声の棺

声の棺

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***第一章 壁のささやき***

そのアパートに越してきたのは、夏の盛りだった。蝉の声がアスファルトの熱を吸い上げて、むせ返るような空気を掻き混ぜている。俺、相沢健太は、汗だくで段ボール箱を運びながら、隣で無邪気にはしゃぐ妹の美咲に苦笑いを向けた。
「美咲、危ないからあんまり走り回るなよ」
声には出さず、慣れた手つきで手話を組み立てる。美咲は七歳。三つの時に罹った重い髄膜炎の後遺症で、声を失った。それ以来、彼女の世界から音は消え、俺たちの会話は手のひらの上で紡がれるようになった。
美咲はこくりと頷くと、自分の部屋になる予定の四畳半に駆け込んでいく。古い木造アパートの二階の角部屋。安さが決め手だったが、畳のささくれや、壁の染みが、過ぎ去った時間の重みを物語っていた。

異変に気づいたのは、暮らし始めて一週間が過ぎた頃だった。
夕食の準備をしていた俺は、美咲の部屋から聞こえる奇妙な物音に顔を上げた。いや、音ではない。気配だ。美咲が誰かと遊んでいるような、楽しげな気配。
そっと部屋を覗くと、美咲は部屋の隅、隣の部屋とを隔てる何の変哲もない壁に向かって座り込み、熱心に手を動かしていた。手話だ。誰かと会話している。その表情は、公園で初めて友達ができた日のように輝いていた。
「美咲、誰と話してるんだ?」
俺が手話で尋ねると、美咲はぱっと顔を輝かせ、クレヨンとスケッチブックを持って駆け寄ってきた。そして、たどたどしいが力強い文字で、こう書いた。
『かべのむこうに、おともだちができたの』
心臓がひやりと冷えた。このアパートは角部屋で、その壁の向こうは外のはずだ。俺は、妹の孤独が生み出した空想の友達なのだろうと、自分に言い聞かせた。声を出せず、友達の輪にも入りづらい妹が、寂しさを紛らわすために生み出した、健気な防衛本能なのだと。

だが、その日から、奇妙な出来事は少しずつ日常を侵食し始めた。
夜中、眠っていると、美咲の部屋のほうから、壁を爪で引っ掻くような、カリ……カリ……という微かな音が聞こえる。気のせいかと思っても、その音は毎晩のように続いた。美咲の部屋に置いてあったはずのぬいぐるみが、朝になると廊下に転がっていることもあった。
ある晩、俺はついに聞いてしまった。壁の向こうから、幼い子供が息を詰めて囁くような声を。
「……あ……そ……ぼ……」
それは、空耳では済まされないほど、明瞭な響きを持っていた。俺は、得体の知れない恐怖に全身の毛が逆立つのを感じた。この壁の向こうには、ただの空虚ではない、何か禍々しいものがいる。

***第二章 交わされた約束***

壁の向こうの「何か」への恐怖は、日に日に俺の心を蝕んでいった。仕事にも身が入らず、夜は物音に怯えて熟睡できない。俺は本気で引っ越しを考え始めた。
「美咲、あの子は危ない。もう関わるのはやめよう」
俺が必死の形相で手話をすると、美咲は悲しそうに首を横に振った。そして、ゆっくりと、しかしはっきりとした手つきで俺に伝えてくる。
『あの子は、こわくないよ。ずっとひとりぼっちで、さみしかったんだって』
その瞳は、壁の向こうの存在を心から信じ、慈しんでいるようだった。俺には、その純粋さが狂気にさえ見えた。妹が、見えない何かに取り憑かれ、正気を失っていくのではないか。その恐怖が、壁の向こうの存在そのものよりも、俺を苦しめた。
「どんな子なんだ? 名前は? 何を話したんだ?」
問い詰める俺に、美咲は少し困ったように眉を下げた後、再びスケッチブックにペンを走らせた。
『おとこのこ。なまえは、まだおしえてくれないの。でもね、やくそくしたんだ』
「約束?」
『うん。たいせつな、やくそく』
美咲はそう書くと、口元に人差し指を当てて「ないしょ」のポーズをした。その無邪気な仕草が、不気味な影を帯びて俺の目に映る。妹は、俺の知らない世界で、得体の知れない存在と固い契りを交わしてしまったのだ。

俺は行動を起こすしかなかった。妹を守るために。
まずは、このアパートについて調べることにした。大家は人の良さそうなお婆さんだったが、俺が部屋のことを尋ねると、一瞬だけ、その皺だらけの顔に憂いの色が差したのを、俺は見逃さなかった。
「あの部屋で……何か変わったことはありませんでしたか?」
俺の真剣な問いに、大家は重い口を開いた。
「あんたみたいな若い人に、縁起の悪い話もしたくないんだがねぇ……。もう、四十年も前の話だよ。あの部屋で、火事があってね」
大家の声が、夏の午後の気だるい空気の中で、不吉に響いた。
「小さな男の子が、一人で留守番をしてたんだ。タバコの不始末だったかねぇ……火の回りが早くて、誰も助けてやれなかった。本当に、可哀そうな話さ」
俺は息を呑んだ。全身から血の気が引いていくのが分かった。
「その子……は……」
「ああ、煙に巻かれてね。気の毒に、喉をやられてたみたいで、助けを呼ぶ声も、出せなかったらしいよ」

