忘却の肖像

忘却の肖像

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***第一章 色褪せた笑顔***

その異変は、梅雨時の湿った空気のように、じわりと日常を侵食してきた。
書店のバックヤードで、僕は同僚の佐藤さんに大学時代の思い出話をしていた。先日、久しぶりに会った親友・圭介との馬鹿げたエピソードだ。
「それで圭介が、酔っ払って駅前の噴水に飛び込んじゃって。もう大騒ぎですよ」
僕が笑いながら言うと、佐藤さんはきょとんとした顔で首を傾げた。
「相田さん、その圭介さんって……誰ですか?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。圭介を知らない? そんなはずはない。佐藤さんは僕たちの大学の先輩で、圭介とも共通の知人を通じて何度も会っているはずだ。
「え、何言ってるんですか。鈴木圭介ですよ。ほら、去年、先輩の結婚式の二次会でも一緒だったじゃないですか」
「鈴木くん……?」
佐藤さんは本気で思い出そうとするかのように、眉間に皺を寄せた。その表情には、からかいの色は微塵もなかった。まさか、と思って、僕は慌ててスマートフォンの写真フォルダを開いた。圭介とのツーショット写真を見せれば、すぐに解決するはずだ。

スクロールする指が、不意に止まる。胸が、氷水で満たされたかのように冷たくなった。
あるはずの写真がない。いや、正確には、写真そのものはあるのだ。見慣れた大学のキャンパス、行きつけだった居酒屋、卒業旅行で訪れた沖縄の青い海。背景はすべて覚えている。だが、どの写真でも、僕の隣で笑っているはずの圭介の姿だけが、まるで最初からそこにいなかったかのように、綺麗に消え失せていた。僕が一人で、あるいは風景だけが、そこに写っているだけだった。
「どうしたの、相田くん。顔色が悪いわよ」
背後からかけられた声に、僕はスマートフォンを落としそうになった。床に散らばった雑誌のインクの匂いが、やけに鼻につく。
「いえ、なんでも……ないです」
震える声でそう答えるのが精一杯だった。

その日から、僕の世界は静かに歪み始めた。大学の卒業アルバムを開けば、僕の隣のスペースは不自然に空白だった。SNSを遡っても、圭介とのやり取りは跡形もなく消えていた。まるで神様が、僕の世界から「鈴木圭介」というデータを、関連ファイルごとゴミ箱に捨ててしまったかのようだった。
僕だけが、その存在を覚えている。この事実は、じわじవと僕の正気を蝕んでいった。これは壮大ないたずらなのか。それとも、僕の記憶が壊れてしまったのか。答えの出ない問いが、霧のように頭の中を漂い続ける。僕は、世界でたった一人、存在しない人間の幻影を追いかける亡霊になった気分だった。

***第二章 連鎖する喪失***

圭介が消えた恐怖は、やがて日常の底に澱のように沈殿していった。僕は誰にもその話ができず、ただ一人で巨大な秘密を抱え、心をすり減らしていた。そんな僕を支えてくれたのが、恋人の美咲だった。
「湊、最近元気ないね。何かあった?」
カフェの窓から差し込む西日が、彼女の髪を琥珀色に染めていた。心配そうに僕の顔を覗き込むその瞳を見ていると、張り詰めていたものが切れそうになる。すべてを話してしまいたい。僕がおかしいのか、世界がおかしいのか、一緒に考えてほしい。
しかし、口から出たのは「仕事で、ちょっと」という、ありきたりな嘘だった。圭介の件を話せば、美咲は僕を狂人だと思うだろう。彼女を失うことだけは、耐えられなかった。

その予感は、最悪の形で現実になる。
ある週末、美咲とデートの約束をしていた。駅の改札で彼女を待っていたが、約束の時間を過ぎても現れない。電話をかけても、「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」という無機質な音声が流れるだけだった。まさか、という黒い感情が胸をよぎる。
僕は震える手で、彼女とのトーク履歴を開いた。そこには、昨夜「明日楽しみだね」と送り合ったメッセージが確かに残っている。僕はその画面を何度も見返し、自分の記憶が正常であることを必死に確認した。

家に飛んで帰り、母親に尋ねた。
「母さん、美咲から何か連絡あった?」
「みさき?」
キッチンで夕食の準備をしていた母が、僕を見て不思議そうな顔をした。その表情は、数週間前に佐藤さんが見せたものと、恐ろしいほどによく似ていた。
「美咲ちゃんって……どなた?」
全身の血が凍りついた。そんな、嘘だ。母は美咲のことを気に入り、何度も家に招いていたじゃないか。一緒に鍋を囲んで、笑い合ったじゃないか。
僕は部屋に駆け込み、本棚に飾ってあった写真立てを掴んだ。去年のクリスマス、美咲と二人で撮った、お気に入りの一枚だ。そこには、幸せそうに微笑む僕が一人で写っていた。僕の肩に寄り添っていたはずの美咲の温もりも、彼女がくれたマフラーの感触も、すべてが幻だったかのように。

圭介の時と同じだ。僕以外の全ての人間が、美咲という存在を忘れてしまった。いや、彼女は「最初からいなかったこと」にされているのだ。
なぜ。どうして。僕の大切な人ばかりが、次々と消えていく。世界が僕を孤独にするために、ゆっくりと、しかし確実に、僕の周りの人間を奪っていく。僕の足元から、思い出という名の地面が崩れ落ちていくような、底なしの恐怖。僕は、がらんとした部屋の真ん中で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。部屋の隅に積まれた、読み終えた本のインクと紙の匂いが、今はただ空虚に感じられた。

