柏木響(かしわぎひびき)の「声」は、かつて百万の孤独な夜を救った。深夜ラジオのブースという小部屋から放たれる彼の声は、低く、それでいて星屑のような煌めきを帯び、リスナーたちの心を的確に射抜いた。「深夜の預言者」とまで呼ばれた彼は、しかし、あまりにも突然、マイクの前から姿を消した。
原因は、心因性の失声症。まるで使い古した楽器のように、彼の声帯は沈黙した。言葉という名の音楽を奏でられなくなった響は、都会の喧騒を捨て、今は海辺の鄙びた町で、錆びついた灯台守のようにひっそりと暮らしている。
そんな彼の前に、一人の少女が現れた。
「柏木、響さん。ですよね?」
セーラー服姿の少女は、古びたアパートのドアの前で、強い意志を宿した瞳で響を見つめていた。水瀬凪(みなせなぎ)と名乗った彼女は、響の番組の熱心なリスナーだったという。
響は何も答えず、ただ首を横に振った。人違いだ、と。だが、少女は怯まない。
「あなたの声が、聴きたいんです」
そのありふれた言葉に、響は苛立ち、ポケットからメモ帳とペンを取り出して乱暴に書きなぐった。
『もう声は出ない。帰ってくれ』
凪はメモを一瞥すると、ふわりと微笑んだ。
「知ってます。だから、会いに来たんです」
彼女は続けた。
「私が聴きたいのは、あなたの『声』だけじゃない。あなたが選ぶ『音』が聴きたいんです」
凪の言葉は、響の心の奥底で眠っていた何かを微かに揺さぶった。彼の番組は、トークだけが魅力ではなかった。選曲のセンス、トークの合間に挟む効果音、雨の音、踏切の警報音、遠いサイレンの音。それら全てが、彼の言葉と同じくらい、リスナーの想像力を掻き立てていたのだ。
『何を言っている』
響は訝しげに書き加える。
「あなたの番組は、音のプレイリストでした。都会の片隅で聴く、波の音。失恋した夜に寄り添う、猫の鳴きGoe。……柏木さん、もう一度、私たちのためのプレイリストを作ってくれませんか?」
凪の瞳は、懇願ではなく、確信に満ちていた。
その日から、奇妙な共同作業が始まった。響は最初こそ乗り気ではなかったが、凪が持ってきた古いラジカセとカセットテープを前に、いつしか夢中になっていた。彼は町の音を録音して回った。明け方の港で響く船の汽笛、神社の境内で風に揺れる風鈴、商店街の賑わい、そして、凪が時折こぼす屈託のない笑い声。
それらの音を、彼は編集室と化した自室で、パズルのように組み合わせ、一本のカセットテープを作り上げた。言葉は一切ない。ただ、音が生まれ、響き、消えていくだけの三十分。
完成したテープを凪に渡すと、彼女はイヤホンを耳にあて、静かに目を閉じた。やがて、その頬を一筋の涙が伝った。
「……聴こえます。あなたの声が、ちゃんと聴こえます」
二人は、小さなコミュニティFM局の深夜の空き枠を借り、「サイレント・周波数」と名付けた番組を始めた。声による曲紹介も、お便りを読み上げることもない。ただ、響が紡いだ「音の物語」が静かに流れるだけ。それはあまりにも実験的で、狂気の沙汰のようにも思えた。
しかし、奇跡は起きた。
初めは数人だったリスナーが、口コミで少しずつ増えていったのだ。『あの番組を聴いていると、自分の心の中の言葉が聴こえてくる』『今日の音は、忘れていた故郷の風景を思い出させてくれた』。そんな感想が、局に手紙やメールで届き始めた。人々は、響が作った音の隙間に、自分だけの物語を映し出していた。
ある夜、番組の放送直前、凪が思い詰めた顔で響に告げた。
「私、来週、この町を離れます。親の都合で、遠くに引っ越すことになりました」
響は目を見開いた。彼女がいなければ、この番組は始まらなかった。彼女こそが、最初の、そして最高のリスナーだった。
凪は、一枚のメモを響に差し出した。そこには、震えるような文字でこう書かれていた。
『最後の夜、私のための音をください』
響は、その夜、生涯最高の「放送」に挑んだ。
彼はまず、凪と出会った日に録音した、アパートのドアを叩く音を流した。次に、二人が初めて一緒に音を探しに行った日の、彼女の弾むような足音。浜辺で見つけたガラス片が立てる澄んだ音。彼女の笑い声。そして、彼が彼女のために選んだ、未来への希望を歌う古いポップソング。
それは、二人の出会いから今までの軌跡を辿る、音のアルバムだった。
番組の最後、響は全ての音を止め、完全な静寂を作った。そして、意を決したように、マイクのスイッチを入れる。一年以上も沈黙を続けた喉から、彼は全ての意志を振り絞って、空気を震わせた。
「……あ……りが……と……」
それは、声と呼ぶにはあまりにも掠れた、息の塊のような音だった。だが、電波に乗ったその音は、確かに「ありがとう」という言葉の形をしていた。
その放送は、伝説になった。
凪は町を去ったが、響の「サイレント・周波数」は続いている。彼はまだ、流暢に話すことはできない。だが、マイクの前に座る彼の心は、かつてないほど雄弁だった。
彼の紡ぐ音は、今夜もどこかの孤独な魂に寄り添い、言葉にならない想いを、そっと掬い上げている。響はもう「深夜の預言者」ではない。彼は、沈黙の中にこそ響く、確かな希望の周波数なのだ。
サイレント・周波数
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