神保町の裏路地にひっそりと佇む古書店「時ノ葉書房」の主、相馬譲(そうま ゆずる)の日常は、インクと古い紙の匂いに満たされている。彼の仕事は、本の値付けだけではない。時に、持ち込まれた古書に秘められた、声なき物語を読み解くことだった。
その日、店のドアベルを鳴らしたのは、雨の日の紫陽花のように愁いを帯びた美しい女性だった。霧島さやかと名乗った彼女は、一冊の古びた数学専門書をカウンターに置いた。
「父の遺品です。著名な数学者だった祖父が、亡くなる直前まで手元に置いていたもので……」
彼女の祖父、霧島教授は、五年前に不慮の事故でこの世を去った世界的な数学者だ。その彼が遺した『素数の深淵』と題されたその本の余白には、まるで狂人の覚え書きのように、無秩序な数字の羅列がびっしりと書き込まれていた。
「祖父は亡くなる前、『完璧な証明を見つけた』と、そう言っていたそうです。この数字は、その証明か、あるいは……祖父の死に関する何らかのメッセージではないかと、ずっと気になっていて」
さやかの瞳は、藁にもすがる思いで揺れていた。相馬は彼女の依頼を引き受け、その日から数字との静かな対話を始めた。
数列は、既存のどの暗号方式にも当てはまらなかった。だが、相馬は本の虫としての長年の経験から、答えは暗号そのものではなく、それが記された「本」にあると直感していた。彼は数列を、ページ番号、行数、そしてその行の何番目の文字かを示す座標と仮定して、文字を拾い出す作業に没頭した。
数時間に及ぶ緻密な作業の末、浮かび上がったのは、一つの文章だった。
『ミナミのソウコ カギはワレワレのナカに』
「南区にある祖父の個人倉庫ですわ」さやかは息を呑んだ。「でも、『カギはワレワレのナカに』って、どういう意味でしょう?」
「ワレワレ」とは誰か。相馬の思考は、数学の深淵へと潜っていく。霧島教授のような純粋な数学者は、時に、特定の性質を持つ数を擬人化して語ることがある。相馬は、書庫の奥から自身の蔵書を引っ張り出し、霧島教授の過去の論文やインタビュー記事を読み漁った。
そして、一つの記述に辿り着く。教授は、ある対談でこう語っていたのだ。
「220と284のように、互いの約数の和が相手の数になる……そんな『友愛数』の関係は、まるで魂で結ばれた我々数学者のようだと思いませんか?」
これだ、と相馬は確信した。暗号を構成していた数字の羅列。それ自体が、全て「友愛数」のペアで構成されていることに、彼は気づいていたのだ。例えば、220、284、1184、1210……。
「霧島さん、カギは我々人間の中にあるのではありません。この数字たち、そのものだったんです」
二人は、雨上がりの光がアスファルトを濡らす中、南区にある古びた貸倉庫へと向かった。錆びついた扉には、旧式のダイヤルロックが取り付けられている。
相馬は、暗号の冒頭にあった数字のペアを口にした。
「220と、284」
さやかが震える指でダイヤルを回す。右へ220、左へ284。カチリ、と乾いた音が響き、重い鉄の扉がゆっくりと開いた。
倉庫の中は、膨大な研究ノートの山で埋め尽くされていた。その中央に置かれた一冊のノートを、さやかが手に取る。そこには、未解決の数学の難問「リーマン予想」に対する、画期的な証明の草稿が記されていた。世界中の数学者が追い求めた、聖杯ともいえる証明だ。
しかし、最終ページに綴られていたのは、喝采ではなく、静かな絶望だった。
『この証明は、不完全だ。たった一点、どうしても埋められぬ論理の穴がある。私は、神の領域を垣間見てしまったが、それを人間の言葉で語ることは許されなかった。世界は私の『成功』を期待している。このプレッシャーから逃れるには、自ら伝説になるしかない』
そして、最後の一節が、すべての真相を物語っていた。
『さやか、許しておくれ。私の死は事故ではない。不完全な証明を葬り去り、残りの人生を真の完璧な証明に捧げるために、私自身が仕組んだ消失だ。私は、数学の神に仕える求道者として、偽りの栄光を手にすることはできない。どこか遠い空の下で、私はまだ、この数式と戦い続けている』
祖父は、死んではいなかった。数学者としてのあまりに純粋な矜持が、彼に世間からの「死」を選ばせたのだ。さやかの頬を、大粒の涙が伝った。それは悲しみの涙ではなく、祖父が生きて、今もどこかで戦い続けていることへの安堵と、その孤高の魂への深い尊敬の念からくる涙だった。
古書店に戻った相馬は、静かに『素数の深淵』を元の棚に戻した。
本は、時に持ち主の魂を吸い込み、その記憶を未来へと語り継ぐ。インクの染みも、余白の書き込みも、すべてが時を超えて届くレクイエムなのだ。
相馬は窓の外に広がる夕暮れの空を見上げた。世界のどこかで、一人の老人が、今もなおペンを握り、完璧な数式という神の言葉を追い求めている。その姿を思い描きながら、彼は静かに呟いた。
「あなたの物語は、まだ終わってはいないのですね、教授」
忘れられた数式のレクイエム
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