残響物件

残響物件

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木造アパートの安普請は、都会の喧騒から逃れてきた俺にとって、むしろ心地よかった。隣室の生活音すら、人の温もりのように感じられるだろうと思っていた。引っ越してきたその日まで、202号室がもう半年も空き家だと管理人から聞かされるまでは。

俺の住む201号室と202号室を隔てるのは、一枚の薄っぺらい壁だけだ。だというのに、夜になると決まって、その壁の向こうから何かが聞こえる。最初はネズミかと思った。だが、カサカサという音ではない。コツ、とか、キイ、とか、まるで家具を動かすような、微かで不規則な音だった。

ある晩、あまりに音が続くので、俺は苛立ち紛れに壁をコンコン、と二回叩いた。いわゆる、うるさいですよ、という隣人へのサインだ。空き室だと頭では分かっているのに、ついやってしまった。
すると、音がピタリと止んだ。
静寂が戻り、ほっと息をついた瞬間。
――オギャア、オギャアアア。
壁の向こうから、赤ん坊の甲高い泣き声が響いた。心臓が跳ね上がった。空き室のはずだ。誰かが不法侵入でもしているのか?
恐る恐る、もう一度だけ、今度は少し優しく壁を叩いてみる。トン、トン。
すると、赤ん坊の泣き声はふっと消え、代わりに男女の楽しげな笑い声と、テレビの軽快な音楽が微かに聞こえてきた。まるで古いラジオのチューニングを合わせるように、叩くたびに聞こえる音が変わるのだ。

俺は発見してしまった。この壁は、過去にこの場所で鳴った音を記憶しているのだ。まるで地層のように、時間の経過と共に音を蓄積している。そして、こちらからの振動に呼応して、その一部を再生するのだ。
その日から、俺の奇妙な趣味が始まった。毎晩、壁を叩いては、202号室の「過去」を盗み聞きするのだ。
ある時は、若いカップルの愛の囁き。ある時は、子供の誕生日を祝う家族の団欒。またある時は、ひとりの老人が静かに聴く演歌。それはまるで、見知らぬ誰かのアルバムを一枚ずつめくっていくような、背徳的でスリリングな興奮があった。俺はワクワクしていた。この壁が次にどんな音を聞かせてくれるのか、楽しみでさえあった。

その日までは。

いつものように壁を叩くと、聞こえてきたのは怒りに満ちた男の怒鳴り声と、何かが床に叩きつけられて砕け散る音だった。そして、女の甲高い悲鳴。
まずい。そう直感した。これは聞くべきではない、と。
だが、指は意思に反して、再び壁を叩いていた。もっと知りたいという黒い好奇心が、恐怖を上回ってしまったのだ。

「やめて!」「お前のせいだ!」
壁の向こうで繰り広げられる惨劇。すすり泣きが、やがて命乞いに変わる。
そして、ごぶり、と生々しい水音の後に、鈍い音が響き始めた。
――ゴツ。ゴツ。ゴツ。
何か硬いもので、柔らかいものを執拗に殴りつけている音。骨が軋み、肉が潰れるおぞましい残響。俺は耳を塞ぎ、その場にうずくまった。どれくらい続いただろうか。音は不意に止み、代わりに、ズル、ズル、と何かを引きずる音が聞こえ、やがて完全な沈黙が訪れた。

俺は202号室で過去に起こった殺人事件を「目撃」してしまったのだ。
もう二度と壁は叩かない。俺は固く誓い、ベッドに潜り込んだ。だが、恐怖で体は震え、一睡もできなかった。

夜が更け、静まり返った部屋。
その時だった。
俺は叩いていない。それなのに、壁の向こうから、あの音が聞こえ始めた。
――ゴツ。ゴツ。ゴツ。
あの鈍い音が、延々と繰り返される。俺が聞いた、最後の音。
やがて音が止むと、今度は壁の、すぐ向こう側から。
コン、コン。
ノックの音がした。俺の部屋を、壁の内側から。
息を殺していると、壁紙のシミが、まるで墨汁を垂らしたようにじわりと人の形に広がっていく。そして、その人影の中心から、ひび割れたような囁き声が聞こえた。

「新しい音を、ありがとう」
「今度は、君の音を、ここに残して」

シミの中から、ぬるり、と黒く濡れた手が伸びてきた。それは迷うことなく俺の足首を掴んだ。骨が砕けるかと思うほどの力だった。
「やめろ!」
俺が上げた悲鳴は、壁に吸い込まれるようにくぐもっていく。体が畳の上を引きずられ、あの忌まわしい壁の中へと、ゆっくりと沈み込んでいった。

それから数ヶ月後。アパートの管理人は、新しく201号室に入居した若い男に尋ねられた。
「管理人さん、俺の部屋、たまに壁から変な音が聞こえるんですよ。誰かが壁を内側から叩いてるみたいな……助けを求めてるような、苦しそうな声も聞こえるんです。隣って、空き室ですよね?」

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