その日、料亭「月影」は四十年の歴史に幕を下ろすはずだった。
店主の高村宗一郎は、最後の常連客たちを丁寧に見送り、深く息を吐いた。妻に先立たれ、後を継ぐ者もいない。潮時だ、と自分に言い聞かせたが、磨き上げた檜のカウンターに映る自分の顔は、寂しげに歪んでいた。
「準備中」の札をかけようと店の戸に手をかけた、その時だった。
「……まだ、大丈夫でしょうか」
振り返ると、スーツ姿の男が一人、静かに立っていた。年は四十代半ばだろうか。予約リストにはない顔だった。
「申し訳ありませんが、もう店仕舞いでして」
そう断る宗一郎に、男は穏やかな、しかし有無を言わせぬ強い瞳で言った。
「最後の客、というわけにはいきませんか。お任せで、あなたの最高のものをいただきたい」
その言葉に、なぜか宗一郎の料理人としての魂が小さく燃え上がった。彼は黙って男をカウンター席に案内した。
最初に出したのは、八寸だ。車海老の艶煮、からすみの炙り、鴨のロース。季節を凝縮した一皿を前に、男は一つ一つを確かめるように味わい、ぽつりと言った。
「繊細で、大胆。懐かしい味がします」
次に、宗一郎の真骨頂であるお椀。蓋を開けると、湯気と共に柚子の香りが立ち上る。完璧な黄金色に澄んだ出汁を一口啜った男は、目を閉じた。
「父が言っていました。月影の出汁は、星の輝きを溶かした味がする、と」
父……? 宗一郎の脳裏に、幾人かの常連客の顔が浮かんだが、どれも目の前の男とは結びつかない。
会話は途切れがちだったが、不思議と気まずくはなかった。男は、宗一郎の仕事ぶりをじっと観察している。その視線は、まるで値踏みするようでもあり、憧れているようでもあった。
焼き物の鮎を出し終えた時、男がふと右手の甲を宗一郎に向けた。
「昔、ここで火傷をしましてね。まだ跡が残っているんです」
その手の甲には、白く薄い、古い傷跡があった。
宗一郎の心臓が、大きく跳ねた。記憶の扉が、錆びた音を立てて開いていく。――厨房に忍び込んでは、つまみ食いをしようとして熱い鍋に触れた、腕白な少年。泣きじゃくる彼を、必死であやした若き日の自分。
「まさか……健一、君なのか?」
男――健一は、静かに頷いた。
健一は、宗一郎のかつての親友であり、共にこの店で腕を競った板前、島崎の一人息子だった。島崎は、ある事情から料理の世界を去り、若くしてこの世を去っていた。宗一郎は、親友を救えなかったという悔恨をずっと胸に抱いて生きてきた。
「どうして、今まで……」
「怖かったんです。父が亡くなってから、父が日本一だと自慢していたあなたの料理を食べるのが。でも、この店がなくなると聞いて、どうしても最後に確かめたかった。父の言葉が、本当だったのかを」
宗一郎は言葉を失い、ただ厨房の奥へと消えた。やがて、彼が運んできたのは、メニューにはない、一杯の親子丼だった。ふわふわの卵と、炭火で炙った香ばしい鶏肉。それは、かつて島崎が賄い飯として作り、幼い健一が「世界で一番おいしい」と頬張った、思い出の味だった。
健一の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。彼は夢中で丼をかきこみ、顔を上げた。その顔は、四十年の時を超え、あの日の腕白な少年に戻っていた。
「ごちそうさまでした。世界一、美味かったです」
健一はそう言うと、一枚の名刺をカウンターに置いた。
そこに書かれていた文字に、宗一郎は息を呑んだ。
『ミシュランガイド アジア統括調査員 田中健一』
(母方の姓を名乗っていたのか……)
「父は、あなたの才能がこんな片隅で埋もれてしまうことを、誰よりも悔しがっていました。だから僕は、あなたの料理を、父の愛したこの味を、正当に評価できる人間になろうと決めたんです」
健一は、まっすぐ宗一郎の目を見て言った。
「高村さん。僕を、あなたの最初の弟子にしていただけませんか。この店を、僕に継がせてください。そして、世界中の星を、ここに集めてみせます」
宗一郎の目にも、熱いものがこみ上げてきた。閉店するはずだった店の灯りは、まだ消えてはいなかった。四十年の時を経て果たされる親友との約束が、今、新たな歴史の始まりを告げていた。
「……承知した。明日から、みっちり仕込んでやる。覚悟しておけよ、若いの」
二人の笑い声が、静かな夜の「月影」に響き渡った。店の暖簾が、誇らしげに揺れていた。
星を継ぐ者
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