***第一章 罪の栞***
古書店『霧雨書房』の空気は、いつもインクと古い紙の匂いがした。埃を吸い込んだ陽光が、書架の隙間を金色に染め上げ、時間の流れを止めてしまう。父からこの店を継いで三年、桐島蒼(きりしま あおい)の世界は、この静謐な空間がすべてだった。人と目を合わせるのが苦手な彼にとって、背表紙だけが雄弁に語りかけてくるこの場所は、心地よい繭の中だった。
その日、店のドアベルが乾いた音を立てたのは、夕暮れが窓ガラスを茜色に染め始めた頃だった。入ってきたのは、背中の曲がった一人の老人。着古したツイードのジャケットが、その痩せた肩にかろうじて引っかかっている。老人は何も言わず、カウンターに風呂敷包みを置いた。
「……買い取りでしょうか」
蒼の問いに、老人はかすかに頷いた。節くれだった指がゆっくりと風呂敷を解くと、中から現れたのは一冊の手製本だった。装丁は黒い革で、タイトルも著者名もない。蒼が慎重に手に取ると、ずしりとした重みが伝わってきた。ページを繰ると、インクが滲んだ手書きの文字が並んでいる。誰かが個人的に作った、世界に一冊だけの本らしかった。
「これは……」
蒼が顔を上げると、老人の目は澱んだ水面のように静かで、何も映していなかった。査定のために本を預かろうとした、その時。一葉の栞が、はらりと床に落ちた。古びた便箋の切れ端だ。拾い上げると、そこには震えるような筆跡で、こう書かれていた。
『私の罪を、どうか見つけてください』
心臓が、つめたい指で掴まれたような感覚に襲われた。蒼が息を呑んで老人を見ると、彼は静かに踵を返し、ドアに向かっていた。
「お待ちください! この本と、このメモは……!」
呼び止める声も届かず、老人は街の雑踏に消えていった。カウンターの上には、黒い革表紙の本だけが、まるで重い秘密そのもののように鎮座していた。ページの間に、微かに赤黒いシミが滲んでいることに、蒼が気づいたのは、その数分後のことだった。それはまるで、乾いて久しい血の痕のように見えた。
***第二章 影を追う少年***
その日から、蒼の静かな日常は侵食され始めた。彼は店を閉めた後、夜ごとあの黒い本を読み耽った。タイトルは、最初のページに小さな文字で『影踏み遊び』とだけ記されていた。
物語は、ある海辺の町に住む孤独な少年の視点で語られる。少年は、自分自身の影を「もう一人の僕」と呼び、誰にも言えない秘密を打ち明ける。そして、彼は町に住む人々の影を踏む「影踏み遊び」に興じる。影を踏まれた人間は、その者が抱える最も暗い秘密を、少年にだけ見せるという不思議なルールがあった。物語は幻想的な筆致で綴られながらも、その底には生々しい人間の孤独や悲しみが横たわっていた。
蒼は、物語に登場する寂れた灯台や、海を見下ろす小さな神社の描写が、自分が生まれ育ったこの町の風景と不気味なほど一致することに気づいた。いてもたってもいられず、蒼は本を片手に町を歩いた。物語に書かれた「錆びついたブランコのある公園」も、「黒猫がいつも昼寝をしている石段」も、すべてが実在した。まるで、作者はこの町の隅々までを知り尽くしているかのようだった。
『私の罪を、どうか見つけてください』
あのメモの言葉が、頭の中で木霊する。これは単なる創作物ではない。何者かによる、現実への告発なのではないか。蒼は、本を売りに来た老人を捜し始めたが、手掛かりは皆無だった。途方に暮れていた時、彼は郷土史を調べているという水野栞(みずの しおり)という女性と出会う。蒼が持つ本のことを話すと、彼女は眉をひそめた。
「三十年前……この町で、少年が一人、行方不明になる事件があったんです。神隠しだって、噂されて」
栞の言葉に、蒼は息を呑んだ。『影踏み遊び』の物語の最後、主人公の少年は、自分の影と共に、忽然と姿を消してしまうのだ。
「その子の名前は、佐伯(さえき)くん……。彼の父親は、今もこの町に住んでいるはずです。でも、事件以来、ほとんど人と会うこともなく……」
栞が差し出した古い新聞記事のコピーには、当時十歳だった佐伯少年の、はにかんだような笑顔が写っていた。その顔は、なぜか蒼の記憶の片隅を、鈍く疼かせた。
***第三章 父の告白***
栞の協力を得て調査を進めるうち、蒼は凍りつくような事実に突き当たる。父の遺品を整理した際に見つけた古い万年筆。その特徴的なペン先とインクの色が、『影踏み遊び』のそれと完全に一致したのだ。震える手で、父が遺した書斎の奥深く、鍵のかかった引き出しを開ける。中には、同じ革で装丁された、もう一冊の『影踏み遊び』があった。そして、その傍らに置かれた一冊の古い日記。
父さんが、作者……?
