星屑の栞

星屑の栞

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***第一章 存在しない本の訪問者***

神保町の古書店街から少し離れた路地裏に、俺の店「時紡ぎ堂」はある。埃とインクの匂いが染みついた空間で、忘れられた物語たちに囲まれて過ごすのが、桐谷朔という俺の日常だった。三年前に妻の美咲を失ってから、俺の時間は止まったままだ。彼女の笑顔も、声も、温もりも、この店の古書と同じように、手の届かない過去の頁に綴じられてしまった。

その日、店のドアベルが、止まった時間にひびを入れるように澄んだ音を立てた。入ってきたのは、年の頃は二十代半ばだろうか、雨上がりの紫陽花のような、儚げな雰囲気の女性だった。

「あの、本を探しているのですが」

透き通るような声だった。俺はカウンターの奥で読んでいた文庫本から顔を上げ、無愛想に「ジャンルは」とだけ尋ねた。

「童話、です。『星屑の栞』という……」

聞いたことのないタイトルだった。俺の店の在庫は、ほぼ頭に入っている。

「作者は?」
「桐谷、美咲さん。……です」

女性が躊躇いがちに告げた名前に、俺は息を呑んだ。心臓を冷たい手で掴まれたような衝撃。桐谷美咲は、俺の亡き妻の名前だ。

「……そんな本は存在しない」俺は、自分でも驚くほど冷たい声で言い放った。「妻は、童話など書かない」

美咲はエッセイストだった。日常のささやかな機微を掬い取る、優しい文章を書く人だった。だが、童話なんて。そんなものは、一編たりとも読んだことがないし、書いている素振りもなかった。

「でも、確かに存在するんです」女性は食い下がった。「私は、読んだことがあるんです。小さい頃に」

彼女の瞳は、嘘をついているようには見えなかった。むしろ、失くした宝物を探す子供のように、切実な光を宿している。

「何かの間違いでしょう。同姓同名の別人じゃないか」
「いいえ。奥様です。桐谷美咲さんが書いた物語です」

断言する彼女に、俺は苛立ちを覚えた。妻の思い出は、俺だけの聖域だ。そこに土足で踏み込まれるような不快感があった。

「ないものはない。お引き取りください」

俺がそう突き放すと、女性は悲しそうに眉を寄せた。そして、深々と頭を下げると、小さな声で「失礼しました」と言い残し、店を出ていった。

ドアベルが再び鳴り、店内に静寂が戻る。しかし、俺の時間に刻まれたひびは、もう元には戻らなかった。桐谷美咲が書いた童話、『星屑の栞』。存在しないはずの物語が、俺の止まった世界を、静かに侵食し始めていた。

***第二章 記憶の回廊***

彼女――水瀬遥と名乗った――の言葉が、頭から離れなかった。数日後、俺は店の二階にある住居スペースで、美咲の遺品が詰まった段ボール箱を数年ぶりに開けていた。彼女の息遣いが残るような気がして、ずっと開けられなかった箱だ。

中には、彼女が愛用していた万年筆、書きかけのエッセイの原稿、旅先で集めたポストカード、そして分厚い日記帳が数冊。俺は日記を手に取った。彼女の死後、辛くて読めなかったものだ。インクの匂いに混じって、彼女の好きだった金木犀の香りがふわりと立ち上る。

一頁、また一頁と捲っていく。そこには、俺たちの何気ない日常が、彼女らしい優しい視点で綴られていた。しかし、どこを読んでも『星屑の栞』という言葉も、童話を書いたという記述も見当たらない。やはり、あの女性の勘違いだったのか。そう思いかけた時、あるページで手が止まった。

『今日は、東都中央病院へ。子供たちの顔を見ていると、私の方が力をもらう』

東都中央病院。そういえば、美咲は月に数回、ボランティアで小児病棟の慰問に行っていた。読み聞かせをしたり、一緒に絵を描いたりしていたはずだ。だが、その活動について、彼女はあまり詳しくは話さなかった。「私が好きでやっていることだから」と、はにかむように笑うだけだった。

もしかしたら、そこで。

翌日、俺は再び店に現れた遥に、病院のことを話した。
「妻は、東都中央病院の小児病棟に、ボランティアで行っていました。あるいはそこで、何か……」
「東都中央病院……」遥は目を見開いた。「私が、入院していた病院です」

偶然にしては、出来すぎている。俺と遥は、まるで目に見えない糸に導かれるように、その病院を訪ねることにした。

古いカルテの開示は難しかったが、当時を知るベテランの看護師長が話を聞いてくれた。彼女は「桐谷美咲さん」の名前を覚えていた。
「ええ、よく覚えていますよ。太陽みたいな方でした。子供たちも、彼女が来る日をいつも心待ちにしていました」

しかし、看護師長は首を傾げた。
「でも、桐谷さんがボランティアに来られていたのは、もう十年近く前のこと。水瀬さんが入院されていたのは、確か七年前ですよね? その頃には、桐谷さんはもう……ご自身の体調のこともあって、来られていませんでしたよ」

脳を殴られたような衝撃だった。そうだ。美咲の病気が見つかったのは、八年前。それからの一年間は、入退院を繰り返していた。ボランティアに行ける状態ではなかったはずだ。

では、遥に物語を読み聞かせたのは誰なんだ? 遥が見た「桐谷美咲」は、一体誰だったんだ? 謎は振り出しに戻り、さらに深い霧の中へと迷い込んでしまった。帰り道、沈黙する俺の隣で、遥は「ごめんなさい。私の記憶違い、だったのかもしれません」と消え入りそうな声で呟いた。だが、彼女の瞳の奥には、諦めとは違う、何か頑なな光が宿っていた。

