その研究所は、真実しか存在しない檻だった。
脳神経科学の権威、小野寺拓海が開発したシステム『ヴェリタス』。ヘッドセット型のデバイスを装着した者は、嘘をつけなくなる。正確には、嘘を口にした瞬間、脳の前頭前野に走る微弱な電気信号を検知し、耳障りなアラームを鳴らすのだ。被験者の「嘘をつこう」という意図そのものを暴くこのシステムは、究極の真実発見器として期待されていた。
俺、霧島悟はリスク管理のコンサルタントとして、この最終実証実験に招かれた。場所は、携帯の電波も届かない山奥に建てられた完全隔離型の研究所。参加者は俺の他に四人。プロジェクトのトップであるCEO・天堂剛。開発者の小野寺。大口の投資家である財前玲子。そして、天堂の秘書である若い女性、佐伯美月。
「この『ヴェリタス』が普及すれば、世界から争いはなくなります」
初日のディナーで、天堂はワイングラスを片手に高らかに宣言した。全員がヘッドセットを装着している。彼の言葉に、ヴェリタスは沈黙を守っていた。つまり、彼は本気でそう信じているらしかった。その傲慢さが、俺は昔から鼻についた。
事件が起きたのは、実験三日目の朝だった。
CEOの天堂が、自室で死んでいた。部屋は内側から鍵とドアチェーンがかけられた完全な密室。死因は、後頭部を鈍器で強打されたことによる失血死。現場に凶器は見当たらなかった。
外部との通信は遮断されている。警察は呼べない。俺たちは、この嘘のつけない空間で、殺人犯を見つけ出さなければならなくなった。
「落ち着いてください。まずは全員に一つだけ、質問をします」
俺はリビングに集まった三人の顔を見渡した。小野寺は青ざめ、財前は腕を組んで冷静を装い、佐伯は泣きじゃくっている。全員が、疑心暗鬼の目を互いに向けていた。
「単刀直入に聞きます。あなたが、天堂CEOを殺しましたか?」
俺はまず、開発者の小野寺に尋ねた。彼はか細い声で答える。
「……殺していません」
ヴェリタスは沈黙している。真実だ。
次に財前玲子。「私が殺すわけないでしょう」という彼女の言葉も、真実。
最後に秘書の佐伯美月。「私じゃ……ありません……」と涙ながらに否定する彼女の言葉も、また真実だった。
最後に、俺も自分自身に問い、そして答えた。「俺は殺していない」。もちろん、真実だ。
全員が、殺していない。
だが、天堂は明らかに殺された。密室で。この矛盾は何だ?
「システムが故障しているんじゃないのか?」財前が吐き捨てるように言った。
「そんなことは……。昨日のテストでは正常でした」小野寺が反論する。
試しに「あなたは昨日、ステーキを食べましたか?」と佐伯に聞くと、彼女が「はい」と答えた通り、ヴェリタスは沈黙した。システムは正常に機能している。
嘘がつけない状況は、皮肉にも剥き出しの悪意を白日の下に晒した。
「あなたは天堂CEOを憎んでいましたか?」
俺の質問に、小野寺は「はい」と即答した。「彼は私の研究成果を自分の手柄として発表するつもりでした」。
財前も「ええ、憎んでいたわ。彼のせいで私の資産は三割も目減りしたのよ」と認めた。
秘書の佐伯でさえ、「……時々、辞めてしまいたいと思っていました」と告白した。
全員に動機がある。だが、全員が「殺していない」と真実を語る。
考えろ。ヴェリタスが判定するのは「客観的な事実」ではない。「被験者の主観的な真実」だ。本人が心の底から「正しい」と信じていれば、それは「真実」として扱われる。
「私は殺していない」。この言葉が真実になる状況とは?
自分が殺したと認識していない……夢遊病? 多重人格? いや、もっと単純なトリックのはずだ。言葉のトリックだ。
俺は現場の状況をもう一度、頭の中で再生する。密室、鈍器の消失……そして、被害者の天堂の性格。彼は極度の潔癖症で、毎朝決まった時間に部屋の自動換気システムのスイッチを入れるのが習慣だったと、秘書の佐伯が話していた。
そうだ。そこだ。
俺は再びリビングの三人を集めた。
「犯人が分かりました。犯人は、この中にいます。そして、その人物は嘘をついていない」
全員が息を呑む。俺は小野寺を真っ直ぐに見据えた。
「小野寺さん。あなたは天堂CEOを殺していない。それは真実でしょう。なぜなら、彼を殺したのは、彼自身なのですから」
「な……何を言って……」
「あなたは天堂CEOの潔癖症な性格を利用した。彼の部屋の換気システムに、ある仕掛けを施したんです。彼が毎朝スイッチを入れると、天井裏に隠した鈍器が彼の頭上に落下するように。凶器はワイヤーで天井裏に引き上げられ、密室と凶器の消失トリックが完成する」
小野寺の顔から血の気が引いていく。
「あなたは、彼が死ぬための『罠』を仕掛けただけ。引き金を引いたのは天堂CEO自身。だからあなたは『自分は殺していない』と、本心から、心の底から信じている。あなたの主観では、それは『真実』だ。違いますか?」
沈黙が場を支配する。俺は最後の質問を投げかけた。
「では、質問を変えましょう、小野寺さん。あなたは、天堂CEOが死ぬ原因となる罠を、彼の部屋に仕掛けましたか?」
小野寺は俯き、唇を震わせた。ここで彼が「いいえ」と答えれば、ヴェリタスはけたたましい警報を鳴らすだろう。彼の沈黙は、何よりも雄弁な自白だった。
真実は暴かれた。だが、研究所の空気は晴れるどころか、さらに重く淀んでいた。嘘がつけない空間で互いの本音をぶつけ合った俺たちに、もはや以前のような関係は望めない。
真実を暴くシステムがもたらした、救いのない結末。俺は窓の外に広がる深い森を見つめながら、真実とは、時として嘘よりも残酷なものなのかもしれないと、静かに考えていた。
嘘つきのいない密室
文字サイズ: