クロノ・スクリプトの断章

クロノ・スクリプトの断章

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柏木奏(かしわぎ そう)の指先は、歴史そのものに触れることができた。

神保町の古書店街の片隅に構えた彼の工房「時紡堂(じぼうどう)」には、虫に食われ、あるいは水に濡れてページの癒着した古書たちが、最後の望みを託して運び込まれる。奏は、単に紙を繕い、糸で綴じ直すだけではなかった。革の装丁にそっと触れれば、かつての持ち主がページをめくった際の微かな興奮が。インクの染みに指を重ねれば、書き手が抱いた焦燥や希望が、まるで幻灯のように脳裏をよぎるのだ。本人はそれを「素材との対話」と呼んでいたが、その力は時折、彼の理解を超えた光景を見せることがあった。

その日、工房の呼び鈴を鳴らしたのは、仕立ての良いグレーのスーツに身を包んだ、初老の紳士だった。彼が革張りのアタッシュケースから取り出したのは、黒く焼け焦げ、かろうじて手のひら大の形を保った羊皮紙の断片だった。
「これを、お願いしたい」
紳士は言った。提示された報酬額は、奏の工房の半年分の売り上げに匹敵した。
「……これは、かなりの年代物ですね。ヘブライ語か、アラム語のようですが。おそらくは死海文書の一部か、それに類するものでしょう。ですが、ここまで損傷が激しいと完全な修復は」
「読めるようにしてくださればいい。書かれている内容が判明すれば、それで結構」
紳士の凪いだ瞳の奥に、ただの好事家ではない、何か鋭い光が宿っているのを奏は感じた。断れない。いや、断りたくない。この焼け焦げた断片が、猛烈な好奇心と共に奏を呼んでいた。

作業は深夜に及んだ。特殊な薬品で慎重に脆弱な表面を強化し、高精細のスキャナーで繊維の一本一本までデータ化していく。そして、奏がおもむろに断片そのものに指を触れた、その瞬間だった。

世界が、反転した。

工房の黴と古紙の匂いが消え、乾いた空気とパピルスの香りに満たされる。目の前には、白亜の円柱が並ぶ壮麗な建造物。古代ローマの、それも最大級の図書館だ。アレクサンドリアか、あるいはトラヤヌスのフォルムか。
そして、奏はそこに「いるはずのない男」を見た。
男はローマ風のチュニカを着てはいるが、その手には、白く滑らかに発光する薄い板――タブレット端末としか思えない物体が握られていた。男は周囲の誰にも気づかれることなく、指先でその板を操り、宙に浮かぶ半透明の文字列を睨んでいる。
『観測点シータ、安定。歴史流動率、許容範囲内』
男の声が、直接脳に響く。
『――待て。新たな分岐因子を検知。座標、西暦79年、ポンペイ。プリニウスの動向に修正が必要。調律チームを派遣せよ』
調律? まるで楽器を合わせるかのように、歴史を「修正」するとでもいうのか。
その時、男がふと顔を上げた。その視線が、時空を超え、二千年後の工房にいる奏を正確に捉えた気がした。
『――侵入者? この時間軸に、観測者以外の“眼”が?』
男の目が驚愕に見開かれた瞬間、奏の意識は激しい衝撃と共に現代へと引き戻された。

「はっ……!」
息を切らし、心臓を鷲掴みにされたような衝撃に喘ぐ。今のヴィジョンは何だ。ただの幻想ではない。あまりにも鮮明で、情報量が多すぎた。
奏は再び羊皮紙に目を落とす。そして、気づいた。焼け焦げたインクの文字の間に、髪の毛よりも細い、金属とも樹脂ともつかない極細の繊維が織り込まれていることに。古代の技術では到底ありえない、マイクロサーキットのような紋様を描いて。
これは、ただの羊皮紙ではない。あの男が持っていた発光する板と同じ、未来の記録媒体なのだ。

その時だった。工房の扉が、凄まじい音を立てて破壊された。飛び込んできたのは、黒い戦闘服に身を包んだ二人組の男たち。その手には、奏が見たこともない形状の、青白い光を放つ銃が握られていた。
「“断章”を渡せ」
冷徹な声が響く。ヴィジョンで見た男の仲間か。彼らは歴史の観測者などではない。介入し、改竄する者たち――「調律者」だ。
奏の脳裏を、無数の本の記憶が駆け巡る。戦術書、建築学、物理学の論文。蓄積された知識が、瞬時に最適解を弾き出す。
奏は背後の薬品棚を蹴り倒した。可燃性の溶剤の瓶が割れ、床にぶちまけられる。侵入者たちが一瞬怯んだ隙に、作業台の上の高出力紫外線ランプのスイッチを入れた。
「うわっ!」
強烈な光に目を焼かれた男たちが呻く。その隙に、奏は羊皮紙の断片を掴み、裏口から夜の神保町へと飛び出した。

待ち合わせ場所に指定された喫茶店で、奏は息を整えながらあの老紳士を待っていた。やがて現れた紳士は、奏の憔悴しきった顔と、大事に抱えられた羊皮紙を見て、静かに頷いた。
「……やはり、君は“視た”か」
奏は、工房での出来事と、ローマで見た信じがたい光景を語った。紳士は黙って耳を傾け、やがて重々しく口を開いた。
「我々は、彼らを『クロノ・ガーディアン』と呼んでいる。未来から訪れ、自らを『歴史の調律者』と名乗る者たちだ。彼らは、自分たちの理想とする未来へ繋がるように、過去の歴史を密かに、しかし大胆に“調律”し続けている」
「なんのために……」
「それは我々にも分からん。だが、彼らの介入によって消滅した歴史、生まれなかった偉人、起こらなかったはずの悲劇が、無数に存在する。この羊皮紙は、彼らの介入計画が記された『クロノ・スクリプト』の、たった一つの断章なのだ」
紳士は奏をまっすぐに見つめた。
「君のその力は、単なる共感じゃない。歴史の“正規の響き”と“調律による不協和音”を聞き分けることができる、稀有な才能だ。我々は、歴史をあるべき姿に戻すために戦っている。柏木君、君の力が、我々には必要なんだ」

奏は、手の中にある焼け焦げた羊皮紙の断片を握りしめた。それはもはや、ただの古文書ではなかった。未来からの挑戦状であり、歴史の悲鳴が封じ込められたタイムカプセルだ。
指先に伝わる、無数の人々の声なき声。守るべきだったもの、失われたものたちの囁き。
奏の目の奥に、工房の主ではない、新たな光が灯った。
「ええ。聞かせてもらいましょう。僕に、何ができるのかを」

歴史の真実を巡る、時空を超えた戦いの幕が、今、静かに上がった。

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