古物市の隅で、俺はそのカメラを見つけた。ずしりと重い、黒鉄の塊のような8mmカメラ。値札はなく、代わりに埃をかぶった革ケースに収まっていた。店の親父は「やめとけ。そいつは碌なもんじゃねえ」と、やけに真剣な顔で言った。その言葉が、俺の好奇心に火をつけた。動画投稿サイトで鳴かず飛ばずの俺にとって、この曰く付きのカメラは最高のガジェットに思えたのだ。半ば強引に数千円で譲り受け、俺は意気揚々とアパートに帰った。
ケースの内側には、黄ばんだ紙片が糊で貼り付けられていた。万年筆で書かれたような、古風な文字が並んでいる。
『撮影禁止事項』
一、閉じたものを撮るな。
一、同じ場所を二度撮るな。
一、決して、ファインダーから目を離すな。
「くだらねえ」。俺は鼻で笑った。オカルト好きを釣るための、前の持ち主の悪趣味な悪戯だろう。俺は早速、最初のルールを破ってやることにした。手始めに、自室のクローゼットの扉を撮る。フィルムは特殊なカートリッジ式で、幸い一本だけ残っていた。
ギチギチとゼンマイを巻き、ファインダーを覗く。古いレンズ越しの世界は、少し青みがかって見えた。カチリ、とスイッチを押すと、ジジジ…という耳障りな駆動音と共に撮影が始まった。三十秒ほど回して撮影を終え、すぐにPCに映像を取り込んで確認する。
再生された映像を見て、俺は息を呑んだ。現実ではびくともしなかったクローゼットの扉が、映像の中ではギィ…と音を立て、ゆっくりと内側に開いていくのだ。扉の隙間から覗くのは、ただの暗闇。何も見えない。しかし、その闇は妙に生々しく、まるで呼吸しているかのように見えた。
「……すげえ」。恐怖よりも先に、興奮がこみ上げてきた。これはバズる。俺は『【心霊現象】開くはずのない扉が…』という扇情的なタイトルをつけて、すぐに動画をアップした。案の定、再生数はじわじわと伸び、コメント欄もにわかに活気づいた。
味を占めた俺は、二番目のルールを試しに、有名な心霊スポットである「霧ヶ山廃病院」へ向かった。深夜の廃病院は、不気味な静寂に包まれていた。俺は長い廊下の真ん中に立ち、カメラを構える。一度、廊下の突き当りまでを撮影。そして一度カメラを止め、わざと同じアングルでもう一度撮影を開始した。
アパートに帰り、震える手で映像を確認する。一度目の映像には、何事もなかった。薄汚れた壁と、割れた窓から差し込む月光が映るだけだ。だが、二度目の映像に切り替わった瞬間、俺は悲鳴を上げそうになった。
廊下の突き当りに、誰かが立っている。
黒い人影。輪郭はぼやけているが、それが「人」の形をしていることは間違いなかった。トリックじゃない。俺は確かに、一人でそこにいたのだ。心臓が早鐘を打つ。マウスを持つ手が汗で滑る。もう一度、一度目の映像を再生する。……何もいない。そして、二度目の映像へ。……いる。さっきよりも、ほんの少しだけ、こちらに近づいているような気がした。
恐怖が背筋を駆け上った。もうやめよう。こんなカメラ、捨ててしまおう。そう思った時、ふと最後のルールが頭をよぎった。
『決して、ファインダーから目を離すな』
これは、どういう意味だ? 撮っている間だけか? それとも……。好奇心と恐怖がせめぎ合う。俺は、まるで何かに取り憑かれたように、もう一度カメラを手に取ってしまった。そして、ファインダーを覗き込んだ。
その瞬間、世界が変わった。
ファインダーの中には、あの廃病院の廊下が映っていた。俺の部屋じゃない。パニックに陥り、ファインダーから顔を離そうとした。だが、できない。見えない力で、眼球がレンズに縫い付けられたようだ。無理に顔を背けようとすると、頭蓋が割れるような激痛が走った。
「う、ああ……っ!」
ファインダーの中、廊下の突き当りから、あの人影がゆっくりと歩いてくる。一歩、また一歩。現実の俺は部屋の床にへたり込んでいるはずなのに、感覚はファインダーの中の廊下に完全に囚われている。カビと埃の臭い。冷たく湿った空気。足音だけが、やけにクリアに響く。
逃げなければ。俺はカメラを構えたまま、めちゃくちゃに手足を動かしてアパートのドアに向かった。現実の視界と、ファインダーの中の廊下がぐちゃぐちゃに混ざり合い、平衡感覚が狂う。壁に肩をぶつけ、テーブルに足を引っかけながら、なんとか玄関のドアノブに手をかける。
だが、ファインダーの中の人影は、もう目の前に迫っていた。その顔には、目も鼻も口もなかった。のっぺらぼうだ。そいつが、まるでレンズの奥の俺を検分するように、ゆっくりと首を傾げた。
もう、だめだ。
絶望が俺を支配したその時、最後の賭けに出るしかなかった。ルールを破れば、何かが起こる。ならば、最後のルールを破れば。
俺はありったけの意志を込めて、固く、固く目をつぶった。そして、ファインダーから顔を引き剥がした!
網膜に焼き付いた光が消え、世界が暗転する。激しい浮遊感。何かに強く突き飛ばされたような衝撃。
次に目を開けた時、俺は自室の床に倒れていた。手にはカメラはない。体も自由に動く。窓の外は、白み始めていた。悪夢から覚めたような、ひどい疲労感があった。
「……夢、か?」
しかし、部屋の様子がおかしいことに気づくのに、時間はかからなかった。壁紙の色が違う。見たこともないポスターが貼られている。俺のPCじゃない、旧式のデスクトップが机に鎮座している。
混乱しながらも、俺はPCの電源を入れた。慣れないOSを操作し、いつもの動画投稿サイトを開く。自分のチャンネルを探す。だが、どこにもない。代わりに、俺がよく見ていた別のオカルト系チャンネルがトップに表示されていた。
その最新動画のタイトルに、俺は釘付けになった。
『【放送事故】廃病院でライブ配信中に配信者が謎の失踪』
クリックすると、見覚えのある廃病院の廊下が映し出された。そして、そこにいるのは、恐怖に顔を引きつらせ、黒い8mmカメラを構えた「俺」だった。動画の中の「俺」は、何かに怯えて後ずさりながら、意味不明な言葉を叫んでいる。
「離せ!やめろ!こっちに来るな!」
そして、絶叫と共に映像が激しく乱れ、真っ暗になった。
コメント欄が、凄まじい速さで流れていく。
『マジで消えたぞ』
『このカメラ、何なんだ?』
『やらせだろ?……やらせだよな?』
俺は全てを理解した。ファインダーから目を離した瞬間、俺は入れ替わったのだ。ファインダーの中の世界に囚われた「俺」と、現実世界にいた「残像」と。
今ここにいる俺は、一体、何なんだ?
その時、背後で、かすかな音がした。
ギィ……。
振り返ると、部屋のクローゼットの扉が、ゆっくりと開いていくところだった。あの映像と全く同じように。隙間から覗くのは、全てを吸い込むような、底なしの闇。
そして、その闇の奥から、何かがこちらへ這い出てこようとしていた。
撮影禁止事項
文字サイズ: