残響のソナタ

残響のソナタ

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***第一章 静寂の館***

その古い洋館を私が選んだのは、ひとえに、そこが「音のない家」だと聞いたからだった。
二年前に起きた事故で、私はほとんどの音を世界から奪われた。高名な指揮者だった父譲りの絶対音感は皮肉な伝説となり、かつて私の指が命を吹き込んだピアノは、今や部屋の隅で巨大な黒い沈黙を保っている。高性能の補聴器がかろうじて外界との繋がりを保ってはいるが、それは歪んで色褪せた音の模倣品に過ぎない。人々が交わす声は水底から聞こえるくぐもった響きとなり、音楽はかつての輝きを失ったガラス片の羅列になった。

だから、この家は私にとって最後の楽園になるはずだった。不動産屋が困惑顔で語った。「深町さん、あそこは妙なんです。どんなに大きな音を立てても、壁に吸い込まれるように消えてしまう。近所迷惑にはなりませんが、住むには…少し、不気味すぎると言いますか」
不気味。その言葉こそが、私には福音に聞こえた。耳鳴りのようにこびりつく補聴器のノイズから解放される静寂。私が求めていたのは、完全なる無音の世界だった。

海を見下ろす崖の上に立つその洋館は、蔦に覆われ、まるで長い眠りについているかのようだった。中に入ると、噂は本当だったとすぐにわかった。重厚な扉が閉まる音さえ、まるで分厚い雪に吸い込まれるように、ごくかすかな振動を残すだけ。私が床を強く踏み鳴らしても、手を打ち鳴らしても、反響という現象がこの家には存在しないかのようだった。
私はゆっくりと補聴器を外した。訪れた完璧な静寂に、涙が出そうになるほどの安堵を覚えた。ここは私のための場所だ。この静けさの中でなら、私は過去の亡霊に苛まれることなく、穏やかに生きていける。

最初の数日は、夢のような時間だった。私は世界の喧騒から切り離された繭の中で、ただ静かに本を読み、窓から灰色に煙る海を眺めて過ごした。だが、五日目の夜、その繭は内側から静かに破られた。

真夜中、ベッドの中で微睡んでいた私の意識を、何かが揺り起こした。音だ。
ありえない。補聴器はナイトテーブルの上に置いたままだ。私の耳には、もう何も届かないはずなのに。
それは幻聴ではなかった。確かに聞こえる。遠く、しかし明瞭に。
ショパンの夜想曲。それも、私が幼い頃、父に手ほどきを受けた最初の曲。
指が鍵盤に触れる微かなタッチ、ペダルが踏まれる重み、そして旋律を奏でる者の、ため息のような息遣いまでが、私の頭の中に直接響き渡ってくる。それは補聴器を通した歪んだ音ではない。かつて私が聴いていた、生々しく、魂のこもったピアノの音そのものだった。
恐怖が背筋を駆け上った。この家は、音を消し去るのではなかったのか。では、この音は一体どこからやってくるというのだ。私は身を起こし、暗闇に閉ざされた家の中を、震える耳で、いや、震える魂で聴き澄ました。ピアノの音は、まるで私を誘うかのように、階下の方から静かに流れ続けていた。

***第二章 誘う旋律***

その日を境に、私の静寂な日々は終わりを告げた。ピアノの音は、毎晩決まって真夜中に聞こえてくる。それはいつも違う曲だった。リストの超絶技巧練習曲が激しく響く夜もあれば、ドビュッシーの月の光が切なく零れる夜もあった。どれもが完璧な演奏で、しかし、その音色には言いようのない深い孤独と渇望の色が滲んでいた。

私は眠れない夜を過ごしながら、音の源を探った。音は明らかに、この家の中から聞こえてくる。特に、一階の廊下の突き当たり、固く閉ざされた地下室の扉の向こうから響いてくるようだった。しかし、その扉には古びた南京錠が掛かっており、開けることは叶わなかった。
昼間、私は町の小さな図書館へ通い、この洋館の過去を調べ始めた。古い新聞のマイクロフィルムをめくる指が、ある記事の上で止まった。
五十年前、この館で火災があったという。住んでいたのは、才能ある盲目のピアニストだった天沢乙葉(おとは)という少女と、その家族。火事で両親は亡くなり、少女は奇跡的に助け出されたものの、その後の消息は不明と書かれていた。記事の隅には、煙に巻かれた洋館を背景に、呆然と立つ幼い少女の写真が載っていた。その虚ろな瞳が、私の心を強く掴んだ。

