潮待ちのひとさら

潮待ちのひとさら

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厨房に立つたび、俺、高槻海斗(たかつき かいと)は無力感に苛まれる。港町の片隅にある父の店「和食 うしお」のカウンターは、今日も閑散としていた。問題は客足じゃない。たった一人、俺の心をかき乱す客がいるせいだ。

水曜日の午後六時きっかりに現れる、あの老婦人。名を誰も知らない彼女を、俺たちは勝手に「水曜日のご婦人」と呼んでいた。彼女はいつも同じ席に座り、ただ一言、「おまかせで」と告げる。

そして、俺が全身全霊をかけて作り上げた料理を、ほんの少し口にするだけで、静かに席を立つ。美しい所作で勘定を済ませ、一口もつけられなかった煮物や、ほとんど手つかずの焼き魚を残して。

「気にするな」
親父はいつも同じことを言う。だが、どうして気にせずにいられる。彼女の沈黙は、俺の未熟さを突きつける無言の刃だった。

ある水曜の夜、俺はついに堪えきれなくなった。店を出た彼女のあとを、こっそりとつけたんだ。彼女は港の防波堤をゆっくりと歩き、今では使われていない古い灯台守の小屋へ入っていった。

翌日、俺は意を決してその小屋の扉を叩いた。中から現れた彼女――千代さんと名乗った――は、驚いた顔もせず、俺を中に招き入れた。

小屋の中は、別世界だった。壁一面に、驚くほど精密な船の模型と、色褪せた設計図が飾られている。中央の机には、作りかけの漁船の模型が置かれていた。
「主人がね、船大工だったんです」
千代さんは、穏やかな声で語り始めた。彼女の夫、宗助(そうすけ)さんは、この港で伝説と謳われた船大工だったこと。そして、彼は晩年、病で味覚をほとんど失っていたことを。

「あの人は、目で、鼻で、そして心で味わう人でした。料理人がどんな想いで包丁を握り、火加減を見つめているか。その一皿に込められた物語を、舌ではなく魂で味わっていた」
千代さんの視線が、窓の外の海に向けられる。
「主人が最後に食べたのが、『うしお』の料理だったの。先代の…あなたのお祖父様のね。あの方の料理には、船が宿っていたわ。荒波に挑む力強さと、港に帰る者を迎える優しさが」

衝撃だった。千代さんは、俺の料理が不味いから残していたわけじゃない。彼女は、夫が愛した魂の味を、俺の一皿の中に見出そうとしてくれていたのだ。

「あなたの料理はとても丁寧で、技術も確か。でも…まだ、あなたの船は港にいるだけ。潮を待っている」

店に戻った俺は、物置の奥から祖父が遺した古い料理日誌を引っ張り出した。そこには、技術論以上に、食材への感謝や、客への想いが、生々しい筆跡で綴られていた。あるページに、こんな一文があった。
『一皿は、客の人生への手紙だ。今日という日を無事に終えたことへの祝いであり、明日への船出を祈るエールだ』

親父が「気にするな」と言い続けた意味が、ようやく分かった。あれは突き放したのではなく、俺自身が答えを見つけるまで、静かに待っていてくれたのだ。

次の水曜日。俺は親父に頭を下げた。
「親父、今日の…千代さんの料理、俺一人に作らせてくれ」
親父は何も言わず、ただ深く頷いた。

俺は、祖父の言葉を胸に厨房に立った。技術じゃない。技巧でもない。ただひたすらに、千代さんと、その夫である宗助さんの人生に想いを馳せた。味覚を失ってもなお、食を愛した船大工。彼を支え、その思い出を胸に今を生きる女性。二人の物語に、俺なりの返事を書く。そんな気持ちで、無心に手を動かした。

出来上がったのは、派手さのない「カレイの煮付け」だった。しかし、湯気と共に立ち上る甘辛い醤油と生姜の香りは、厨房を満たし、カウンターまで届いた。

千代さんは、カウンターに置かれた皿をじっと見つめた。そして、ゆっくりと箸を取る。
一切れ、口に運ぶ。
咀嚼する音だけが、静寂な店内に響く。
そして、もう一切れ。
やがて、千代さんの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「……ただいま」

震える声で呟かれたその言葉が、誰に向けられたものかは分からなかった。宗助さんにか、それとも、長い間待ち続けた味にか。
千代さんは、ふわりと微笑んだ。
「おかえりなさい」

その夜、初めて皿は空になった。
カウンターの向こうで、親父がそっと目元を拭うのが見えた。俺は、まな板に滲んだ自分の涙に気づかないふりをして、深く、深く息を吸い込んだ。

港には新しい潮が満ち、俺の船は、今、静かに錨を上げた。

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