空図の絵師と歌う渓谷

空図の絵師と歌う渓谷

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俺の仕事は、地図を描くことだ。ただし、俺が描くのはただの紙切れじゃない。世界そのものを描くのだ。

この世界「セレスティア」は、無数の浮島が空に浮かぶ、まだ不完全な世界だ。確定された島々の外には、真っ白な霧に包まれた「空白領域(ブランク・エリア)」が広がっている。そこは物理法則さえ曖昧で、生命が存在できない混沌の海。俺たち「地図師(カルタグラファー)」は、命懸けで空白領域を踏破し、その風景、地形、気流を特殊なインクで羊皮紙に描き出す。描き終えた瞬間、地図は光を放ち、曖昧だった混沌は「現実」として世界に固定される。山が生まれ、川が流れ、新たな航路が開かれる。それが俺の仕事だ。

「カイ様、どうかお願いです!私たちの故郷を救ってください!」

工房の扉を叩いたのは、翡翠色の瞳を持つ少女、リナだった。彼女の故郷「シルフの揺り籠」は、伝説の地図師だった俺の祖父でさえ踏破できなかった最難関の空白領域、「鳴き竜の巣」の向こうにあるという。その故郷が、徐々に「空白」に飲み込まれ始めているらしい。

「鳴き竜の巣」……。そこは、音が物理的な力を持つ呪われた空域。風の囁きが鋭い刃となり、岩の反響が重力をねじ曲げる。祖父は、その地で消息を絶った。
断る理由はいくらでもあった。だが、リナの瞳に宿る切実な光と、祖父の夢の終着点への好奇心が、俺の背中を押した。

「分かった。ただし、あんたも一緒に来てもらう。案内人が必要だ」

俺たちは小型の飛空艇「アルバトロス号」に乗り込み、白き混沌へと舵を切った。
「鳴き竜の巣」に足を踏み入れた瞬間、世界は一変した。びゅう、と船体を撫でた風が、甲板に浅い切り傷を無数に刻む。遠くの浮岩に当たって跳ね返るエンジン音が、船を不自然に傾かせた。
「これが……『音』の力」
俺はゴクリと唾を飲み込み、羅針盤と聴診器を組み合わせたような奇妙な観測機を構えた。危険な音の周波数を避け、安全な「無音」の航路を探り出す。そして、通過した空間の情報を、神経をすり減らしながらペン先から羊皮紙へと注ぎ込んでいく。
インクが染みた箇所から、白い霧が晴れ、確かな輪郭を持つ岩肌や気流が「生まれて」いく。だが、進めば進むほど、音の攻撃は苛烈になった。

「きゃあっ!」

突如、悲鳴のような高周波がアルバトロス号を襲った。翼が裂け、船はきりもみ状態で落下を始める。もはやこれまでか、と俺が歯を食いしばったその時。
隣にいたリナが、透き通るような声で歌い始めた。
それは、子守唄のような、祈りのような、不思議な旋律。するとどうだ。荒れ狂っていた音たちが、まるで母親に諭された子供のように静まっていくではないか。裂けた翼の亀裂さえ、音の振動が緩やかになることでそれ以上広がるのをやめた。

「君は……?」
「私の故郷の一族は、代々この地の音を鎮める『歌』を受け継いできました。でも、私の歌はまだ未熟で……」

そういうことか。彼女はただの依頼人ではなかった。この地を切り開くための、もう一つの鍵だったのだ。
俺たちは、墜落寸前で近くの浮岩に不時着した。船の修理には時間がかかる。だが、リナの歌があれば、あるいは。

「リナ、歌い続けてくれ。俺がこの一帯を『確定』させる。そうすれば、音の力も安定するはずだ」

俺はペンを握りしめ、岩場の頂上へ走った。リナの歌が、敵意に満ちた音の刃から俺を守る盾となる。俺はその守りの中で、全神経をペン先に集中させた。
見えない風の流れを線として描き、不協和音を響かせる岩々を雄大な山脈として描き、空間の歪みを穏やかな谷として描き出す。俺の描く地図とリナの歌が共鳴し、奇跡のような速度で世界が創造されていく。

ついに、領域の最深部へとたどり着いた。そこにいたのは、竜ではなかった。天を突くほど巨大な、青白い水晶の柱。それが、不協和音の発生源だった。世界の創生期に取り残された、「音の化石」だ。祖父が残した手記に、その存在が記されていた。
祖父はこれを破壊しようとして失敗したのだ。だが、俺たちのやり方は違う。

「リナ、最高の歌を聴かせてくれ!」
「はい!」

リナが魂を込めて歌い上げる。水晶の柱が、彼女の歌に共鳴して美しい光を放ち始めた。俺はその光景の全てを、地図の最後のピースとして描き込む。

――これは、竜の亡骸ではない。世界が奏でる、始まりの歌だ。

俺は地図に最後の名前を書き入れた。『歌う渓谷』、と。
その瞬間、羊皮紙がまばゆい光を放った。混沌は完全に晴れ渡り、眼下には壮麗な渓谷が広がり、穏やかな風が心地よい音色を奏でている。水晶の柱は、まるで巨大な楽器のように、リナの歌とハーモニーを響かせていた。

故郷を救われたリナは、涙を流して喜んだ。俺の目の前には、祖父さえ成し得なかった絶景が広がっている。
空には、まだ無数の「空白領域」が残っている。
俺は完成したばかりの地図を誇らしげに掲げた。胸の高鳴りは、まだ収まりそうにない。さあ、次の世界を描きに行こう。この最高の相棒と共に。

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