路地裏に打ち捨てられたブリキの玩具のように、天野健太の時間は錆びついていた。かつて天才と持て囃された時計職人の面影はなく、今は雑居ビルの片隅で、持ち込まれる安物の時計を惰性で修理するだけの日々。油と埃の匂いが染みついた指先は、もう精密な歯車の感触を忘れかけていた。
その日、店に現れた男は、この淀んだ空間には不釣り合いなほど上質なスーツを着こなしていた。黒崎と名乗るその男は、ビロードのケースをカウンターに置くと、挑戦的な笑みで言った。
「君にしか頼めない仕事がある。伝説の時計職人、天野宗一郎の遺した未完成の傑作……『クロノスの心臓』を、完成させてほしい」
健太の心臓が、錆びた振り子のように軋んで揺れた。祖父、宗一郎が晩年、狂気的な情熱を注いだ懐中時計。あまりに複雑怪奇な機構ゆえ、誰もその全貌を理解できなかった幻の傑作。健太もまた、若き日にその一部に触れ、そのあまりの完璧さに打ちのめされ、才能の限界を悟って逃げ出した過去があった。
「……無理な相談だ。俺はもう、ただの修理屋だ」
「報酬は言い値で払おう。君の才能が、こんな場所で朽ち果てていいはずがない」
黒崎の言葉は、甘い毒のように健太のプライドを刺激した。
その夜、健太は埃をかぶった祖父の工房に足を踏み入れた。持ち帰った『クロノスの心臓』は、半分だけ命を吹き込まれた美しい骸のようだった。設計図の束をめくると、インクの匂いと共に、祖父の筆跡が目に飛び込んでくる。そこにあったのは、単なる機械の設計図ではなかった。時間への畏敬、星々の運行、人の鼓動のリズムまでをも取り込もうとする、壮大な詩篇だった。そして、ページの隅に、小さな文字でこう書かれていた。
『健太へ。お前なら、この心臓の音を聴けるはずだ』
翌日から、健太の止まっていた時間が再び動き出した。ルーペ越しのミクロの世界に没頭し、ピンセットを持つ指先の震えと戦った。足りない部品を一から削り出し、μm単位の精度で歯車を組み上げる。眠ることも忘れ、食事も疎かになった。だが、不思議と心は満たされていた。それは、祖父との対話であり、自分自身との戦いだった。
時折、黒崎が工房を訪れた。進捗を確かめる彼の目は、コレクターのそれとは違う、鋭い光を宿していた。
「まだ完成しないのか。やはり君も、宗一郎の呪いからは逃れられないか」
挑発するような言葉に、健太は確信を深めていた。この男は、ただの依頼人ではない。
祖父の日記を読み解くうち、ついにその名を見つけた。『黒崎』。彼は、かつて祖父の一番弟子だった男だ。才能に溢れながらも、あるコンクールで祖父に敗れ、忽然と時計業界から姿を消したと記されていた。
数ヶ月後、ついに『クロノスの心臓』が完成に近づいた嵐の夜。黒崎が再び現れた。
「見事だ。だが、これで終わりだ」
黒崎は、衝撃の事実を告白した。あのコンクールで、祖父の作品に細工をし、失格させたのは自分だと。祖父への嫉妬と、超えられない壁への絶望が彼を歪ませたのだという。
「私は、君にも同じ絶望を味わってほしかった!天才の血が、再び挫折する様をこの目で見たかったのだ!」
雷鳴が、黒崎の絶叫をかき消す。
健太は静かに顔を上げた。その目は、怒りでも悲しみでもなく、ただ澄み切っていた。
「あんたを許すつもりはない。だが、この時計は完成させる。これは、じいちゃんだけのものじゃない。あんたが捨てた時間も、俺が失くした時間も、全てを抱いて進むための時計だ」
健太は、最後の一つの部品を組み込んだ。それは、祖父の設計図にはなかった、健太自身の独創。
「これは、過去をやり直すための『一秒』だ」
カチリ、と小さな音が響いた。
次の瞬間、工房の空気を震わせ、深く、そして生命力に満ちた鼓動が始まった。チク、タク、チク、タク……。それは単なる機械音ではなく、まるで意志を持った心臓の音だった。
健太が竜頭を特殊な操作で回すと、秒針が滑らかに逆行し、一秒だけ時を巻き戻して、再び正しい時を刻み始めた。
その完璧な音と、奇跡のような一秒を目の当たりにして、黒崎は膝から崩れ落ちた。皺の刻まれた顔を両手で覆い、子供のように嗚咽した。彼の後悔に満ちた長い時間が、その一秒によって、わずかに救われたのかもしれない。
健太は報酬を受け取らなかった。完成した『クロノスの心臓』を黒崎の手に渡し、静かに言った。
「これを持つべきなのは、あんただ」
数週間後、かつて健太がいた路地裏とは違う、陽の当たる通りに新しい看板が掲げられた。
『天野時計工房』
それは祖父が営んでいた工房と同じ名前だった。ガラスの扉を開けて中に入る健太の足取りは、力強く、そして確かだった。彼の時間は、もう誰にも止められない。自分の手で、未来の時を刻み始めたのだ。
クロノスの心臓
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