「この静寂は、死の色をしている」
調辺律(しらべ りつ)は、目を閉じたままそう呟いた。彼の仕事は探偵。ただし、普通の探偵ではない。彼は、あらゆる「音」を聞き分け、記憶し、そこから真実を紡ぎ出す、音響探偵だ。
依頼人は、憔悴しきった様子の女性、鷹宮綾子。数日前、彼女の夫であり、精密機器メーカーの会長だった鷹宮宗一郎が、書斎で死体となって発見された。書斎は内側から鍵がかけられた完全な密室。警察は状況から服毒自殺と断定したが、綾子は「夫は殺されたに違いない」と主張していた。
「旦那様の死亡推定時刻、屋敷にいたのは三人。奥様、ご長男の和也さん、そして家政婦の佐々木さんですね」
助手の僕、相田が確認すると、調辺は僅かに頷いた。彼の興味は、人間の感情や動機よりも、その場に響いた「音」にしかない。
僕たちは関係者から話を聞くことにした。
「私は自室で本を読んでおりました。何も、音は……」妻の綾子は、か細い声で証言した。「書斎と私の部屋は離れておりますし」
「僕は庭の手入れをしていました」と語るのは、父親と経営方針で対立していた長男の和也だ。「書斎の方から、ガラスがカシャンと割れるような、小さな音が聞こえた気がします。気のせいかもしれませんが」
そして、長年鷹宮家に仕える家政婦の佐々木は、困惑したように首を傾げた。「キッチンで換気扇を回していたので……。でも、一瞬だけ、キーンと響くような、高い金属音が聞こえたような……」
三者三様の、食い違う証言。無音、ガラス音、金属音。この不協和音が、事件の核心だと調辺は確信したようだった。
彼は再び書斎に戻ると、部屋の中央で目を閉じた。まるでオーケストラの指揮者のように、空間に残された音の残響に耳を澄ませている。やがて、彼はゆっくりと目を開け、壁に掛かった大きな鳩時計を指差した。精巧な彫刻が施された、ドイツ製のアンティークだ。
「相田君、この鳩時計について調べてくれ。特に、故人との関わりを」
僕の調査で、宗一郎が毎晩十時きっかりに、この鳩時計のゼンマイを巻くのを日課にしていたことが判明した。そして、彼の死亡推定時刻は、まさにその夜の十時前後だった。
「パズルのピースは揃った」
調辺は関係者全員を書斎に集めると、静かに語り始めた。
「これは自殺ではありません。そして、犯人は犯行時刻、この書斎にはいませんでした。この密室こそが、犯行を可能にした舞台装置なのです」
彼は鳩時計を指差す。
「犯人は、宗一郎氏の日課を知り尽くしていました。そして、この鳩時計に恐ろしい細工を施したのです。毎晩十時、時刻を告げるために鳩が飛び出す。その瞬間、内部に仕掛けられた毒針が、鳩の真下にいる人間の首筋を狙うように」
一同が息をのむ。
「宗一郎氏は、いつものように時計の前に立った。そして、時刻が来た瞬間、鳩の鳴き声と共に、声なき死の針が彼を襲った。即効性の毒です。彼は自分が殺されたことさえ理解できずに絶命し、密室が完成した」
長男の和也が血相を変えて反論する。「馬鹿な!そんなこと、証拠があるのか!」
「音の証拠があります」と調辺は冷ややかに言った。「佐々木さん、あなたが聞いた『キーン』という金属音。それこそが、改造された時計内部の機構が立てた、毒針の発射音です。キッチンまで微かに届いた、真実の音でした」
「では、僕が聞いたガラス音は……」
「それはあなたの創作です、和也さん」調辺は和也を真っ直ぐに見据えた。「あなたは、自分が仕掛けた装置の作動音が誰かに聞かれることを恐れた。だから、万が一誰かが音のことを口にした場合に備え、『ガラスが割れる音』という偽の情報を先に提供し、捜査を攪乱しようとした。しかし、その嘘が、あなたが犯人であることの何よりの証拠になった」
調辺は続けた。
「あなたはかつて、時計職人を目指していたそうですね。この鳩時計を改造する知識と技術があった。そして、父親を排除し、会社の実権を握りたいという強い動機もあった。警察がこの鳩時計を分解すれば、内部から発射装置と、あなたの指紋が付いた毒針が見つかるでしょう。あなたの部屋からは、犯行に使われたものと同じ毒物もね」
和也は、顔面蒼白のまま、その場に崩れ落ちた。
事件が解決した後、僕は調辺に尋ねた。
「なぜ、すぐに鳩時計に気づいたんですか?」
彼は、事務所の窓から見える街の喧騒に耳を澄ませながら答えた。
「あの書斎は、奇妙なほどに『整った』静寂だった。だが、一点だけ、不協和音が混じっていたんだ。鳩時計のゼンマイが、ほんの僅かに緩んでいた。毎日巻かれていたはずのゼンマイが、その日だけは役目を果たせずに止まっていた。それは、時計が『仕事』を終えたことを示す、何より雄弁な音だったのさ」
僕は、彼の背中を見つめた。常人には聞こえない音を聞き、死者の声なき声を代弁する男。彼の耳には、この世界は一体どんな音色で響いているのだろうか。僕はただ、次に彼がどんな事件の旋律を解き明かすのか、期待に胸を膨らませるだけだった。
音響探偵の事件録:鳩時計の不協和音
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