***第三章 鏡の中の犯人***

絶望が僕の心を支配していた。次に消えるのは誰だ? 両親か、数少ない友人か。僕は人と深く関わることを恐れるようになった。思い出を作ることが、新たな喪失の引き金になるように思えたからだ。僕は自ら人間関係を断ち切り、静かな繭の中に閉じこもった。

そんなある夜、僕はふと、ある共通点に思い至った。
圭介が消える前夜、僕は彼から海外転勤になったと聞かされ、強い寂しさを感じていた。「いなくならなければいいのに」と、子供のように願ったことを覚えている。
美咲が消える前日、僕たちは些細なことで喧嘩をした。感情的になった僕は、一瞬だけ、「こんなに辛いなら、いっそ出会わなければよかった」と思ってしまった。
その直後だ。彼らが僕の世界から消えたのは。

まさか。そんな馬鹿なことがあるはずがない。
だが、その仮説は、恐ろしいほどの説得力を持って僕に迫ってきた。原因は、超常現象でも、世界のバグでもない。この僕自身だ。
僕が、大切な人を失う悲しみに耐えられないあまり、無意識のうちに「その存在自体を抹消する」と願ってしまったのではないか。僕の弱さが、僕の心が、愛する人たちをこの世界から消し去ったのではないか。

洗面所の鏡を覗き込む。そこに映っていたのは、憔悴しきった、見知らぬ男の顔だった。目の下に深い隈が刻まれ、頬はこけている。しかし、その瞳の奥には、紛れもない僕がいた。怯え、混乱し、そして、自らが犯した罪の重さに打ちのめされている僕が。
「お前が……やったのか?」
鏡の中の自分に問いかける。声は、ひび割れたガラスのようにか細く震えていた。鏡の中の僕は、答えない。ただ、絶望の色を宿した瞳で、僕をじっと見つめ返しているだけだった。
僕は怪物だ。愛するが故に、その存在を消し去ってしまう怪物。僕の愛情は、呪いそのものだった。
その事実に気づいた瞬間、僕は膝から崩れ落ちた。フローリングの冷たさが、現実を突きつけてくる。涙は出なかった。あまりの恐怖と自己嫌悪に、感情さえも麻痺してしまったようだった。僕が守りたかったはずの世界を、僕自身の手で破壊していたのだ。

***第四章 最後の一枚***

僕に残された、最後の、そして最も大切な存在は、病床にいる母だった。
母は、僕が幼い頃から入退院を繰り返していた。圭介や美咲がいた頃は、彼らと一緒に見舞いに行くこともあったが、今はもちろん僕一人だ。
ある日、僕は医師に呼ばれた。
「残念ですが、お母様の時間は、そう長くは残されていません」
冷静に告げられた言葉は、しかし、僕の心を激しく揺さぶった。頭ではいつか来ると分かっていたはずの、決定的な別れの宣告。胸をえぐられるような悲しみと、息が詰まるような苦しみが、僕を襲った。

そして同時に、悪魔の囁きが聞こえた。
―――消してしまえばいい。
この耐え難い悲しみも、来るべき喪失の苦痛も、母の存在を「なかったこと」にすれば、すべてから解放される。楽になれるぞ、と。僕の心の弱さが、またしても鎌首をもたげた。
僕は、ふらふらと母の病室へ向かった。ドアノブに手をかけたまま、しばらく動けなかった。これを引けば、僕は究極の選択を迫られる。怪物になるか、それとも―――。

意を決して中に入ると、母は穏やかな顔で眠っていた。点滴の落ちる規則的な音が、静かな部屋に響いている。僕はベッドのそばの椅子に腰掛け、痩せてしまった母の顔をじっと見つめた。
記憶が、堰を切ったように溢れ出してくる。
熱を出した夜、一晩中、冷たいタオルで額を冷やしてくれたこと。初めて自転車に乗れた日、自分のことのように喜んでくれたこと。些細なことで喧嘩して、口も利かなかった気まずい朝。父を亡くした時、二人で泣きながら支え合ったこと。
その一つ一つが、僕という人間を形作ってきた、かけがえのない欠片だった。嬉しい記憶も、悲しい記憶も、すべてが僕と母が生きた証だった。
圭介を失った喪失感。美咲を失った絶望。それすらも、彼らが僕の人生に確かに存在したという証なのだ。
僕は、とんでもない過ちに気づいた。悲しみから逃れるために存在を消すことは、彼らと過ごした時間、分かち合った喜び、その全てを僕自身が否定することに等しい。それは、魂の自殺だ。

涙が、頬を伝って落ちた。
僕はそっと母の手を握った。骨張って、少し冷たいけれど、紛れもない、僕を育ててくれた温かい手だった。
「母さん……」
僕は、眠る母に向かって、静かに語りかけた。
「ありがとう。忘れないよ。絶対に」
圭介のことも、美咲のことも。そして、やがて訪れる母との別れも。全ての悲しみと、全ての愛を、僕は胸に抱いて生きていこう。それが、彼らを愛した僕にできる、唯一の償いであり、誠意なのだから。
僕はもう、忘却という安易な逃げ道を選ばない。

数週間後、母は静かに旅立った。
がらんとした実家で遺品を整理していると、古いアルバムが出てきた。一枚めくると、そこには、セピア色になった写真の中で、若い母に抱かれて屈託なく笑う、幼い僕がいた。その笑顔は、何一つ色褪せてはいなかった。
僕はその写真をそっと指で撫でた。
失われた肖像も、これから失われる肖像も、すべて僕の心の中に在り続ける。僕はもう、一人じゃない。思い出が、僕と共に生きてくれるから。
窓から差し込む光が、部屋の埃をきらきらと照らし出していた。僕は、その光に向かって、ゆっくりと歩き出した。

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