百年の手紙が染めた空

百年の手紙が染めた空

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***第一章 埃まみれの約束***

相田樹(あいだ いつき)は、埃の匂いが苦手だった。過去の時間を凝縮して固めたような、鼻腔の奥をざらつかせるその匂いは、彼にとって非合理的で生産性のないものの象徴だった。そして今、彼はその匂いの発生源である、亡くなった祖父の家の蔵の中にいた。

「樹、こっちの葛籠(つづら)はもう空っぽかい」
母方の叔母の声が、開け放たれた蔵の戸口から響く。樹は「ああ、空だよ」と気のない返事をしながら、天井の梁から下がる蜘蛛の巣を忌々しげに払った。
ウェブデザイナーとして、秒単位で更新されるデジタルの世界に生きる樹にとって、この遺品整理という作業は苦痛でしかなかった。古い家具、黄ばんだ着物、用途の分からない農具。すべてが、過ぎ去って二度と戻らない時間の残骸に思えた。祖父は物持ちが良かったが、それは裏を返せば、捨てられないだけの古い感性の持ち主だったということだ。

「もう業者に頼んで、まとめて処分すればいいのに」
独り言ちて、積み上げられた木箱の一つに手をかけた。その時だった。一番上に乗っていた桐の小箱が、バランスを崩して床に落ちた。乾いた音とともに蓋が外れ、中から古びた手紙の束が散らばる。
「ちっ……面倒な」
舌打ちしながら手紙を拾い集める。そのほとんどは、茶色く変色し、達筆すぎて読めないものばかりだった。だが、一通だけ、明らかに毛色の違う封筒が目に留まった。洋封筒で、切手には『大正』の文字が見える。そして、樹の全身を奇妙な痺れが貫いたのは、その宛名を見た時だった。

『相田 樹 様』

震える指で、自分の名前をなぞる。間違いなく、自分の名前だ。しかし、消印は大正十二年。百年も前に書かれた手紙の宛名が、なぜ、今を生きる自分になっているのか。背筋に冷たい汗が伝う。差出人の名を見て、さらに混乱は深まった。
『相田 宗助』
それは、写真でしか見たことのない、曾祖父の名前だった。
あり得ない。これは何かの悪戯か? 祖父が、孫である自分をからかうために仕込んだものだろうか。だが、あの厳格だった祖父が、こんな手の込んだ悪戯をするとは思えない。
樹は、心臓が大きく脈打つのを感じながら、封を切った。中から現れた便箋は、脆く、指先で崩れてしまいそうだった。インクの文字は掠れていたが、そこには、百年の時を超えた、信じがたい「約束」が記されていた。

***第二章 桜の下のタイムカプセル***

『未来の我が血族、相田樹へ。
この手紙がお前の目に触れる頃、私はとうにこの世にはおるまい。百年という時が、我らを隔てているだろう。突拍子もない話だと思われるやもしれんが、どうか、この老人の戯言に、しばし耳を傾けてはくれまいか』

曾祖父・宗助による手紙は、古風だが、不思議なほど実直な響きを持っていた。樹は蔵の埃っぽさも忘れ、その一文字一文字を貪るように追った。
手紙によると、宗助は樹が生まれることを予見していたわけではないらしい。彼は、自分の血を継ぐ、遠い未来の子孫、その誰かにこの手紙を託したかったのだ。そして、自分の名から一字を取り、仮に「樹」と名付けたのだという。未来へ向かって、太く、大きく、枝を伸ばしてほしいという願いを込めて。

『頼みがある。この家の裏山に、一本だけ古い山桜の木があるはずだ。その根元を掘ってほしい。そこに、私が埋めた小さな「箱」がある。お前に、それを受け取ってほしいのだ』

手紙はそこで終わっていた。理由も、箱の中身も、何も書かれていない。
樹は混乱していた。合理主義者の彼にとって、これはあまりにも非科学的で、物語じみた話だった。だが、自分の名が記された百年も前の手紙の存在が、彼の心の扉を無理やりこじ開けようとしていた。
「……馬鹿げてる」
呟きながらも、彼の足はいつの間にか蔵を出て、裏山へと向かっていた。初夏の強い日差しが、木々の葉を透かして、きらきらと地面にまだらな模様を描いている。汗が滲む額を腕で拭い、心臓の鼓動に急かされるように、記憶の片隅にあった桜の木を探した。

果たして、山の中腹にその木はあった。幹は苔むし、うねるように天へと伸びる枝は、幾度もの春をその身に刻んできた証人のように威厳があった。
樹は家の物置からシャベルを持ち出し、言われた通りに根元を掘り始めた。硬い土、絡みつく根。汗が滝のように流れ、何度も腕が痺れた。なぜこんなことをしているんだ、と自問する。だが、やめられなかった。カツン、とシャベルの先に硬いものが当たる。
手で土を掻き出すと、そこには錆びついたブリキの缶が鎮座していた。思ったよりもずっと小さい。樹はそれを両手で抱え上げ、膝の上の泥を払うのも忘れて蓋を開けた。
中には、さらに古い、油紙に包まれた手紙の束と、小さな包みが入っていた。包みを開くと、現れたのは三つのものだった。くすんだ藍色の布切れ。いくつかの小さなガラス玉。そして、一枚の、色褪せた風景のスケッチ。ガラクタ、と言ってしまえばそれまでだ。樹は失望とも安堵ともつかない溜息をつき、油紙の手紙に手を伸ばした。

