時のかけらを拾う人

時のかけらを拾う人

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祖父から受け継いだ古道具屋「時のかけら」の古びた扉は、僕、長谷川湊(はせがわみなと)の世界そのものだった。埃と黴と古い木の匂いが混じり合った店内で、僕はモノたちが囁く過去の声に耳を澄ませる。僕には、物に触れると、その持ち主が込めた強い感情や記憶の断片を感じ取る、サイコメトリーという厄介な力があった。他人の喜びや悲しみが、まるで自分のことのように流れ込んでくる。その奔流に疲弊し、いつしか僕は人との関わりを避け、モノたちとだけ対話するようになっていた。

ある春の午後、その人は現れた。カラン、とドアベルが澄んだ音を立て、品の良い白髪の老婦人が店に入ってきた。藤乃(ふじの)さんと名乗った彼女は、小さな桐の箱をそっとカウンターに置いた。
「主人の遺品なんです。どなたか大切にしてくださる方に、と思いまして」
箱の中には、黒檀の軸を持つ一本の美しい万年筆が、静かに横たわっていた。

「拝見します」
僕が指先でそっと万年筆に触れた瞬間、脳裏に激しい閃光が走った。
それは、藤乃さんの夫ではない、見知らぬ若い男の姿だった。綻びかけた軍服を纏い、厳しい顔つきの中に深い悲しみを湛えている。そして、声にならない声が響いた。
――すまない、藤乃。本当は、俺が…。
それは、絶望的なまでの後悔と、伝えきれなかった愛情の念だった。

「どうかしましたか?」
僕の顔色が変わったのに気づき、藤乃さんが心配そうに覗き込む。
「いえ…。失礼ですが、この万年筆は、ご主人がいつ頃から?」
「さあ。私が嫁いだ頃にはもう、あの方はこれを宝物のように大切にしていましたから。若い頃からのものだと聞いております」
藤乃さんの澄んだ瞳に、嘘や偽りは見当たらない。彼女の記憶の中では、これは紛れもなく夫の万年筆なのだ。僕は混乱しながらも、「少し、詳しく調べさせてください」と言って、万年筆を預かることにした。

その夜、店を閉めた僕は、一人カウンターで万年筆と向き合った。再びそれに触れ、意識を集中させる。断片的なビジョンが、次々と頭の中に流れ込んできた。

満開の桜並木の下を歩く、若き日の藤乃さんと、その隣で照れくさそうに笑う、後に彼女の夫となる男。そして、少し離れた場所から、切ない眼差しで二人を見つめる、あの軍服の男。三人は、親友だったのだ。
場面が変わる。出征する軍服の男を、駅のホームで見送る夫。
『これを、頼む』
軍服の男は、夫に万年筆を託す。
『もし俺が帰れなかったら、藤乃に…。いや、なんでもない。達者でな』
彼は最後まで、本当の気持ちを言えなかった。そして、その万年筆は、彼の戦死の報せと共に、夫の心に重く突き刺さったのだ。

全てを理解した。この万年筆は、藤乃さんを愛しながらも、親友のためにその想いを告げられなかった男の形見だった。そして彼女の夫は、親友の秘めた想いを知りながら、それを生涯自分の胸だけに仕舞い込み、彼の形見を自分の宝物として大切にし続けたのだ。

僕は激しく葛藤した。この真実を、藤乃さんに伝えるべきだろうか。彼女と亡き夫の美しい思い出を、僕が壊してしまうのではないか。他人の人生に、これ以上踏み込むべきではない。しかし、万年筆から伝わる二人の男の静かで、あまりにも切ない想いが、僕の心を掴んで離さなかった。

数日後、僕は藤乃さんの家を訪ねた。縁側に通され、丁寧に淹れられたお茶を前に、僕は桐の箱を彼女に返した。
「藤乃さん。これは、僕の勝手な想像なのですが…」
意を決した僕は、自分が見た情景を、言葉を選びながらゆっくりと語り始めた。桜並木の下の三人、駅での別れ、託された万年筆。
藤乃さんは黙って僕の話を聞いていた。その顔には何の驚きも浮かんでいない。僕が話し終えると、彼女は庭先に咲く山茶花の花に視線を移し、ふっと息を吐いた。やがて、その目から一筋の涙が静かに頬を伝った。

「…あの子も、うちの人も、本当に不器用な人たちでしたから」
藤乃さんは、穏やかな笑みを浮かべて僕を見た。
「あなた、とても優しいのね。……ありがとう。全部、知っていましたよ」
彼女は、すべてを知っていた。知った上で、夫の深い苦悩と優しさを受け止め、何も知らないふりをし続けてきたのだ。
「あの人が、親友の想いごと私を愛してくれたように、私も、あの人の想いごと、あの子のことを胸にしまっておきたかったんです」

藤乃さんは「この万年筆は、もう売りません。三人のかけがえのない宝物ですから」と言い、僕に深く頭を下げた。

店に戻った僕は、何かに憑かれたように、ずっと閉め切っていた店の裏口の扉を勢いよく開け放った。春の温かい光と、花の匂いを含んだ風が、澱んでいた店内の空気を一瞬で塗り替えていく。
他人の感情に触れる力は、呪いではなく、祝福にもなり得るのかもしれない。初めてそう思えた。

カラン、と軽やかな音が鳴る。
新しい客が入ってきた。
僕は、今まで浮かべたことのないような、自然で、晴れやかな笑顔を向けていた。
「いらっしゃいませ」
それは、僕の世界に新しい光が差し込んだ、確かな音だった。

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