***第三章 二つの星屑***

店に戻った俺は、諦めきれずに再び美咲の遺品を漁った。日記、手紙、メモ帳。すべてを洗い直すうちに、古いノートパソコンの存在を思い出した。パスワードは美咲の誕生日。起動すると、懐かしい壁紙が現れた。

フォルダの奥深く、彼女が「覚え書き」と名付けたファイルの中に、それはあった。

『星屑の栞 プロット案』

心臓が跳ねた。ファイルを開くと、そこには短い物語の断片が綴られていた。
――夜空からこぼれ落ちた小さな星が、道に迷った少女を導く。しかし、星は光を放つたびに小さくなり、最後には力を使い果たして消えてしまう。少女は一人、夜明けの森に取り残される――

悲しい結末の物語。だが、紛れもなく『星屑の栞』の原型だった。妻は、確かにこの物語を構想していたのだ。
しかし、遥が語っていた物語は、これとは違った。彼女は言っていた。「星は消えたりしない。空に還って、一番星になって、ずっと少女を見守り続けるんです。だから、栞なんです。いつだって、その場所を教えてくれる」

希望に満ちた、優しい結末。二つの物語は、あまりに違っていた。

混乱する俺の頭に、看護師長の言葉が蘇る。『水瀬さんが入院されていたのは、七年前』。そして、もう一つ。彼女が何気なく言った言葉があった。『水Sort of a sickly child, always in and out of the hospital herself. But she was a bright one, always telling stories to the younger kids.』

――病弱で、いつも入退院を繰り返していた。でも、明るい子で、いつも小さい子たちに物語を話して聞かせていた――

一つの、ありえない可能性が、稲妻のように俺の脳を貫いた。俺は遥の連絡先を調べ、震える手で電話をかけた。
「遥さん、君に話がある。君が探している『本』は、物理的な形では存在しないんじゃないか? 君が探しているのは……君自身の記憶じゃないのか?」

電話の向こうで、遥が息を呑む音が聞こえた。
その夜、再び時紡ぎ堂を訪れた彼女は、すべてを告白した。

彼女は、美咲がボランティアに来ていた頃、同じ病院に短期で入院していた。その時、美咲から『星屑の栞』の、まだ結末のない物語の断片を聞いたのだという。その物語は、幼い遥の心に深く刻まれた。

数年後、遥は重い病気を再発し、長期入院を余儀なくされた。希望の見えない闘病生活。同じ病室には、もっと幼い子供たちがいた。不安と恐怖に怯える子供たちを見て、遥は思い出したのだ。美咲が話してくれた、星の物語を。

「美咲さんの物語は、悲しすぎました。だから、私は……勝手に結末を変えたんです」

遥は、涙を堪えながら語った。
「星が消えちゃったら、あまりに寂しいから。空に還って、一番星になって、ずっと見守ってくれる物語にしたんです。そのお話をすると、みんな、安心して眠ってくれた。私自身も、その物語に救われていたんです」

物語を語り続けたのは、美咲ではなかった。遥自身だったのだ。
彼女が探していた『星屑の栞』という本は、彼女が紡ぎ、子供たちの心にだけ存在した、幻の物語だった。

「ごめんなさい」遥は深く頭を下げた。「私の記憶が、最近、曖昧になることがあって……この物語が、消えてしまう前に、形にしたかった。本当の作者である美咲さんのご主人に、どうしても、伝えたかったんです」

俺は、言葉を失った。妻が遺した悲しい物語の種。それを、一人の少女が拾い上げ、絶望の中で、希望の光を灯す物語へと育て上げていた。妻の死に囚われ、時を止めていた俺の知らない場所で、妻の想いは形を変え、確かに生き続けていたのだ。

***第四章 時を紡ぐ物語***

俺は、遥に一つの提案をした。
「一緒に、その本を完成させよう」

俺は、美咲が遺した悲しい原文の美しさと、遥が紡いだ希望の結末を、一つの物語として編み上げることにした。それは、喪失の痛みを知るからこそ、見守る光の温かさを描く物語。夜空からこぼれ落ちた星が、少女を導き、力を使い果たして一度は消える。しかし、少女の涙に濡れた栞に導かれ、空へ還り、一番星として永遠に輝き続ける。別れは終わりではなく、新しい繋がりのはじまりなのだと。

二人での作業は、止まっていた俺の時間を、ゆっくりと未来へ向かって動かし始めた。遥の繊細な感性と、俺が知る美咲の文体を重ね合わせる。それは、過去と現在が対話し、新しい物語を創造する、奇跡のような時間だった。

数ヶ月後、古書店「時紡ぎ堂」の片隅で、ささやかな出版記念会が開かれた。自費出版で刷った、ささやかな童話『星屑の栞』。表紙の下には、二人の名前が並んでいた。

『作 桐谷美咲 with 水瀬遥』

少し顔色の良くなった遥が、招待された子供たちに、その本を優しく読み聞かせている。彼女の声は、かつて俺が聞いた時よりも、力強く響いていた。

俺は、その光景をカウンターの奥から見守っていた。物語は、誰か一人のものではない。遺された者の手で、想いを受け継ぐ者の声で、紡がれ、生き続けていく。美咲が遺した物語の種は、遥という名の土壌で芽吹き、今、美しい花を咲かせたのだ。

窓から差し込む午後の光が、新しく生まれた本と、遥の横顔を柔らかく照らしている。俺は、美咲の死という変えられない過去を、ようやく受け入れることができた。そして、この「時紡ぎ堂」で、これからも新しい物語が生まれるのを、見守っていこうと思った。

俺の止まっていた時間は、今、確かに未来へと流れ始めた。それは、星屑のように儚く、けれど何よりも確かな希望の光に満ちていた。

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