日記を捲る。そこには、人付き合いが苦手で、いつも穏やかだった父の、まったく知らない顔があった。
『一九八九年、七月十五日。守れなかった。私は、あいつの影すら守ってやれなかった』
日記は、父の親友だった佐伯少年との思い出から始まっていた。二人は、互いを唯一の理解者とする、無二の親友だった。そして、佐伯少年が、彼の父親から酷い虐待を受けていたことも、生々しく記されていた。痣だらけの腕。何かに怯え続ける瞳。少年は、父にだけ家出の計画を打ち明けていた。
そして、運命の日。蒼の父は、家出の手助けをするため、約束の場所である海辺の神社で佐伯少年を待っていた。しかし、少年は現れない。心配になって彼の家へ向かうと、裏庭で信じられない光景を目撃する。
激しい口論の末、息子の体を突き飛ばす父親。石段に頭を打ち付け、動かなくなる少年。
蒼の父は、物陰からすべてを見ていた。親友の父が、パニックに陥りながら、息子の体を裏山に運び、埋めていく姿を。
なぜ、警察に言わなかったのか。日記には、その苦悩が血を吐くように綴られていた。親友の父親を告発することは、親友が虐待という地獄にいたことを世間に晒し、彼の尊厳を永遠に奪うことだと考えた。沈黙こそが、親友を守る唯一の方法だと信じてしまったのだ。
『影踏み遊び』は、その罪悪感から生まれた、父の贖罪の物語だった。主人公の少年は、親友の佐伯くん。そして、その影は、真実から目を背け、友の死の共犯者となった父自身の姿だった。『私の罪を、どうか見つけてください』というメモは、父がいつか誰かにこの重荷を解き明かしてほしいと願って、本に挟んだ魂の叫びだったのだ。
蒼は愕然とした。店に本を持ってきたあの老人は、佐伯少年の父親。彼は、蒼の父が何かを知っていると長年疑っていたに違いない。そして、自らの死期を悟り、最後の望みを託して、息子を殺した自分の罪を暴きに来たのだ。
父が背負い続けた三十年分の沈黙の重みが、一気に蒼の肩にのしかかってきた。
***第四章 夜明けの影***
蒼は、父の日記と、もう一冊の『影踏み遊び』を抱きしめ、夜の町を走った。栞に教えてもらった佐伯老人の家は、海を見下ろす崖の上に、時が止まったようにひっそりと建っていた。
ドアを叩くと、ゆっくりと開かれた隙間から、あの澱んだ瞳が現れた。
「……やはり、君の父親だったか」
老人は、すべてを悟ったように呟いた。
蒼は、言葉を尽くして真実を語った。父の日記を読み上げた。親友を思う父の気持ち、救えなかった後悔、そして真実を語れなかった三十年間の地獄。老人は、黙って床に座り込み、蒼の言葉の一言一句を、まるで杭を打ち込まれるように受け止めていた。
すべてを語り終えた時、部屋には波の音だけが響いていた。やがて、老人の肩が小さく震え始めた。それはやがて、嗚咽に変わった。
「あの子は……あの子は、ただ、自由になりたかっただけなんだ……。俺は、それすら許さなかった……」
皺だらけの顔を覆った指の隙間から、涙がとめどなく溢れていた。それは、息子を失った父親の悲しみであり、自らの罪に対する絶望であり、そして、長すぎた苦しみからの、僅かな解放の涙だったのかもしれない。
「警察に、行きます」
しばらくして、顔を上げた老人は、驚くほど穏やかな声で言った。「あの子の影を踏み続けるのは、もう終わりにします。友人に、重い荷物を背負わせたまま逝かせるわけにはいかない」
蒼は、深く頭を下げた。父は、犯人ではなかった。だが、彼は確かに罪を背負っていた。親友の尊厳を守るために、真実という光を自ら覆い隠したのだ。その重く、苦しく、そしてどこまでも優しい罪を、今、蒼は確かに受け取った。
『霧雨書房』に戻った時、東の空が白み始めていた。蒼は、父の書斎に二冊の『影踏み遊び』を並べて置いた。それはもう、ただの古書ではない。臆病だった父が、たった一人で戦い抜いた、魂の記録だった。
蒼は店の窓を開け、夜明けの冷たい空気を深く吸い込んだ。朝の光が差し込み、彼の足元に、くっきりとした黒い影が伸びる。
影があるからこそ、光は在る。
父が背負った影。老人が背負った影。そして、これから自分が生きていく光。
本の世界に逃げ込んでいた青年は、もうそこにはいなかった。痛みと優しさに満ちた現実と向き合う覚悟を決めた一人の人間として、蒼は、自分の影をまっすぐに見つめていた。その影は、もう孤独の象徴ではなかった。
影踏み遊び
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