消息不明。その言葉が、私の胸に冷たい染みのように広がった。
もしや、彼女はずっとこの家に…?
恐怖よりも先に、奇妙な共感が芽生え始めていた。盲目のピアニスト。光を失った代わりに、音の世界に全てを捧げた少女。そして私は、音を失った元ピアニスト。私たちは、まるで鏡の表と裏のような存在ではないか。
夜ごと響くピアノの旋律は、もはや恐怖の対象ではなかった。それは乙葉という少女の魂の叫びのように聞こえた。彼女が何を求め、何を伝えようとしているのか。私はそれを知らなければならないという強い衝動に駆られた。

ある嵐の夜、ピアノの音はひときわ激しく、狂おしいほどに響き渡った。それはベートーヴェンの月光ソナタ第三楽章。絶望と激情が入り混じった嵐のような旋律が、私の心を激しく揺さぶる。
もう、待ってはいられない。
私は工具箱から錆びついた金槌を手に取り、地下室の扉へと向かった。南京錠に狙いを定め、渾身の力で何度も何度も叩きつける。家が音を吸い込むせいで、金属がぶつかる甲高い音はしない。ただ、鈍い衝撃だけが腕に伝わる。
やがて、錠前は悲鳴のような音を立てて壊れた。軋む扉を押し開けると、黴と埃の匂いが冷たい空気と共に吹き上がってくる。そして、ピアノの音は、今や目の前から、すぐそこで鳴っているかのように鮮明に響いていた。
私は息を飲み、地下へと続く石の階段を、一歩、また一歩と下りていった。

***第三章 音を喰らう者***

地下室の中央に、それはあった。埃を被ったグランドピアノ。そして、その前に座る、半透明の少女の姿が。
白いワンピースを着たその少女は、写真で見た天沢乙葉その人だった。彼女の指は鍵盤の上を滑るように舞い、その体からは淡い光が放たれている。しかし、その顔に表情はなく、開かれた瞳は何も映していないかのように虚ろだった。
彼女は私の存在に気づいているはずなのに、演奏を止めようとはしない。月光ソナタの最後の音が悲痛な和音となって響き渡り、やがて静寂に溶けていく。
すると、少女の声が、私の頭の中に直接響いてきた。それは言葉ではなく、純粋な思念の奔流だった。

『やっと、来てくれた』

その声は、長い長い孤独の果てに絞り出されたかのように、ひどくか弱く、そして切実だった。
「あなたが、天沢乙葉さん…?」
私が心の中で問いかけると、少女はかすかに頷いた。

『ここは、音のない家じゃない。音を喰らう家なの』

衝撃的な言葉だった。少女の思念と共に、圧倒的なイメージが私の脳裏に流れ込んできた。五十年前の火事の夜。炎の轟音、人々の叫び声、崩れ落ちる梁の音。その全ての音を、この家が貪欲に吸い込んでいく光景。
火事で死んだのは両親だけではなかった。乙葉もまた、この地下室で、愛するピアノと共に炎にのまれたのだ。しかし、彼女の音楽への執着と、音を奪われた無念はあまりに強く、その魂は家そのものと融合してしまった。彼女は家に囚われた霊ではない。彼女自身が、この家なのだ。

『私は、音が欲しい。どんな音でもいい。足音、雨音、風の音…。でも、一番欲しいのは、音楽。美しい音楽よ。音楽だけが、私の飢えを癒してくれる』

だから、この家は音を喰らうのか。彼女の果てしない飢餓を満たすために。そして、私のことも。
『あなたの音が聞こえた。ピアノに触れたいと願う、あなたの心の音。あなたなら、私を満たしてくれると思った。だから、あなたをここに呼んだの』
ぞっとした。私の抱える喪失感や音楽への未練が、この怪異を引き寄せる餌になっていたというのか。
静寂を求めて来たはずの場所が、実は最も音を渇望する場所だった。なんという残酷な皮肉だろう。

『お願いがあるの』と、少女は続けた。その虚ろな瞳が、初めて私を真っ直ぐに捉えた気がした。
『あなたの耳を、治してあげる。昔みたいに、どんな些細な音も聞こえるように。小鳥のさえずりも、風の葉擦れも、オーケストラの繊細な響きも、全て。その代わり…』
少女は鍵盤にそっと指を置いた。
『その耳で、その指で、永遠に私(この家)のために、ピアノを弾き続けてほしい』

それは、悪魔の囁きだった。しかし、同時に、抗いがたいほど甘美な誘惑でもあった。
失われた聴力を取り戻せる。もう一度、あの豊かな音の世界へ帰れる。その代償は、自由。この音を喰らう館に囚われ、永遠の演奏者となること。
静寂の中で死んだように生きていくか。それとも、音の中で囚人として生きるか。
私の価値観が、足元からガラガラと崩れ落ちていくのを感じた。

