意識が浮上する。けたたましいアラーム音。また、この朝だ。
神田は重い体を起こし、カレンダーに目をやった。×印がびっしりと並んだ、見慣れた日付。これで17回目の火曜日だ。
原因は、7時44分に起きる、あの通勤電車の爆発事故。俺が死ぬか意識を失うたびに、この日の朝にリセットされる。誰が、何のために。目的も分からぬまま、俺は爆発を阻止するためだけに、同じ一日を繰り返していた。
警察への通報は狂人扱いされた。非常停止ボタンを押せば、別の場所で遅延爆発が起きた。犯人を見つけ出すしかない。
18回目の今日。俺は決意を固め、爆弾が仕掛けられる5号車に乗り込んだ。爆弾はいつも、網棚の上の黒いボストンバッグの中だ。問題は、誰がそれを置くのか。
車内はいつもの顔ぶれだ。イヤホンで音楽を聴く学生、化粧に余念がないOL、そして、いつも穏やかな笑みを浮かべて編み物をしている老婦人。
――まさか。
何度目かのループで、俺は一瞬だけ見てしまったのだ。その老婦人が、人混みに紛れて、あの黒いボストンバッグを網棚に置くのを。信じがたい光景だった。だが、見間違いのはずがない。
俺はゆっくりと老婦人に近づき、隣に腰を下ろした。「……なぜ、あんなことをするんですか」
老婦人は編み物の手を止め、顔を上げた。その目は驚くほど静かで、全てを見透かすように俺を捉えた。「あら。あなた、ようやく"こちら側"に来られたのですね」
予想外の言葉に、俺は息を呑んだ。「どういう意味です?」
「私も、あなたと同じなのですよ」老婦人はそう言って、窓の外に目をやった。「このループから抜け出すために、この電車に乗る"ある人物"を排除しなければならないのです。未来のために」
彼女が顎で示した先にいたのは、例のイヤホンをつけた男子学生だった。彼は今、退屈そうにスマートフォンを眺めている。
「あの子は、10年後、恐ろしいウィルスを開発して世界中に撒き散らす天才です。ここで彼を止めなければ、数百万の命が失われる。この爆発は、未来を救うための、尊い犠牲なのです」
頭を殴られたような衝撃だった。これは、そういう話だったのか。未来の数百万人の命か、今の数百人の乗客の命か。究極のトロッコ問題だ。俺はこの17日間、何も知らずに正義の邪魔をしていたというのか?
時計が7時43分を指す。あと1分。
俺の脳裏に、これまでのループで見た光景が蘇る。爆風で吹き飛ぶ人々、炎、悲鳴。あれが「尊い犠牲」?冗談じゃない。
「未来のことなんて、俺には分からない」俺は立ち上がり、老婦人の前の網棚に手を伸ばした。「でも、今、目の前で人が死ぬのを黙って見てるわけにはいかない!」
俺はボストンバッグを掴み、床に引きずり下ろした。老婦人が「おやめなさい!」と叫ぶ。もみ合いになる中、バッグのファスナーが開き、中身が床に散らばった。
それは――爆弾ではなかった。分厚いハードカバーの本が数冊と、鉄アレイだった。
呆然とする俺の横で、老婦人がくすくすと笑い始めた。「あらあら。今回は、随分と正義感がお強いのね」
何かがおかしい。全てが。
その瞬間、キーンという耳鳴りと共に、俺の脳内に直接、冷たい声が響いた。
《被験体No.7、神田和也。最終フェーズをクリア。倫理観、行動力、共に基準値に到達。採用を決定します》
声が響き終わると同時、目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。老婦人の顔が、学生の顔が、通勤電車の内装が、まるで絵の具のように溶け出し、ノイズの渦に吸い込まれていく。
次に目を開けた時、俺は真っ白な部屋の椅子に座っていた。目の前には、さっきまでの老婦人が、全く違う知的なスーツ姿で立っている。その隣には、見知らぬ男が腕を組んで俺を見下ろしていた。
「ようこそ、神田さん。時間災害対策局へ」男はにこやかに言った。「あなたが経験した18日間は、すべて我々の採用試験でした。非常に優秀な成績でしたよ」
老婦人が微笑む。「あなたは毎回、違うアプローチで爆発を止めようとなさった。その柔軟性が評価されたのですわ」
採用試験?あの地獄のようなループが?俺は自分の手を見つめた。あの爆風の熱も、悲鳴も、絶望も、すべてが作り物だったというのか。
男は俺の心中を見透かしたように、肩を叩いた。「これからが本番だ。君には我々と一緒に、本物の時間犯罪者を追ってもらう。過去へ飛び、未来を守るんだ」
男は部屋の壁を指さした。壁が透明なスクリーンに変わり、無数の年表と、赤く点滅する警告が表示される。
「ワクワクするだろう?」男は、悪戯っぽく笑った。「本当のサスペンスは、ここから始まるんだよ」
不条理な採用試験
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