***第一章 静寂に響く音***
高峯奏の世界から音が消えて、一年が経った。
最愛の妻であり、最高の理解者でもあったピアニストの美咲を交通事故で失って以来、彼の時間は灰色の静寂に塗り込められていた。かつてはメロディで溢れていたはずの頭蓋の内側は、今や湿った空っぽの洞窟のようだ。作曲家という肩書きが、これほど虚しく響いたことはない。
リビングの窓から差し込む午後の光が、部屋の隅に鎮座するグランドピアノの黒い鏡面に反射し、埃の粒子をきらきらと宙に浮かび上がらせる。美咲が嫁入り道具のように大切に運び込んできた、ベーゼンドルファー。彼女の指が触れない今、それはただの巨大な黒い棺と成り果てていた。鍵盤を覆う蓋は、あの日からずっと閉ざされたままだ。
奏は書斎に籠もり、五線譜と向き合う。しかし、ペンは一文字も進まない。頭の中に響くのは、耳鳴りのような無音の轟きだけ。依頼主への謝罪の電話も、もう何度目か分からなかった。
その夜も、奏は無為な時間をやり過ごしていた。ウィスキーグラスを傾け、窓の外の夜景をぼんやりと眺めていると、不意に、微かな音が耳に届いた。
――ポロ、ン。
リビングの方からだ。澄んだ、それでいてどこか儚いピアノの単音。
「……空耳か」
疲れているんだ、と彼は自分に言い聞かせた。アルコールのせいかもしれない。だが、音は続いた。ポロ、ポロロン……。それは次第にいくつかの音を連ね、おぼろげな旋律の輪郭を描き始める。
奏は息を飲んだ。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。家にいるのは自分一人のはずだ。強盗か?いや、物音を立てるにしては、その音はあまりに音楽的すぎた。
彼はそろりと椅子から立ち上がり、足音を忍ばせてリビングへと向かう。ドアの隙間から中を窺うと、月明かりがピアノをぼうっと照らしているだけで、人影はない。蓋も、固く閉ざされたままだ。
幻聴だ。そう結論づけようとした瞬間、再び、あの旋律が響いた。今度はもっとはっきりと。それは、奏の知らないメロディだった。どこまでも切なく、それでいて、そっと心を包み込むような優しさを湛えている。まるで、迷子の子供を慰める子守唄のように。
恐怖よりも先に、懐かしさが胸に込み上げた。その音色は、紛れもなく美咲のそれだったからだ。彼女の指先から紡ぎ出される、温かく、深みのある音。
「み、さき……?」
掠れた声で呟いた途端、音はふっと消え、部屋は元の静寂に包まれた。奏はしばらくその場に立ち尽くし、ただ、黒いピアノのシルエットを見つめていた。彼の灰色の世界に、一年ぶりに、小さな音が灯った夜だった。
***第二章 二人で紡ぐ旋律***
あの夜以来、ピアノの音は毎晩のように奏の耳に届くようになった。最初は遠くで鳴る風鈴のようだった音は、日を追うごとに輪郭をはっきりとさせ、一つの壮大な楽曲の断片を奏でているのだと分かってきた。
奏は、もはやそれを怪奇現象だとは思わなかった。恐怖は、いつしか確信へと変わっていた。これは美咲からの贈り物なのだ、と。彼女は死んだのではない。音楽の中で、このピアノの中で、今も生き続けている。
ある晩、奏は五線譜とペンを手に、リビングのソファに腰を下ろした。まるでコンサートの開演を待つ聴衆のように、静かにその時を待つ。やがて、いつものようにピアノが鳴り始めると、彼は夢中でその旋律を譜面に書き留めていった。繊細なアルペジオ、情感豊かな和音。それは、美咲が奏のために遺してくれた、最後の曲に違いなかった。
不思議な共同作業が始まった。空間から響いてくるメロディを奏が書き留め、時折、彼自身がピアノに向かい、その続きを創作して弾いてみる。すると、まるで彼の演奏に応えるかのように、美咲のピアノが新たなフレーズを奏でるのだ。それは、言葉を交わすよりもずっと濃密な対話だった。二人の魂が、音楽を通じて再び一つに溶け合っていく感覚。
奏の生活は、劇的に変わった。食欲が戻り、無精髭を剃り、部屋を掃除した。閉ざされていたピアノの蓋を開け、丁寧に磨き上げた。彼の世界に、色彩と音が蘇ってきたのだ。失われていた創作意欲は、マグマのように熱く湧き上がり、彼を突き動かした。
「すごい曲だ……美咲。これは、僕たちの最高傑作になるよ」
完成に近づいていく楽譜を前に、奏は涙ぐんだ。これは単なる曲ではない。喪失を乗り越え、愛する人と再び結ばれるという、奇跡の証そのものだった。彼はこの曲を完成させ、世に問い、そしてもう一度、作曲家・高峯奏として立ち上がるのだ。美咲と共に。その希望が、彼のすべてを支えていた。
***第三章 不協和音の真実***
曲が最終楽章に差し掛かり、壮麗なクライマックスへと向かっていた、嵐の夜だった。奏が書き留めた旋律は、天上の音楽とでも言うべき輝きを放っていた。彼は恍惚とした表情でペンを走らせる。
その時だ。
美しいアルペジオが、突如として耳を劈くような絶叫に変わった。
――キィィィィンッ!
ガラスを爪で引っ掻くような甲高い音が脳を貫き、直後、鍵盤を巨大なハンマーで叩き潰すかのような、凄まじい低音のクラスターが部屋を揺るがした。それは音楽ではなかった。暴力そのものだった。
「うわっ!」
奏は耳を塞ぎ、椅子から転げ落ちた。心臓が鷲掴みにされたように痛む。幻聴のピアノは、狂ったように不協和音を撒き散らし続けている。それは、断末魔の叫びにも似ていた。
何が起きている?美咲、どうしたんだ?
