古びた羊皮紙の匂いが、霧島蓮(きりしま れん)の仕事場には満ちていた。彼は古地図専門の修復家。破れ、汚れ、時に意図的に改竄された世界の記憶を、ピンセットと特殊な薬品を手に、現代に蘇らせるのが彼の生業だ。
その日、蓮が向き合っていたのは奇妙な依頼品だった。年代物の木箱に収められていたのは、一枚の巨大な羊皮紙。しかし、そこには何一つ描かれていなかった。ただの白紙。だが、その手触りと微かに残るインクの痕跡は、これが途方もなく古い「地図」であったことを物語っていた。
「空白の地図か…」
蓮は特殊なライトを当て、紙の繊維の奥深くに眠る記憶を探る。指先が、微細な凹凸を捉えた瞬間だった。閃光が迸り、蓮の意識はインクが紙に染み込むように、その白紙の世界へと吸い込まれていった。
気づいた時、蓮は柔らかな苔の上に倒れていた。見上げる空は、見たこともない翡翠色で、巨大な植物が天を突くように聳え立っている。
「どこだ…ここは…」
混乱する蓮の前に、一人の少女が現れた。亜麻色の髪を風になびかせ、強い意志を宿した瞳で彼をじっと見つめている。
「あなた、外から来た人ね?その『原初の地図』を持っているということは…」
少女はエリアと名乗った。彼女の言葉は、蓮の常識を根底から覆すものだった。
この世界「アルティス」は、かつて神々が「原初の地図」に描くことで創造された。山も川も、そこに生きる生命さえも、全ては地図の記述に従う。そして、地図を読み解き、世界を維持する者たちを「地図師(カルタグラファー)」と呼んだという。
「でも、最後の地図師が亡くなってから、世界の輪郭は曖昧になり始めた。記述のない場所は『空白地』となって消え、偽りの王が不完全な写本で世界を歪めて、人々を苦しめているの」
エリアは、一族に伝わる伝説の「白紙の地図」だけが、世界を救う希望だと信じていた。
蓮は自分の持っていた白紙の地図を広げた。すると、目の前の風景が、まるで写し取ったかのように地図上に浮かび上がったのだ。
「これは…リアルタイムで世界を写すのか」
「違うわ。世界が、この地図に合わせているのよ」
蓮は試しに、指先に残っていた修復用のインクで、地図上の何もない場所に小さな池を描いてみた。すると、現実の地面が水気を含み始め、みるみるうちに澄んだ水を湛えた泉が湧き出した。
「…まさか」
蓮の脳裏に電撃が走った。これは創造ではない。修復だ。世界という名の、破れかけた古地図の。
蓮の持つ「修復家」としての知識と技術は、この世界では神の御業に等しかった。インクの染みは気候の歪み。紙のシワは地形の断絶。彼は、乾いてひび割れた大地に「潤い」という名のインクを慎重に垂らし、枯れた川に「流れ」という名の線を再び引いた。エリアは、蓮が振るう技術の一つ一つに目を見張り、失われた地図師の知識を必死に記憶に刻みつけた。
二人の噂は、やがて偽りの王の耳にも届いた。王は、不完全な力で描いた歪な城から、刺客を放つ。刺客は、地図の一部を乱暴に黒く塗りつぶすことで、大地そのものを陥没させて二人を葬ろうとした。
「きゃっ!」
足元が崩れ、エリアが悲鳴を上げる。しかし蓮は冷静だった。
「落ち着いて、エリア。これはただのインクの染みだ。修復できる」
蓮は陥没していく地面の地図に、素早く補強用の繊維を貼り付け、その上から定着剤を塗るように、世界の理を安定させる古の文様を描き込んだ。すると、崩落はぴたりと止み、地面は元のあるべき硬さを取り戻した。
ついに二人は、偽りの王が君臨する、空に浮かぶ歪な城塞へとたどり着く。王は玉座に座し、巨大な地図を前に悦に入っていた。
「来たか、修復家よ。だが無駄だ。この世界は私の作品。私が描きたいように描く!」
王が地図に巨大な爪痕を描くと、城の外で嵐が吹き荒れる。
しかし蓮は、王の地図を一目見て確信した。
「ひどい出来だ。紙は歪み、インクは滲んで世界の法則を破壊している。こんなものは地図じゃない、ただの落書きだ!」
蓮はエリアに叫ぶ。「エリア、僕が新しい世界を描く時間を稼いでくれ!」
「ええ、任せて!」
エリアは瞳を閉じ、集中する。彼女の中に眠っていた地図師の血が、祖先の記憶を呼び覚ます。彼女が祈りを捧げると、王の地図に描かれた線が僅かに揺らぎ始めた。
その隙に、蓮は白紙の地図を広げた。彼の脳裏には、数多の古地図から学んだ、最も合理的で、最も美しい世界の姿が浮かんでいた。山脈は風をどう受け止め、川はどのように大地を潤し、森はどんな生態系を育むべきか。それは、創造主の設計図を読み解くような神聖な作業だった。
ピンセットのように繊細な指先で、彼はペンを走らせる。それはもはや修復ではなかった。失われた世界の記憶を呼び覚まし、新たな可能性を与える「再創造」だった。
蓮が最後の一筆を入れた瞬間、偽りの王が作り上げた歪な城塞は光の粒子となって霧散し、眼下にはどこまでも続く雄大な緑と、青く輝く大河が広がっていた。偽りの王は、描くべき世界を失い、ただの空虚な抜け殻となって消えていった。
世界には、穏やかな光が戻った。エリアは涙を浮かべて蓮を見つめる。
「ありがとう、レン。これで世界は救われるわ」
蓮は、手の中の地図を見つめた。この地図を使えば、元の世界への道も描けるだろう。しかし、彼の心は不思議な高揚感に満たされていた。破れた地図を直し、失われた歴史を繋ぎ止めるだけだった自分が、今や世界そのものを描いている。
「エリア」
蓮は顔を上げ、決意の光を瞳に宿した。
「この地図は、まだ真っ白な部分が多すぎる。僕が元の世界に帰るのは、この世界地図が完成してからでも遅くはないだろう?」
エリアの顔が、満開の花のように綻んだ。
蓮はペンを構え、どこまでも広がる青空と大地に向かって微笑んだ。
「さあ、世界の続きを描こうか」
修復家の指先から、新たな神話が生まれようとしていた。
カルタグラファーと白紙の地図
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