***第四章 魂のソナタ***

私はしばらく、その場で動けなかった。乙葉の提案は、私の心の最も柔らかな部分を、的確に抉り取っていた。聴力を取り戻せるという希望は、麻薬のように私の思考を痺れさせる。だが、その代償を思うと、魂が凍りつくようだった。
ふと、私は乙葉の半透明の姿を改めて見つめた。彼女はただの怪物ではない。音を愛し、音に焦がれ、その果てに孤独という牢獄に囚われた、一人のピアニストだ。その姿は、音を失った私自身と痛々しいほどに重なった。

「あなたの気持ち、わかるよ」
私は、声に出して、ゆっくりと語りかけた。補聴器のない私の声は、自分でもほとんど聞こえない。だが、彼女には届いているはずだ。
「私も、音楽が全てだった。音が聞こえなくなった時、世界が終わったと思った。あなたの孤独と渇きが、痛いほどわかる」
乙葉の虚ろな瞳が、わずかに揺らめいた。
「だから…あなたの提案は受けられない」
私はきっぱりと告げた。
「聴力は欲しい。喉から手が出るほどに。でも、誰かを犠牲にして手に入れた音に、魂は宿らない。そんな音楽を、あなたに聴かせることはできない。あなたも、私も、そんなものは望んでいないはずだから」

私は彼女に背を向け、埃を被ったピアノへと歩み寄った。そして、静かに椅子に腰掛け、鍵盤の蓋を開ける。冷たく、重い感触が指先に伝わる。
「あなたを、音を喰らうだけの存在にはさせない」
私は補聴器を外し、完全に自分の内なる静寂へと潜った。もはや、外の音は一切聞こえない。頼りになるのは、この指が覚えている鍵盤の位置と、頭の中に鳴り響く記憶の中の音楽だけ。
私は瞳を閉じ、深く息を吸った。そして、弾き始めた。
ベートーヴェンのピアノソナタ第8番『悲愴』。第二楽章。
それは、父が亡くなった時、私が慰めを求めて何度も弾いた曲。深い悲しみの底にある、静かな希望と慈愛に満ちた旋律。

一音、また一音と、指が記憶を頼りに鍵盤を叩く。実際の音がどう響いているのか、私にはわからない。ミスタッチもあるだろう。テンポも乱れているかもしれない。だが、構わなかった。これは誰かに聴かせるための演奏ではない。私の魂と、そして目の前にいるもう一つの孤独な魂に捧げるための、祈りのような音楽だった。

旋律がアダージョ・カンタービレの最も美しい部分に差し掛かった時、奇跡が起きた。
私の頭の中に、音が流れ込んできたのだ。それは私が弾いているピアノの音。完璧で、深く、豊潤な響き。そして、その音に重なるように、もう一つのピアノの音が聞こえる。乙葉だ。彼女が、私の拙い演奏に、寄り添うように旋律を重ねてくれている。
二つのピアノが、時を超え、生と死の境を超えて、一つのハーモニーを奏でていた。
目を開けると、乙葉の瞳から、光の粒のような涙がいくつも零れ落ちていた。彼女の体は、今まで以上に強く輝き始めている。家全体が、ゴウゴウと地鳴りのような音を立てて震え始めた。壁が、床が、天井が、五十年間溜め込んできた無数の音を、一斉に解放し始めたのだ。人々の笑い声、嵐の音、遠い汽笛、そして名もなき人々の囁き。あらゆる時代の音が渦となり、私と乙葉の周りを駆け巡る。
彼女は音を「喰らう」のではなく、私の音楽に「満たされて」いた。飢えが癒え、魂が解放されようとしていた。

やがて、私の指が最後の和音を奏で終えると同時に、音の嵐はぴたりと止んだ。乙葉の姿は、穏やかな微笑みを浮かべたまま、光の粒子となってゆっくりと宙に溶けていき、最後には完全に消え去った。
後に残されたのは、しんと静まり返った、ただの古い地下室だけだった。

数日後、私はあの洋館を後にした。私の聴力は、戻らないまま。世界は相変わらず、分厚い静寂のベールに包まれている。
けれど、私の心は不思議なほど、穏やかで満たされていた。あの館で体験したことは、恐怖であり、同時に救いでもあった。私は乙葉という少女の魂に触れることで、失われた音への執着から解放されたのだ。静寂はもはや、私にとって欠落や孤独の象徴ではない。豊かな音楽を内包した、穏やかで満ち足りた静けさへと変わっていた。

今も時折、風が強く吹く夜には、耳を澄ます。すると、風の音の向こうにかすかなピアノの旋律が聞こえるような気がするのだ。それはきっと、自由になった乙葉が、空の上で奏でているのだろう。
音を失った私が、音の本質に触れることができた、あの夏の日の残響。それは私の胸の中で、今も静かに、そして美しく鳴り響いている。

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