残響ライブラリ

残響ライブラリ

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古びたインクと紙の匂いが満ちる空間。それが、俺の世界のすべてだった。神保町の裏路地にひっそりと佇む古書店「高槻堂」。店主である俺、高槻譲は、誰にも邪魔されない静寂の中で、古い本に挟まれたまま忘れ去られた栞や手紙を見つけるのが、ささやかな喜びだった。

その日、俺が買い取った夏目漱石の全集も、そんな小さな発見を期待させる代物だった。埃を払い、一巻目のページをぱらぱらと捲っていく。すると、中程から一枚の古い写真が滑り落ちた。セピア色に変色した写真には、庭先で微笑む四人家族が写っている。だが、その中心に立つ父親とおぼしき男の顔だけが、インクで真っ黒に塗りつぶされていた。異様な光景に、背筋がぞくりと冷える。写真の裏には、震えるような筆跡でこう書かれていた。

『彼を見つけてはならない』

好奇心という名の悪魔が、俺の心に囁きかけた。これは単なる悪戯か、それとも――。俺は他の巻も調べ始めた。すると、まるでパズルのピースのように、次々と奇妙な断片が見つかった。五巻目からは『妹はどこへ?』と書かれたメモ。十巻目からは、遊園地で撮られたらしい、少女と少年の写真。その裏には『1987、夏、最後の笑顔』。

この全集は、ある家族の崩壊の記録なのだろうか。調べれば調べるほど、俺は底なしの沼に足を踏み入れていく感覚に囚われた。その日からだ。店の外、通りの向こう側から、じっとこちらを見ている男の視線を感じるようになったのは。中肉中背で、特徴のない顔。だが、その目は獲物を狙う爬虫類のように冷たかった。気のせいだと思おうとしても、日に日にその影は濃くなっていく。店の電話が鳴り、受話器を取ると無言のまま切れることも一度や二度ではなかった。

恐怖と好奇心は表裏一体だ。俺は古物台帳を引っ張り出し、全集の来歴を追った。持ち主は、三ヶ月前に亡くなった老婦人、斎藤トキエ。記録された住所を訪ねると、そこは既に人の住む気配のない空き家だった。

諦めかけた時、隣家の老婆が声をかけてきた。「斎藤さん?ああ、トキエさんね。可哀想に。ご主人が亡くなって、息子さんもどこかへ行っちゃって…ずっと一人だったから」。息子。写真の少年だろうか。

俺は最後のピースを探すため、再び写真とメモを繋ぎ合わせ、古い地図と照らし合わせた。そして、突き止めたのだ。写真に写っていた、あの家を。今はもう廃線になった私鉄の沿線に、その家は廃墟となって残っていた。

軋む門を押し開き、蔦の絡まる玄関を抜ける。中は死んだように静まり返っていた。床に散らばるガラス片を踏みしめながら、俺は二階へ上がった。子供部屋だったのだろうか。壁紙がめくれ上がったその下に、隠し戸棚のようなものがある。震える手でそれを開けると、中には一冊の古びたノートがあった。

それは、写真の少女――妹の日記だった。

『お父さんは鬼だ。夜になるとお母さんと私の部屋に来る』
『お兄ちゃんが私を守ってくれると言った。鬼をやっつけてくれると』
『今日、お兄ちゃんが鬼を消した。庭の隅に、大きな穴を掘って』
『お母さんは泣いていた。でも、私を見て笑った。「これで二人きりね」って』

心臓が氷の塊になったようだった。父親の顔が塗りつぶされていた理由。それは隠蔽。そして、日記は衝撃的な一文で終わっていた。

『お兄ちゃんが迎えに来るって言ったのに。お母さんが私をどこかへ連れていく。あの人が見てる。ずっと見てるから、早くしないと』

あの人?誰だ?
その時だった。背後で、床板がゆっくりと軋む音がした。全身の血が逆流する。振り返ることすらできない。ゆっくりと、ゆっくりと影が俺に近づいてくる。

「それを、どこで」

絞り出すような低い声。聞き覚えのある声ではなかった。だが、その声に含まれた凍てつくような殺意は、俺の本能に危険を知らせていた。俺は意を決して振り返った。

そこに立っていたのは、店の外から俺を監視していた、あの男だった。

男は日記を持つ俺の手に目を落とし、絶望と怒りが入り混じった顔で言った。「あなたは…知りすぎた」。男が一歩、踏み出す。万事休すか。俺が固く目を閉じた、その瞬間。

「妹は、どこにいる?」

予想外の言葉に、俺は目を見開いた。男の目には、殺意ではなく、焦燥が浮かんでいた。
「私は、ずっと妹を探しているんだ。あの日、母が妹を連れてどこかへ消えた。父を殺した私から、妹を引き離すために。日記の『あの人』とは、母のことだ。母は、私がいつか妹の前に現れることを恐れていたんだ」

男は写真の『兄』だったのだ。彼が追っていたのは、俺を消すためではなかった。俺が手にした全集に、妹に繋がる唯一の手がかりがあるかもしれないと、藁にもすがる思いで監視していたのだ。

『彼を見つけてはならない』。
写真の裏の言葉が、まったく違う意味を持って脳内に響き渡った。あれは、父親のことではない。殺人者となった息子――兄のことを指していたのだ。

静寂が戻った店で、俺は一枚の写真を睨んでいた。黒く塗りつぶされた父親、行方不明の妹、そして殺人者となった兄。俺はもう、ただの古書店主ではいられない。開けてはならないパンドラの箱の、最後の鍵を握ってしまったのだから。俺の静寂な日常は、この日、音を立てて崩れ去った。そして、本当のサスペンスは、まだ始まったばかりだった。

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