祖父の書斎は、埃と古書の匂いが支配する時間の化石のような場所だった。歴史学者として名を馳せた祖父が亡くなって三ヶ月、遺品整理に訪れた僕は、書棚の奥に隠された小さな桐箱を見つけた。中に入っていたのは、黒曜石のように鈍く輝く金属でできた、掌サイズの羅針盤。そして、丸められた一枚の羊皮紙だった。
羅針盤は奇妙な代物だった。方位を示すはずの針は、だらりと垂れ下がったまま微動だにしない。ガラス盤の下には、見慣れない星座のような紋様がびっしりと刻まれている。羊皮紙の方は、かろうじてラテン語で書かれていると判別できるものの、大部分が染みで汚れ、虫に食われていた。
「時間の流れには、時折『澱み』が生じる。歴史とは、その澱みを濾過して作られた上澄みに過ぎん」
生前の祖父の言葉が、脳裏に蘇る。変わり者、異端者。学会での祖父の評価はそんなものだった。だが、僕は知っている。祖父が誰よりも純粋に、歴史という名の巨大な物語の真実を愛していたことを。
大学の研究室に持ち帰った羊皮紙を、特殊なライトで照らしながら解読を進めるうち、僕は戦慄した。これは単なる記録ではない。ローマ帝国末期、五賢帝時代の終わり頃に書かれた、ある元老院議員の手記。そこには、公式の歴史から完全に抹消された「第七の丘」と呼ばれる場所と、「天より来たりし者」との交流が克明に記されていたのだ。
『彼が持つ真鍮の円盤は、未来を映し、過去を覗いた。我々はそれを“クロノス(時)の目”と呼んだ。だが、皇帝はそれを兵器として欲した。世界の理を歪める道具として…』
そこまで読み解いた時だった。机の隅に置いていた羅針盤が、カチリ、と微かな音を立てた。見ると、死んでいたはずの針がゆっくりと持ち上がり、羊皮紙を指している。まるで、古の記述に共鳴するかのように。
好奇心に駆られ、羅針盤を羊皮紙の上にそっと置いた。その瞬間、羅針盤の中心から淡い光が溢れ、羊皮紙の染みがみるみるうちに薄れていく。そして、そこには今まで見えなかった新たな文字列が、燐光のように浮かび上がったのだ。それはラテン語ではない。幾何学模様と数式が組み合わさった、明らかにこの世界の知識体系から逸脱した、未知の言語だった。
「見つけたぞ、相馬教授の孫」
突然、背後からかけられた声に、心臓が跳ね上がった。振り返ると、黒いスーツに身を包んだ二人の男が、いつの間にか研究室の入口に立っていた。感情の読めない、冷たい目が僕と机の上の羅針盤を射抜いている。
「その『クロノスの羅針盤』は、我々が管理すべきものだ。歴史の『澱み』は、不用意に掻き回してはならない」
直感が警鐘を鳴らす。こいつらは、ただの訪問者じゃない。祖父が恐れ、そして隠そうとしていた何かだ。
僕は咄嗟に、羅針盤と羊皮紙を掴んで駆け出した。窓ガラスを突き破り、夜のキャンパスへ転がり出る。背後から追っ手の怒声が響く。なぜ彼らがこれを? 祖父は何を突き止めた? あの未知の言語は何を意味する?
走りながら、脳裏に浮かび上がった幾何学模様が明滅する。あれは単なる記録ではない。設計図だ。時空を観測し、あるいは干渉すら可能な、恐るべき装置の。
ローマの元老院議員は、歴史を守るためにその技術を封印し、暗号化して後世に託した。祖父は、その封印を解く鍵を見つけてしまった。そして今、その鍵は僕の手の中にある。
夜の闇を切り裂いて走りながら、僕は笑っていた。恐怖ではない。武者震いだ。歴史は、教科書の中にだけあるのではなかった。それは今も生きていて、秘密を抱え、僕に語りかけてくる。
「面白いじゃないか」
祖父が追い求めた真実。謎の組織の正体。そして、古代ローマに飛来したという「天より来たりし者」の謎。僕の退屈だった日常は、この一夜を境に、壮大な歴史ミステリーの幕開けを告げた。この羅針盤が指し示す先が、世界の果てであろうと、時間の果てであろうと、必ず辿り着いてみせる。僕の冒険は、まだ始まったばかりなのだ。
クロノスの羅針盤
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