アスファルトを叩く真夏の陽光が、事件現場の空気をさらに重くさせていた。警視庁捜査一課の黒瀬は、汗で張り付くシャツの襟を緩めながら、ガラス張りの瀟洒なオフィスビルを見上げた。
「被害者は、IT企業『ネオ・ブレイン』の役員、長谷部誠。三十八歳。死因は後頭部を鈍器で殴られたことによる頭蓋骨陥没。死亡推定時刻は昨夜の午後十時から十一時の間です」
部下の宮下がタブレットを操作しながら報告する。現場は長谷部の役員室。鍵は内側から掛けられ、窓も施錠された完全な密室だった。
「密室、ね。犯人はどうやって消えたんだ」
「第一発見者である清掃員が合鍵で開けた際、窓のロックが一つだけ外れていたそうです。おそらく、そこから……」
「ずいぶん古典的な手を使うじゃないか」
黒瀬の目は、現場のハイテクな機器には目もくれず、床に落ちた一本の万年筆を捉えていた。長谷部が愛用していたものらしいが、インクが僅かに漏れていた。
捜査線上に早々に浮かんだのは、長谷部の部下であり、ライバルでもあった天才エンジニア、新田和也だった。彼は長谷部に自分の研究成果を横取りされ、プロジェクトから外されたことで、強い恨みを抱いていたという。動機は十分。
だが、新田には鉄壁のアリバイがあった。
「事件があった昨夜の午後十時から十一時。新田は、シンガポール支社とのオンライン会議に参加していました。参加者は国内外合わせて三十名。全員が、新田が会議で積極的に発言していたと証言しています。録画データも完璧です」
取り調べ室で、新田は黒瀬の向かいに座り、涼しい顔でコーヒーを口に運んだ。
「刑事さん。お気持ちは分かりますが、僕はその時間、モニターの前でした。残念でしたね」
その自信に満ちた態度が、黒瀬の刑事としての勘を刺激した。何かがおかしい。完璧すぎるアリバイは、時に最も疑わしい。
署に戻った黒瀬は、会議の録画データを何度も見返した。画面の中の新田は、他の参加者と淀みなく会話し、的確な指示を飛ばしている。どこにも不審な点はない。
「黒瀬さん、やっぱり彼の犯行は無理ですよ」
諦め顔の宮下に、黒瀬は低い声で言った。
「宮下、お前、ディープフェイクって知ってるか」
「え?ええ、AIで人物の顔や声を合成する技術ですよね。最近は精度が上がって……まさか!」
「そうだ。もし、この会議に出ていた新田が、本物そっくりに作られた『虚像』だとしたら?」
突飛な仮説に、捜査本部は「SF小説の読みすぎだ」と一笑に付した。だが、黒瀬は諦めなかった。新田がAI技術の第一人者であることを突き止めた彼は、単独での捜査を続ける。画面の中の新田の映像を拡大し、瞬きの回数、微細な表情筋の動き、背景との僅かなズレを、それこそ目がちぎれるほど観察した。
そして、一つの違和感を見つけ出す。
「こいつ……会議中、一度もグラスの水を飲んでいない」
一時間の会議中、新田は手元のグラスに一度も触れていなかったのだ。他の参加者が何度も飲み物を口にしているのとは対照的だった。些細なことかもしれない。だが、黒瀬にはそれが、生身の人間ではないことを示す致命的な綻びに思えた。
黒瀬は罠を仕掛けることにした。
翌日、新田が参加する別のオンライン会議の時間を狙った。午後三時。黒瀬は、会議が始まって十分が経った頃合いを見計らい、新田のスマートフォンに電話をかけた。
もし、新田が本当に会議に参加しているのなら、電話に出るはずがない。出るとしても、慌てて切るだろう。
コール音が五回響いた後、あっさりと通話状態になった。
『……もしもし。どちら様ですか』
新田の落ち着き払った声がスピーカーから聞こえる。黒瀬は宮下と顔を見合わせ、口角を上げた。宮下のPCには、まさに今、新田がオンライン会議でプレゼンをしている様子が映し出されている。画面の中の新田は、流暢な英語で企画を説明している。
黒瀬は、確信を持って言った。
「警視庁の黒瀬だ。新田和也、お前を長谷部誠殺害容疑で逮捕する」
電話の向こうで、初めて動揺の息遣いが聞こえた。
『……何を言っているんですか。私は今、会議中ですよ』
「ああ、お前の『虚像』はな。実に優秀らしいじゃないか。だが、そいつは電話には出られない。違うか?」
新田が生成したリアルタイムのディープフェイク映像は、完璧に彼の身代わりを演じていた。しかし、それはあくまでプログラムされた映像。電話という不測の事態には対応できなかったのだ。
現場に残されたインク漏れの万年筆。それは、密室のトリックに使われた釣り糸を窓の外から回収する際、犯人が焦って落としたものだった。万年筆から検出された指紋が、新田のものと一致した。
「どんなに技術が進んでも」
パトカーの後部座席で俯く新田の姿をミラー越しに見ながら、黒瀬は静かに呟いた。
「嘘をつく人間の綻びまでは、隠しきれないもんだ」
真夏の日差しは、ようやく少しだけ傾き始めていた。
虚像のアリバイ
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