恐怖に震えながら、彼はリビングへと這うように向かった。ドアを開けると、不協和音は嘘のように止み、また静寂が戻っていた。
しかし、部屋の様子はいつもと違っていた。ピアノの足元に、一枚の紙が落ちている。風で飛ばされてきたのだろうか。奏は恐る恐るそれを拾い上げた。それは、黄ばんだ古い新聞記事の切り抜きだった。
『ピアニスト高峯美咲さん死亡、乗用車が単独事故』
見出しを見た瞬間、奏は息を止めた。あの日、美咲の葬儀の後に一度だけ目を通し、それ以来、記憶の奥底に封印していた記事だ。
震える指で記事を読み進めていく。そして、今まで頑なに目を背けていた一文が、彼の目に飛び込んできた。
『……現場にブレーキ痕はなく、警察は、車を運転していた夫で作曲家の高峯奏氏(34)の居眠り運転が事故の原因とみて、慎重に捜査を進めている』
――居眠り、運転。
その言葉が、脳内で固く閉ざされていた扉をこじ開けた。そうだ。あの日は俺が運転していた。徹夜明けでぼんやりする頭で、大丈夫だと言い張って。助手席の美咲が、何度も「奏、少し休もう?」「私が代わるから」と言ってくれたのに、俺は聞き入れなかった。
そして、一瞬の暗転。気づいた時には、世界はひっくり返っていた。
衝突の直前、美咲は何かを叫んでいた。俺が今まで「あなただけでも、生きて」という慈愛の言葉だったと信じ込んでいた、彼女の最後の声。違う。あれは、「危ない!」という絶叫だった。そして、衝突の瞬間に響いた、声にならない、肉が引き裂かれるような悲鳴。
全身から血の気が引いていく。
では、あの美しい旋律は、なんだったのだ。美咲からの慰めでも、贈り物でもなかった。それは、罪悪感から逃れるために俺自身が作り出した、都合のいい幻聴。俺が「こうであってほしい」と願った美咲の幻影が奏でる、偽りの音楽。
そして、今夜鳴り響いたおぞましい不協和音。あれこそが、真実の音。俺が記憶の底に塗り込めていた、美咲の本当の苦しみ。絶望。その断末魔の叫びだったのだ。
ピアノは、美咲の魂を宿してなどいなかった。それはただ、俺の醜い自己欺瞞と、蓋をされた罪の意識を増幅して響かせる、巨大な共鳴箱に過ぎなかった。
「あ……ああ……あああああ……」
奏はその場に膝から崩れ落ちた。偽りの希望が砕け散り、一年分の絶望が、濁流となって彼を飲み込んでいった。
***第四章 君へ捧ぐレクイエム***
俺が、美咲を殺した。
その揺るぎない事実が、鋭い楔となって奏の心臓に打ち込まれた。彼は数日間、書斎から一歩も出ず、食事もとらず、ただ虚空を見つめて過ごした。幻聴はもう聞こえない。部屋を満たすのは、かつてと同じ、重く冷たい静寂だけだった。
死のう、と思った。美咲のいない、そして自分の罪から目を背けることもできなくなったこの世界に、生きる価値などない。
しかし、力なく床に散らばった楽譜がふと目に入った時、彼の足は止まった。そこには、天国的な美しさを持つ旋律と、地獄の叫びのような不協和音のメモが、同じ紙の上に混在していた。光と闇。偽りと真実。その両方が、紛れもなく自分の中から生まれたものだった。
「……逃げるな」
心の奥底から、絞り出すような声がした。それは誰の声でもない、彼自身の魂の命令だった。
奏は、ふらつく足でピアノの前に立った。そして、震える指を鍵盤に置く。
彼は弾き始めた。偽りの希望だった美しい主題を、あえて冒頭に持ってきた。しかし、その旋律はすぐに、あの夜の不協和音によって切り裂かれ、歪められていく。愛と後悔、歓喜と絶望、天国的な美しさと地獄のような醜さが、一つの楽曲の中で激しくぶつかり合い、そして、やがて静かに溶け合っていく。
それは、美咲への鎮魂歌(レクイエム)であり、同時に、決して許されることのない自分自身の罪を告白する、贖罪のソナタだった。
どれくらいの時間、弾き続けていただろうか。最後の音が、静寂の中に吸い込まれて消えた。その瞬間、奏を一年間苛み、そして支えてきたすべての音が、完全に止んだ。
しん、と静まり返ったリビングに、嵐の去った後の澄んだ月光が差し込んでいる。その光が、グランドピアノの白い鍵盤を柔らかく照らし出していた。
奏は、その光の中に、一瞬だけ、幻を見た気がした。
ピアノの椅子に、在りし日の美咲が座っている。彼女は何も言わず、ただ、ほんの少しだけ悲しそうに、でも、確かに微笑んでいた。
「……ありがとう。そして……ごめん」
奏の頬を、熱い雫が伝った。それは絶望の涙ではなかった。自分の罪を、悲しみを、そのすべてを抱きしめて、それでも生きていくと決めた、始まりの涙だった。
彼はこの曲を『残響ソナタ』と名付けた。
彼の音楽は、これから永遠に、彼女の死という重い響きを伴い続けるだろう。音の消えた世界で、その残響だけを頼りに生きていく。それこそが、奏にできる唯一の償いであり、消えることのない愛の証明なのだから。
残響ソナタ
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