金が尽きた時、人間は魂でも悪魔に売るという。俺、相馬健太(そうまけんた)が売ったのは、魂よりもう少し手軽なものだった。自分の「声」だ。
ネットの裏掲示板で見つけたそのアルバイトは、あまりに胡散臭く、そして魅力的だった。「あなたの声を一週間、我々にお貸しください。報酬、三十万円」。藁にもすがる思いで指定された雑居ビルの一室へ向かうと、手術室のような白い部屋で、無表情な男が待っていた。
「契約期間は七日間。その間、あなたは一切の発声行為が禁じられます。喉の所有権は、一時的に我々に譲渡される。よろしいですね?」
男は淡々と説明し、俺は頷いた。喉にヘッドホンのような奇妙な器具を当てられ、冷たい金属の感触がした直後、意識がブラックアウトした。
気がつくと、俺は自分のアパートのベッドにいた。喉に違和感はない。だが、声が出なかった。叫ぼうとしても、咳払いをしようとしても、吐息が漏れるだけ。まるで、声帯という部品が綺麗に取り外されてしまったかのようだ。だが、スマホを確認すると、確かに三十万円が振り込まれていた。俺は安堵と、かすかな胸騒ぎを覚えた。
異変は三日後に起きた。テレビのニュースが、渋谷のスクランブル交差点で起きた集団パニック事件を報じていた。十数人の通行人が、何の前触れもなく突然叫び声をあげ、錯乱状態に陥ったという。目撃者の一人が震える声で証言していた。
「……どこからか、声が聞こえたんです。男の声でした。とても綺麗な……でも、聞いていると頭がおかしくなりそうで……」
アナウンサーが「警察がその『声』を解析し、再現した音源がこちらです」と言った。スピーカーから流れてきた声に、俺は凍りついた。それは紛れもなく、三日前に失った俺自身の声だった。俺の声が、不特定多数の人間を狂わせている。
全身から血の気が引いた。これは何かの間違いだ。俺は契約したビルへ走ったが、そこはもぬけの殻だった。途方に暮れて街をさまよっていると、背後から鋭い視線を感じた。黒いスーツの男たちが二人、明らかに俺を追っている。
逃げろ。本能が叫んでいた。路地裏を駆け抜け、地下鉄のホームに駆け込む。人混みに紛れようとしたその時、腕を強く掴まれた。スーツの男か、と観念した俺の目に映ったのは、息を切らした若い女だった。
「あなたも……『売った』のね?」
女はスマホのメモ帳に文字を打ち、俺に見せた。俺は必死に頷く。彼女は沙耶(さや)と名乗った。彼女もまた、自分の「歌声」を売ってしまったのだという。
沙耶の調べによれば、俺たちの声を買い取った組織は『ノイズ・マーケット』と呼ばれていた。彼らは特殊な才能を持つ人間の「声」を収集し、それを音響兵器として加工、裏社会の顧客に販売しているのだという。声には、聞く者の脳神経に直接作用し、感情を増幅させたり、幻覚を見せたりする力があった。俺の声は、聞く者に強烈な『恐怖』の幻覚を見せる特性があるらしい。
「次の取引は、明日の夜。新しく開業する高層ホテルのオープニングパーティーよ。彼らはそこで、あなたの声を使って大規模なテロを起こすつもりだわ」
沙耶の瞳には、恐怖と決意が入り混じっていた。俺たちの声が、大勢の人間を不幸にする。それだけは絶対に止めなければならない。声を取り戻し、計画を阻止する。言葉を交わせない俺と沙耶は、視線だけで覚悟を決めた。
翌日の夜。俺と沙耶は、従業員を装ってホテルに潜入した。パーティー会場は、政財界の要人たちでごった返している。その喧騒の奥、VIPラウンジに設置された巨大なスピーカーが、鈍い光を放っていた。あれが兵器だ。
ラウンジに忍び込むと、あの白衣の男が待っていた。男の背後には、青白い光を放つ球体が浮かんだガラスケースがある。光の球は、まるで生き物のように脈動していた。
「来たかね、相馬健太君。君の声は傑作だ。人の魂を根底から揺さぶる、完璧な『恐怖』の波形を持っている」
男がタブレットを操作すると、スピーカーから低いうなりが響き始めた。まずい、起動する。
俺は男に飛びかかった。沙耶はその隙にスピーカーの制御盤へ向かう。声が出せない俺は、獣のように吼え、ただがむしゃらに男に組み付いた。男は意外にもろく、俺の体当たりで床に倒れ込んだ。
「無駄だ!もう誰にも止められない!」
男が叫んだ瞬間、スピーカーから甲高いノイズが迸る。そして、それは聞き覚えのある音色に変わっていった。俺の声だ。しかし、それはもはや俺のものではなく、純粋な恐怖の塊と化した音響の刃だった。
頭が割れるように痛い。目の前に、ありとあらゆる恐怖の幻覚が浮かび上がる。落下する感覚、燃え盛る炎、追いかけてくる名状しがたい何か。パーティー会場から悲鳴が聞こえ始めた。
「やめて!」
か細い、しかし芯の通った声が響いた。沙耶だ。彼女は声を売ったはずじゃなかったのか?
「返してもらったのよ……意地でね」
沙耶は口の端から血を流しながら、不敵に笑った。彼女は自分の喉を傷つけ、強制的に発声することで、契約を破棄したのだ。その声はもう以前のような美しい歌声ではなかったが、確かな意志を持っていた。彼女の歌が、俺の声が振りまく恐怖のノイズを打ち消していく。
俺は正気を取り戻し、最後の力を振り絞ってガラスケースに体当たりした。けたたましい音を立ててガラスが砕け散る。青白い光の球が、ふわりと宙に舞い、俺の胸に吸い込まれた。
喉の奥が、灼けるように熱い。失われていた感覚が、一気に全身を駆け巡る。
「……あ……ああ……ッ!」
嗄れた、しかし紛れもなく自分の声が、喉から漏れた。スピーカーは沈黙し、パーティー会場の混乱も収まり始めていた。
事件は「ガス漏れによる集団幻覚症状」として処理された。ノイズ・マーケットの痕跡は綺麗に消え、俺と沙耶の日常も、表向きは元に戻った。
だが、何もかもが元通りというわけにはいかなかった。時々、自分の声が自分のものではないように聞こえることがある。鏡に向かって言葉を発すると、喉の奥で、あの青白い光が瞬くような気がするのだ。
俺は自分の声に潜む『何か』を知ってしまった。そして、あのマーケットは、今もどこかで新たな「声」を求めている。この喉に宿った恐怖は、まだ終わってはいない。
ノイズ・マーケット
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