高槻聡(たかつきさとし)が、祖父・宗一郎(そういちろう)の書斎で古びた木箱を前にしたのは、葬儀から一週間が過ぎた、埃っぽい午後のことだった。弁護士が厳かに差し出したそれは、宗一郎の遺言の一部なのだという。
「聡君。おじい様からの、君だけに宛てた遺言です」
弁護士が読み上げた言葉は、聡の心を奇妙な手つきで撫でた。
『聡へ。私の死は老衰による病死とされているだろう。もし、お前がその公式見解に一片の疑いも抱かないのであれば、この箱を決して開けてはならない。中身を知ることなく、燃やしなさい。だが、もし私の死に不審な何かを感じ取ったのなら――その時だけ、この箱を開けるがいい。ただし、覚悟しろ。一度開ければ、お前の日常は終わる。後戻りはできない』
馬鹿げてる、と聡は思った。祖父は昔から、大袈裟な冗談を言っては人をからかうのが好きな人だった。これも、孫を驚かせるための最後の悪戯に違いない。聡は弁護士に礼を言うと、その黒檀の木箱を自室のクローゼットの奥深くへと押し込んだ。
しかし、その日から聡の世界は静かに軋み始めた。
きっかけは、祖父の薬だった。遺品整理の際に見つけた薬の空き瓶。聡の記憶にある持病の薬とは、名前が違っていた。調べてみると、それは強い鎮静作用を持つ薬で、通常、祖父のような症状の患者には処方されないものだった。かかりつけ医に電話をすると、「宗一郎様は、亡くなる一月ほど前にご自身で担当医を変えられまして…」と歯切れの悪い返事が返ってきた。
不審の種は、芽を出すとあっという間に心を覆い尽くす。
祖父が毎日つけていた日記。最後のページの直前、数日分が綺麗に破り取られていた。まるで、誰かにとって都合の悪い記述を消し去ったかのように。
そして、聡自身の周囲にも異変が起きた。帰宅すると、デスクに置いた本の位置が数ミリずれている。誰もかかってきた記録のない時間に、電話の留守電ランプが点滅している。再生しても、聞こえるのは不気味な無音だけ。街を歩けば、背中に突き刺さるような視線を感じる。振り返っても、雑踏に紛れて誰の顔も特定できない。
気のせいだ。祖父の奇妙な遺言に、精神をかき乱されているだけだ。
そう自分に言い聞かせても、背筋を這い上がる冷たい感触は消えなかった。クローゼットの奥で沈黙する木箱が、まるで生き物のように、聡の葛藤を嘲笑っているかのようだった。
ある雨の夜、決定的な出来事が起こった。
アパートの自室でパソコンに向かっていると、不意にチャイムが鳴った。ドアスコープを覗くと、誰もいない。悪戯かと思ったその時、郵便受けにカタン、と小さな音がした。拾い上げると、それは何の変哲もない封筒だった。差出人の名はない。
中には一枚の写真が入っていた。
聡は息を呑んだ。それは、聡の部屋を隠し撮りしたもので、パソコンに向かう自分の後ろ姿が鮮明に写っていた。撮影されたのは、ついさっきだ。
全身の血が凍りつく。敵は、すぐそこにいる。すぐ近くで、自分を監視している。
これは警告だ。これ以上、首を突っ込むなという。
恐怖が頂点に達した瞬間、聡の中で何かが弾けた。恐怖は怒りに、そして決意に変わった。もう逃げてはいられない。祖父が遺した言葉の意味を、知らなければならない。
聡は震える足でクローゼットに向かい、黒檀の木箱を取り出した。埃を払い、付属していた小さな真鍮の鍵を鍵穴に差し込む。カチリ、と乾いた音が、静まり返った部屋に響き渡った。深呼吸を一つ。覚悟を決め、ゆっくりと蓋を開けた。
中身は、想像していたような派手なものではなかった。
一枚の古いモノクロ写真。若き日の祖父と、見知らぬ数人の男女が、どこかの研究所らしき建物の前で笑っている。写真の裏には、意味不明な数字の羅列が鉛筆で書き込まれていた。
そして、一本のカセットテープと、暗号化されていることを示すシールが貼られたUSBメモリ。
聡は埃をかぶったラジカセを引っ張り出し、テープをセットした。再生ボタンを押すと、ノイズに混じって、切迫した祖父の声が流れ出した。
『…聡か。これを聞いているということは、お前は箱を開けたのだな。…すまない、お前を巻き込むつもりはなかった』
声は、聡の知る穏やかな祖父のものではなく、追い詰められた男の悲痛な響きを帯びていた。
『私は、ある製薬会社の巨大な不正の証拠を掴んでしまった。彼らは新薬のデータを改竄し、危険な副作用を隠蔽している。私はそれを告発しようとした。だが、彼らの力は想像以上だった。私の命は、もう長くないだろう。このテープは、彼らの手から逃れるための最初の道標だ。写真の裏の数字は、証拠の原本を隠した貸金庫の番号。このUSBには、そのデータの全てが入っている。だが気をつけろ。彼らはお前がこれを持っていることに、もう気づいているはずだ。…聡、もう後戻りはできないぞ』
テープが終わり、ジー…というノイズだけが虚しく響く。聡は呆然とラジカセを見つめていた。祖父は殺されたのだ。そして、その戦いを自分に託したのだ。
その瞬間、玄関のドアが激しく叩かれた。
ドン!ドン!ドン!
「高槻さん!警察です!近隣から騒音の通報がありまして!少し、お話を伺えますか!」
聡の心臓が跳ね上がった。警察?こんな時間に?
いや、違う。祖父の警告が脳裏で閃光のように炸裂する。これは罠だ。ドアを開ければ、終わりだ。
聡はUSBメモリを掴むと、ジーンズのポケットにねじ込んだ。ラジカセからテープを抜き取り、写真と共に上着の内ポケットに隠す。
「高槻さん!開けてください!」
ドアノブがガチャガチャと乱暴に回される。聡は息を殺し、窓へと駆け寄った。ここ2階だ。飛び降りるしかない。
窓枠に手をかけ、冷たい夜の空気を吸い込む。眼下に広がるのは、雨に濡れて光るアスファルトと、見慣れた街の灯り。しかし、それはもう、昨日までの安全な日常ではなかった。
背後で、ドアを破壊する鈍い音が響き始める。
聡は一瞬だけ目を閉じ、祖父の顔を思い浮かべた。
――じいちゃん、見ててくれよ。あんたの戦いは、俺が終わらせる。
決意を固め、聡は暗闇へとその身を躍らせた。
見えない敵から逃れる、孤独で危険な戦いが、今、始まった。
開かずの遺言
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