声も、出せずに。
その言葉が、雷のように俺の頭を撃ち抜いた。

***第三章 煙に消えた声***

全身が氷水に浸されたような衝撃と共に、全てのピースが繋がった。
壁の向こうの友達。声を出せずに死んだ男の子。そして、声を持たない俺の妹、美咲。
偶然ではなかったのだ。あれは、声なき魂が、同じ痛みを持つ魂に引き寄せられ、共鳴していたのだ。恐怖の対象だった壁の向こうの存在は、その瞬間、ただただ悲しい、孤独な子供の霊へと姿を変えた。
俺は自分の部屋に戻り、震える手で顔を覆った。俺は一体、何を恐れていたのだろう。妹を心配するあまり、その本質を見ようともしなかった。妹が感じ取っていた魂の孤独を、ただの怪奇現象として切り捨てようとしていた。自己嫌悪が津波のように押し寄せる。

その夜、俺は意を決して、美咲の部屋の壁の前に立った。美咲はもう眠っている。静まり返った部屋で、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。
「……そこに、いるんだろう?」
震える声で語りかける。返事はない。
「君は、寂しかったんだな。声が出せなくて、苦しかったんだな。……ごめんな。気づいてやれなくて」
俺がそう言った瞬間、壁の中から、か細い、嗚咽のような音が聞こえた。それは恐怖を煽る音ではなく、長い孤独の末に、ようやく誰かに理解された安堵のすすり泣きのように聞こえた。

その時、背後で衣擦れの音がして、眠っていたはずの美咲が立っていた。彼女は俺の顔をじっと見つめた後、枕元に置いてあったスケッチブックを手に取り、一枚のページを開いて俺に見せた。
そこに描かれていたのは、二人の子供の絵だった。一人は、美咲にそっくりな、リボンをつけた女の子。もう一人は、顔の輪郭だけの、少し悲しそうな表情をした男の子。二人は、壁を隔てているはずなのに、絵の中では固く手を取り合っていた。
そして、その絵の隅に、美咲の拙い字で、こう書き込まれていた。

『わたしのこえをあげるから、いっしょにあそぼう』

俺は言葉を失った。これが、美咲が交わした「約束」の正体だったのだ。
彼女は、自分が持っていないものを、自分と同じように持てずに苦しんだ魂への、最高の贈り物として差し出そうとしていた。声という概念を知らないはずの妹が、その「喪失」の痛みを誰よりも深く理解し、分かち合おうとしていたのだ。
俺は、美咲を憐れんでいた。障害を負った可哀そうな妹だと、心のどこかで思っていた。だが、違った。彼女は俺なんかよりずっと強く、ずっと優しく、ずっと気高い魂を持っていた。
溢れ出す涙を止めることができなかった。それは恐怖の涙ではなく、妹の計り知れない優しさに対する、感動と慚愧の涙だった。

***第四章 声なき合唱***

俺は崩れるようにその場に膝をつき、美咲を強く、強く抱きしめた。小さな体は、驚くほど温かかった。
「ごめんな、美咲。お兄ちゃん、何も分かってなかった」
声が震える。俺は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、手話で伝えた。
『君の声は、君だけの、大切なものだ。誰にもあげる必要はないんだよ』
美咲はこてんと首を傾げた後、俺の頬にそっと手を伸ばし、涙を拭ってくれた。そして、にっこりと、天使のように微笑んだ。その笑顔は、全てを理解し、受け入れているように見えた。

俺はもう一度、壁に向き直った。今度はもう、恐怖も、憐れみもない。ただ、一人の友人に語りかけるように、穏やかな声で言った。
「もう一人じゃないぞ。これからは、俺も美咲も、君の友達だ。だから、もう寂しくない」
その言葉が、壁の向こうの冷たい闇に届いたと、確信できた。部屋を満たしていた張り詰めた空気が、ふっと春の陽だまりのように和らぐのを感じた。壁から聞こえていたカリカリという音も、すすり泣きも、もう聞こえない。ただ、静寂があるだけだった。それは、安らかな眠りのような、満たされた静寂だった。

それ以来、俺たちの部屋で怪奇現象が起きることは二度となくなった。壁の向こうの男の子の魂は、長い孤独から解放され、安らぎの場所へ旅立ったのだろう。
それでも、美咲は時々、ふとした瞬間に、あの壁にそっと耳を寄せる。そして、何かを聴き入るように目を細め、満ち足りた表情で微笑むのだ。
そして、俺のほうを振り返り、嬉しそうに手話を紡ぐ。

『いまね、うたってるの』
『わたしのぶんまで、うたってくれてるの』

俺は、その言葉の意味を、もう疑うことはない。
壁の向こうには、恐怖も怨念もない。そこには、声を持たない二人の子供が魂で交わした、世界で一番静かで、世界で一番美しい友情の記憶が残っているだけだ。
俺は、妹の障害を嘆くことをやめた。声を持たない彼女だからこそ、聴こえる歌がある。見えない彼だからこそ、届けられる想いがあった。
俺は美咲の手をとり、窓の外を見た。あれほど忌まわしかった夏の蝉時雨が、今はまるで、声なき魂たちのための、力強い合唱のように聞こえていた。

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