幽けき風の音

幽けき風の音

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***第一章 追憶の風鈴***

東京のコンクリートジャングルで、私の心はとっくに干上がっていた。人いきれの満員電車、無機質なオフィスビル、そして誰も私の内側を見ようとしない人々の群れ。二十六歳になった今も、私の時間の針は十年前のあの夏で止まったままだ。兄の拓也が、裏山の霧ヶ岳で帰らぬ人となった、あの夏で。

逃げるようにして飛び出した故郷に、私は三年ぶりに足を踏み入れた。盆休みを利用した短い帰省。蝉時雨が容赦なく降り注ぐ実家の縁側で、私はただぼんやりと庭を眺めていた。生温い風が、汗ばんだ首筋を撫でていく。その時だった。

ちりん、と乾いた音がした。

視線を上げると、軒先に古びた鉄の風鈴が一つ、吊るされていた。記憶にない。錆が浮き、煤けたような黒いそれは、風を受けてもか細い音しか立てない。音色を豊かにするはずの短冊もついていなかった。父の気まぐれだろうか。

また風が吹き、風鈴が鳴った。ちりん。その、寂寥感を掻き立てる音に重なるように、微かな声が耳に届いた。

『美咲』

心臓が氷水で満たされたように冷たくなる。幻聴だ。そうに決まっている。けれど、その声はあまりに懐かしく、私の魂を根元から揺さぶった。十年前に失われた、兄の声だった。

私は立ち上がり、まるで何かに吸い寄せられるように風鈴へと手を伸ばす。指先が触れた鉄は、真夏の気温を無視して、ひやりと冷たかった。

***第二章 山が招く声***

その日から、私の世界は一変した。風が吹くたび、あの錆びた風鈴は兄の声を運んでくるようになった。

『美咲、会いたいよ』
『ずっと一人で、寂しかったんだ』

最初は幻聴だと自分に言い聞かせていた。だが、声は日増しに明瞭になり、私の孤独な心に甘く染み渡っていった。東京での生活でささくれ立った神経が、兄の声に触れるたびに解きほぐされていくような、倒錯した安らぎがあった。両親に風鈴のことを尋ねても、「さあ、いつからあったかねえ」と曖昧な返事が返ってくるだけ。まるで、私にしか見えず、聞こえていないかのように。

私は一日中、縁側から離れられなくなった。風が凪げば、息を殺して次の風を待つ。風鈴が鳴れば、全身を耳にして兄の言葉に聞き入る。その声は、もはや私の存在理由そのものになりつつあった。

帰京の予定日が近づいたある日の午後、ひときゆわ強く風が吹いた。
ちりん、ちりん、とせわしなく鳴る音の合間に、兄の声がはっきりと響いた。

『こっちにおいでよ、美咲。霧ヶ岳で待ってる。昔みたいに、二人で話そう』

霧ヶ岳。兄が命を落とした、あの禁忌の場所。両親は、私が山の名前に過敏に反応することを誰よりも知っている。だが、今の私に恐怖はなかった。あるのは、兄に会えるという狂おしいほどの期待だけだ。

「馬鹿なことを言うんじゃない!」
私の決意を聞いた父が、怒声と共に私の肩を掴んだ。母はただ泣いていた。
「あそこは拓也を呑み込んだ山だぞ。お前まで失うわけにはいかん!」
「お兄ちゃんが待ってるの!」
私は取り憑かれたように叫んでいた。「今行かなきゃ、もう二度と会えなくなる!」

両親の制止を振り切り、私は家を飛び出した。背後で聞こえる二人の悲痛な声は、もはや私の耳には届かなかった。私の心はただ一つ、山から聞こえる兄の声と、あの風鈴の音色だけに支配されていた。

***第三章 偽りの道しるべ***

霧ヶ岳の麓に立つと、夏の盛りとは思えないほどひやりとした空気が肌を刺した。鬱蒼と茂る木々が陽光を遮り、登山道は昼なお暗い。一歩足を踏み入れると、世界の音がすっと遠のいた。蝉の声も、鳥のさえずりも聞こえない。静寂が、まるで分厚い壁のように私を外界から隔絶した。

不安が鎌首をもたげたその時、ちりん、と聞き慣れた音がした。前方からだ。音は一つではない。あちこちから、まるで私を導くように、断続的に鳴り響いている。私はその音を頼りに、整備された登山道を外れ、草木の生い茂る獣道へと分け入っていった。

進むほどに、霧が深くなる。視界は数メートル先も覚束なくなり、湿った土と腐葉土の匂いが鼻をついた。周囲の景色が、まるで悪夢のように歪み始める。ねじくれた木の幹が苦悶の表情を浮かべた人の顔に見え、風が木々の葉を揺らす音は、無数のひそひそ話に聞こえた。