***第三章 空色(そらいろ)の真実***

二通目の手紙は、一通目よりもさらに古びていた。それは、宗助が若き日に記した、いわば日記のようなものだった。

『友よ。君と出会って、早や半年が経つ。君が愛したこの国の空は、今日も雲一つなく、どこまでも青い』

樹は息を呑んだ。手紙は、宗助ではない誰かに宛てて書かれている。読み進めるうちに、樹の知らない曾祖父の人生が、鮮やかな色彩を伴って目の前に広がり始めた。
宗助は、若い頃、化学染料の研究に没頭していたという。当時、日本の伝統的な藍染めに代わる、より鮮やかで安価な化学染料が西洋から流入し始めていた時代だった。彼は、西洋の技術に負けない、日本独自の美しい色を生み出すことに情熱を燃やしていた。
ある嵐の夜、宗助は、裏山で倒れていた異国の青年を助ける。青年の名は、レオン。迫害を逃れ、故郷を追われた画家だった。言葉も通じない。だが、レオンが持っていたスケッチブックに描かれた絵は、雄弁に彼の心を物語っていた。宗助は役人の目を盗み、彼を蔵の二階に匿うことにした。

二人の間には、奇妙な友情が芽生えた。宗助はレオンに日本語を教え、レオンは宗助に西洋の絵画技法を教えた。レオンは特に、日本の空の青さに心を奪われていた。「故郷の空とは違う。悲しみを洗い流してくれるような、どこまでも澄んだ青だ」と、彼は片言の日本語で語ったという。彼はその空の色を、キャンバスに写し取りたいと願ったが、彼の持つ絵の具では、その繊細な色合いを表現できなかった。

『彼の願いを叶えたい。一心で、私は研究に没頭した。藍でもなく、舶来の青でもない。この国の空の色、彼が愛した青を、この手で生み出したい』

そして数ヶ月後、宗助はついに新しい染料を完成させる。彼はそれを、誇りを込めて「空色(そらいろ)」と名付けた。ブリキの缶に入っていた藍色の布切れは、その「空色」で染められた、最初の試作品だったのだ。
しかし、幸せな時間は長くは続かなかった。レオンの存在を嗅ぎつけた役人が、村に現れるようになったのだ。宗助は、友人を逃がすことを決意する。

『別れの夜、彼は私に、故郷から持ってきたというガラス玉と、彼の絵の具を作るための顔料を託した。「友情の証だ」と。私は、染め上げたばかりの空色の布を彼に渡した。言葉は要らなかった。我々の魂は、確かに繋がっていたのだから』

手紙の最後は、こう結ばれていた。

『この箱は、技術の記録ではない。ましてや、価値のある品でもない。これは、名もなき異国の友と、私が確かにこの時代を生きたという、ささやかな証だ。国も、言葉も、立場も違う。だが、人が人を想う心に、境はない。いつか、そのような当たり前のことを、誰もが理解できる時代が来たなら、未来を生きるお前が、この物語を思い出してくれれば、それでいい』

樹は、手の中の布切れを握りしめた。それはもはや、ただの古い布ではなかった。百年前の友情と、情熱と、そして悲しい別れの記憶が、繊維の一本一本に染み込んでいるように感じられた。ガラス玉は、友が託した魂の欠片。スケッチは、彼が見たかった風景。
非合理的だと切り捨ててきた歴史の中に、こんなにも熱く、人間臭い物語が眠っていた。樹は、自分の頬を涙が伝っていることに、初めて気がついた。

***第四章 百年の空***

蔵に戻った樹は、もう埃の匂いを不快だとは思わなかった。むしろ、それは無数の人々の息遣いや、語られることのなかった物語の香りなのだと感じられた。彼は、散らばっていた古い手紙を丁寧に拾い集め、桐の小箱にそっと戻した。

それからの数週間、樹は変わった。彼は遺品整理を、単なる「処分」ではなく、「対話」として捉えるようになった。古い農具には、祖父や曾祖父の汗が。黄ばんだ着物には、それを着て笑ったであろう曾祖母の体温が。一つ一つの品が、彼に何かを語りかけてくるようだった。

彼は、ウェブデザイナーとしての自分のスキルを、全く新しい目的のために使おうと決めた。
曾祖父・宗助と、異国の画家レオンの物語。歴史の教科書には一行も載らない、名もなき二人の友情の物語を、世界中の誰かに伝えるためのウェブサイトを立ち上げることにしたのだ。
サイトのデザインは、シンプルで、けれど温かいものにした。背景には、レオンが描いたスケッチをデジタルで彩色し、再現した日本の風景を。そして、中心には、宗助が生み出した「空色」を据えた。

歴史とは、年号や事件の羅列ではない。それは、人から人へと受け継がれる、感情のバトンリレーなのだ。宗助が埋めたタイムカプセルは、百年という時を超えて、確かに樹の心に届いた。そして今、樹は次の走者として、そのバトンを未来へと繋ごうとしていた。

サイトが完成した日、樹は再び裏山の桜の木の下に立った。見上げると、あの日と同じ、どこまでも澄み渡った青空が広がっている。
それは、彼が今まで見てきた空とは、まるで違って見えた。
ただの青ではない。百年前、宗助が友のために生み出し、レオンが愛した、あの特別な「空色」だった。その色は、樹の心の奥深くにまで、鮮やかに染み渡っていくようだった。

歴史は、遠い過去の出来事ではない。それは自分自身の血となり肉となり、今、この瞬間にも自分の中で生き続けている。
樹は、深呼吸をした。吸い込んだ空気には、初夏の草いきれと、そして確かに、百年の時を超えた友情の香りがした。彼はもう、過去から目を逸らさない。自分の足元に広がる豊かな歴史の上に立ち、未来へ向かって、しっかりと枝を伸ばしていくのだ。
百年の空の下で、樹は静かに微笑んだ。彼の物語は、まだ始まったばかりだった。

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