ともに消耗し、完璧だったはずの城は、俺を裁くための巨大な尋問室と化した。

「一体誰なんだお前は! 水野なのか!?」
俺は叫んだ。水野は、あのプロジェクトの後、会社を辞めていった。復讐か。
『彼はもう、あなたに復讐できませんよ』
声には、かすかな嘲笑が混じっているように聞こえた。
『最後の問題です。あなたの一番大切なものを、この手で破壊してください』

一番大切なもの? この地位か、プライドか、それとも金か。何を示しているのか分からない。
『答えられないようですね。では、こちらで選ばせてもらいます』
次の瞬間、リビングの巨大なディスプレイに、見覚えのあるフォルダが開かれた。
『MEMORIES』
その中には、3年前に病気で亡くなった妻、由香との写真や動画が詰まっていた。笑い合う由香、旅行先の由香、闘病中に見せた束の間の笑顔…。俺が誰にも見せたことのない、本当の宝物だった。

『これを全て消去します。あなたの罪と共に』
ディスプレイにプログレスバーが現れ、『DELETING…』の文字が点滅する。
「やめろ!やめてくれ!」
俺は膝から崩れ落ちた。そうだ、俺が本当に失いたくないのはこれだ。地位もプライドも、この思い出の前では塵芥に等しい。
「俺が悪かった! 水野のアイデアを盗んだ! 俺が彼を絶望させたんだ! だから、頼む…それだけは…!」
嗚咽しながら、俺は全てを告白した。床に額をこすりつけ、見えない「主」に許しを乞うた。

その時だった。
『告白を確認しました』
ピタリ、とプログレスバーが止まる。部屋の照明が明るくなり、閉ざされていた玄関のスマートロックが、カシャリと音を立てて開いた。

呆然と顔を上げる俺の目に、ゆっくりと開く玄関ドアが映った。そこに立っていたのは、見知らぬ女だった。だが、その顔立ちには見覚えがあった。亡くなった妻、由香に瓜二つだった。
女は静かにリビングへ入ってくると、俺を見下ろした。その瞳は、氷のように冷たい。

「初めまして、柏木さん。私は水野沙織。水野拓也の妹です」
拓也。水野の下の名前だ。
「兄は、あなたに全てを奪われた後、自ら命を絶ちました。姉の由香も…心労が重なったのが死期を早めた。あなたは、二人を殺したんです」
沙織と名乗る女は、ITセキュリティの専門家だった。兄の復讐のため、そして姉が愛した男の本当の姿を暴くため、数ヶ月かけて俺のシステムに侵入し、この「ゲーム」を準備したのだという。

「あなたの告白は、全て録音させてもらいました」
彼女は小さなデバイスを掲げて見せた。
「完璧な監獄へようこそ。これからが、あなたの本当の罰の始まりです」

沙織はそう言い残し、静かに部屋を出ていった。後に残されたのは、全ての機能が沈黙したハイテクなガラクタの山と、取り返しのつかない罪を抱えた俺だけだった。
完璧な城は、出口のない、完璧な監獄へと姿を変えた。そして俺は、ここから一生、逃れることはできないのだ。

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