東京のコンクリートジャングルは、いつだって健人の心を無機質に乾かした。グラフィックデザイナーとして成功を収め、誰もが羨むタワーマンションに住んでいても、窓から見える景色はCGのように現実感がなかった。そんなある日、一本の電話が、止まっていた彼の故郷の時間を無理やり動かし始めた。
「健人? 久しぶり。聡美だけど。…あのね、お父さんのことなんだけど」
幼馴染の佐伯聡美からの声は、どこか切羽詰まっていた。頑固一徹な父、宗一郎が体調を崩したらしい。健人は舌打ちを一つして、重い腰を上げた。十年ぶりの帰郷だった。
バスを降りると、湿った土と緑の匂いが肺を満たした。記憶の中の風景と何も変わらない山間の町。だが、生家である「桐谷和紙工房」の門をくぐると、時間は残酷に流れたことを思い知らされた。工房は活気を失い、ただ静かに古びていくようだった。
「……帰ったのか」
工房の奥から現れた父は、記憶よりもずっと小さく、皺の数が深くなっていた。交わす言葉は見つからず、気まずい沈黙が二人を包む。健人は、その空気に耐えきれず、棘のある言葉を吐き捨ててしまった。
「まだこんなことやってるのか。時代遅れもいい加減にしたらどうだ。さっさと畳んで、楽に暮らせばいいだろう」
宗一郎は何も答えなかった。ただ、健人から目を逸らし、黙々と楮(こうぞ)の塵を取り除く作業に戻る。その背中が、健人の言葉を拒絶しているのは明らかだった。親子の間に横たわる溝は、十年という歳月以上に深く、暗かった。
故郷での数日は、罰ゲームのように過ぎていった。聡美の計らいで、町の小さな祭りのポスターデザインを手伝うことになったが、気は乗らない。町の老人たちは口々に「桐谷さんの和紙は、心が宿っとるからのう」と嬉しそうに語る。健人には、それがただの懐古主義にしか思えなかった。
夜ごと、宗一郎は工房で一人、紙を漉いていた。水が跳ねる音、竹の簀桁(すげた)がきしむ音だけが、静寂に響く。その姿を見ていると、苛立ちと共に、言いようのない不安が胸をざわつかせた。父は、こんなにも弱々しくなってしまったのか。
眠れない夜、健人は埃っぽい蔵の中に足を踏み入れた。そこで、数年前に亡くなった母が遺した日記帳を見つけた。震える指でページをめくると、そこには母の優しい文字で、不器用な夫への愛情と、息子への想いが綴られていた。
『あの子は都会で頑張っている。けれど、いつか気づく日が来るでしょうか。あのお父さんが守っているのは、ただの紙ではないことを。家族の思い出を、一枚一枚漉き込んでいるのだということを』
母の言葉が、乾いた健人の心にじんわりと染み込んでいった。父の頑固さは、不器用な愛情の裏返しだったのかもしれない。俺は、何もわかっていなかった。
その夜、空が唸りを上げ、猛烈な嵐が町を襲った。激しい雨風が、古い工房の屋根を叩く。バリバリという鈍い音と共に、屋根の一部が吹き飛んだ。雨水が滝のように流れ込み、壁際に積まれた乾燥前の楮の束に迫る。
「…! おい、親父!」
健人が叫ぶと同時に、宗一郎がよろめきながら工房に駆け込んできた。弱った体で、必死に楮の束を安全な場所へ動かそうとしている。その鬼気迫る姿に、健人は理屈も体面もかなぐり捨てて駆け寄った。
「貸せ! 俺がやる!」
親子は無言で、ずぶ濡れになりながら楮を運び続けた。風が工房の壁を揺らし、雨が容赦なく二人を打つ。全ての束を運び終えたとき、二人は床にへたり込んだ。荒い息遣いだけが、嵐の音に混じり合う。しばらくして、宗一郎がぽつりと呟いた。
「この楮はな……お前が生まれた年に、お母さんと一緒に植えた木だ」
健人は息を呑んだ。
「いつか…お前がこの仕事に興味を持ってくれた時のために、とっておいたんだ。一番いい紙が、漉けるようにな」
その言葉は、雷鳴よりも強く健人の胸を撃ち抜いた。父が守り続けてきたもの。それは、時代遅れの伝統などではなかった。健人が生まれてから今日までの、声にならない愛情。家族の記憶そのものだった。熱いものが頬を伝い、雨水なのか涙なのか、もうわからなかった。「ごめん…」と絞り出した声は、風の音に掻き消された。
嵐が過ぎ去った翌朝、嘘のような静けさが工房を包んでいた。窓から差し込む朝陽が、濡れた床や柱を照らし、空気中の塵をきらきらと輝かせている。
健人は、眠っている父の傍らで静かに決意を固めた。
「親父」
工房で後片付けをしていた宗一郎に声をかける。「しばらく、こっちにいる。東京の仕事は、どうにでもなるから。……手伝わせてくれ。紙の、作り方を」
宗一郎は驚いたように顔を上げたが、何も言わずに一枚の和紙を健人に手渡した。まだほんのりと湿り気を帯びた、漉きたての紙。陽光を吸い込んだように柔らかく、温かい。その優しい手触りが、父の許しと喜びを何よりも雄弁に伝えていた。
健人は、その和紙を両手でそっと受け取った。
父の隣に立ち、初めて簀桁を手に取る。工房に、水と紙の澄んだ音だけが静かに響き始めた。途切れてしまった親子の時間が、ゆっくりと、しかし確かに、再び流れ出す。その二人の背中を、窓から差し込む光が、いつまでも優しく照らしていた。
楮の言伝(こうぞのことづて)
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