『もう少しだよ、美咲』
『もうすぐ会える』

声が、すぐ側から聞こえる。だが、それはもはや兄一人の声ではなかった。知らない男の声、女の声、子供の声までもが混じり合い、不気味なハーモニーを奏でていた。恐怖で足が竦む。帰りたい。けれど、後戻りする道は、もう濃い霧の向こうに消えていた。

やがて霧がわずかに開け、小さな広場のような場所にたどり着いた。その中央に、人影が立っている。
「お兄ちゃん…?」
それは、記憶の中の兄の姿をしていた。だが、どこか違う。その輪郭は陽炎のように揺らめき、透けて見える背後には、おぞましい数の黒い影が蠢いていた。影たちは皆、苦痛に歪んだ顔で、私をじっと見つめている。

「よく来たね、美咲」

兄の姿をした〝それ〟が言った。しかし、その口から発せられたのは、何十、何百という声が一つになった、おぞましい合唱だった。

『寂しい』
『苦しい』
『寒い』
『お前も、仲間におなり』

ぞわり、と総毛立った。これは、兄じゃない。この山で命を落とした、行き場のない魂たちの集合体。彼らの拭えない孤独と怨念が、一つの怪異と化しているのだ。兄も、その一部として取り込まれてしまったに過ぎない。私を呼んでいたのは、兄を助けてほしいという微かな願いと、寂しさを埋めるために新たな犠牲者を求める怪異の、底なしの渇望が混じり合った、呪いの声だったのだ。

***第四章 解放の音色***

絶望が、私の思考を麻痺させた。目の前の〝それ〟は、ゆっくりとこちらに手を伸ばしてくる。無数の影たちも、じりじりと距離を詰めてくる。捕まれば、私も彼らと同じ、この山を永遠に彷徨う魂の一つになるだろう。

もう、どうでもいいか。そう思いかけた瞬間だった。
混沌とした声の濁流の中から、たった一つ、澄んだ意志が私の心に直接響いてきた。

『ごめん、美咲。…逃げろ』

兄の、本当の声だった。魂の奥深くからの、最後の叫び。
その声に、私は我に返った。そうだ、私は兄に会いたかった。しかし、こんな形で兄を、そして見ず知らずの魂たちを永遠の苦しみに縛り付けていいはずがない。過去に囚われ、自分の寂しさを埋めることばかり考えていたのは、私の方だった。

恐怖が消えたわけではない。だが、それを上回る強い感情が、私の中から湧き上がってきた。
私は逃げる代わりに、一歩前に踏み出した。そして、震える声で言った。

「もう、寂しくないよ。私が覚えているから。みんなのこと、絶対に忘れないから」

懐から、実家から持ち出したあの錆びた風鈴を取り出す。それはポケットの中で、氷のように冷たくなっていた。私は意を決し、落ちていた鋭い石の欠片で自分の指先を小さく傷つけた。ぷくりと浮かんだ血の玉を、風鈴の本体にそっと擦り付ける。

「私の記憶を少しあげる。だから、みんなを自由にしてあげて。…お兄ちゃんを、返して」

それは、祈りだった。誰に教わったわけでもない、私だけの儀式。
目の前にあった一番大きな桜の木の枝に、私は風鈴を吊るした。

その瞬間、世界から音が消えた。
次の刹那、今まで感じたことのないほど強く、清浄な風が吹き抜けた。

ちりぃぃ……ん。

風鈴が、長く、高く、澄みきった音を奏でた。それは、錆びた鉄が出すとは思えないほど、魂の奥深くまで染み渡るような、美しい音色だった。

その音に導かれるように、私を取り囲んでいた無数の影たちが、安堵したような表情で、ゆっくりと霧の中へと溶けていく。兄の姿をした中心の影も、最後にふっと穏やかに微笑み、光の粒子となって消えていった。

静寂が戻った広場には、西日が差し込み、木漏れ日がきらきらと踊っていた。全ての悪夢が嘘だったかのように、山は本来の穏やかな姿を取り戻していた。私は一人、そこに立ち尽くし、ただ涙を流し続けた。

山を下りる時、私は風鈴をそこに残してきた。もう、あの風鈴から声が聞こえることはないだろう。

数年後、私は東京で自分の足でしっかりと立っている。時折、ふとした瞬間に、あの夏の日のことを思い出す。悲しみや後悔が完全に消えたわけではない。だが、私の心の中には、今もあの最後の風鈴の音が鮮やかに響いている。それは恐怖の記憶ではない。兄との絆であり、私が過去を乗り越え、未来へと歩み出す力をくれた、解放の音色なのだ。

風の音が、遠い山の鎮魂歌のように、今日も私を優しく見守っている。

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